44話 復讐の終わらせ方
「ひぃいい!」
キュィィイイイイン。
耳障りな音に男は咄嗟に耳を塞いだ。
(知らない。なんだ、アレは……!)
男は全身の産毛が逆立った。
まるで自身の魂そのものを覗き見られた、そんな感覚に襲われた。術者として知識量があっても、風太が何をしているのかまったくわからない。わからないということがどれほどの恐怖を生むのか、男は今まさに体感していた。
そしてここに至って、風太という人物とは似ても似つかない顔をしていることに気づいた。
(──畜生! こうなったら!)
風太が動く前に男は最後の術式──閃光弾を発動したのち、一目散に逃げた。
霧が濃くなっていく。
男はどこを走っているのかも分からずに一本道をひたすら走った。
わき目もふらず、いつもなら気に掛ける周囲の様子なども無視して、がむしゃらに逃げる。それほどまでに、対峙したモノが異彩を放つ恐ろしい者だったと気づく。
「はあ……はあ……はあ……ここまでくれば……」
霧が深くなり男は手で払い除けるが、忌々しくも霧は彼の周囲を包み込んでいく。術式で無理やり風を巻き起こすが、霧の濃度はさらに増して男を飲み込んだ。
真っ白。
右左、後ろ、前──上。
ぐるりと見回してもどんよりとした霧ばかりで、歩いても感覚がふわふわしていた。
(──幻術か? いや幻術返しの術式はもちろん、目に関する対策は完璧だ。数十の重なり合う防護術式はまだ破られていない。術式も発動したまま……)
「幻術でないなら本当に異世界に飛ばしたのでは?」と男の脳裏に馬鹿げた考えが過る。
ふと目の前に人影が見えた。
すぐさま身構える──がシルエットは女性だと気づき躊躇った。いつもなら先に仕掛けるのだが、なぜか動けなかった。
「ノア兄さん!? うそ……なんで……」
「え、あ──アンナ!」
男は言葉を失った。
眼前にいるのは、数十年前に亡くなった妹だ。栗色の長い髪、鼻先だけソバカスがあるが、明るく元気で気立ての良い娘だった。
霧が今一度男を飲み込むと霧が消えて、金色の麦畑と赤い屋根の風車小屋、煉瓦造りの街並みが広がっていく。
「ありえない」と男は幻術から醒めようと術式を展開するが──発動しない。ただの紙切れ同然だった。
「その腕……やっぱり事故で……。でも、生きていて嬉しいわ」
「あ、アンナ……本当に、本当にお前なんだな」
「当たり前じゃない」
手を引く彼女の温もりに男は泣きそうになった。夢だとしても彼が本当に望んだ者が目の前にいるのだ。
「アンナ、事故とはなんだ? いつ起こった?」
「忘れちゃったの? 去年の夏……」
「西暦で!」
「一九九七年よ? ロンドンに向かう列車が転倒したって……」
一瞬で男の顔が真っ青になった。
(どう言うことだ? オレの知る過去でそんな事件はなかった。いいや、それよりも肝心なことを聞かなくては……)
「兄さん? もしかして記憶が……」
「あの絵は、まだ街にあるのか?」
「絵ってなんのこと? まさかノア兄さん、また変な絵を描くつもり?」
「あ、いや……」
目くじらを立てる妹に男は言葉を失った。妹が死んだのは一九九七年。つまり去年という事になる。
「ここは『絵画の街』だろう? みな自慢の絵画を必ず飾って、春と秋には様々な画家を呼んで展示会をしていたじゃないか!?」
「春祭りと収穫祭ならするけど……自慢できるような絵画なんて、村長さんの家ぐらいにしかないんじゃないの?」
「じゃあトワイライト・ルーカスとの約束は?」
「……誰それ?」
「この街の出身で、世界的に有名な画家だ。そしてオレたちの祖先じゃ──」
「ノア! ノアじゃないか!?」
唐突に声を上げて駆け寄ってきた男を見て、魔術師──ノアは目を見開いた。
生きていれば妹と結婚するはずだった──イザヤだ。陽気で人懐っこい笑みに、ノリもよく頭も回る。
自慢の親友で、ノアの義理の弟になるはずの男だった。彼も去年、妹と共に亡くなっている。
「……って、どうしたノア!? 随分と老け込んだんじゃないか?」
「え、な──」
懐かしい光景にノアは、自分の視界が歪んでいることに暫く気づかなかった。
「う、うるさい。……いろいろあったんだ」
ノアの絞り出す声に、妹のアンナは涙を浮かべて頷いた。
「兄さん……、そうよね。一年前に列車事故で行方不明になったって聞いたときは、もう会えないと思っていたけれど、生きて──帰ってきてくれたんだもの……! また再会できただけでも私は嬉しいわ!」
男はもう訳がわからなかった。
けれど、妹の手のぬくもりも、イザヤの声も全てが現実であり、幻想や術式によるものではない。それだけは理解できた。
(どうなっているんだ……?)
そう思いながらもノアは自分の心の中にあった何かが崩れかけていた。
復讐。
世界を業火にくべる殺意と憎悪が溶けかけて消えていく。
血反吐を吐くような思いで生き続け、トワイライト・ルーカスの作品を全て無に帰すという目的が消えてしまった。なぜならこの世界に、トワイライト・ルーカスという人物そのものが存在していないからだ。
(高度な幻術? それとも──いやだが)
数日経っても男の夢は醒めなかった。
太陽は当たり前のように登り男──ノアを照らす。
この世界にトワイライト・ルーカスは、いないことになっている。さらに魔術も使えず、使い魔が現れることはなかった。魔術結社、『PHANTOM』はもちろん、そういったオカルトは小説などでは見受けられるが、実際に存在していなかった。
考えても、考えても答えは出なかった。
「ノア兄さん、今日は畑の仕事手伝ってくれる?」
「ん、ああ。今行くよ」
魔術師はただの男に戻った。いや、妹のいるただの兄に。




