39話 それぞれの視点
昼川風太が恩寵眼を使って修繕をしている間、教授ことアディバルド・ハインリッヒは彼の手際をジッと眺めていた。
本来であれば作業場での同席はしないという約束だったが、翌日になって駄々をこねたのだ。それはもう──子供の癇癪のように。
赤い絨毯の上で仰向けになって、駄々をこねる中年の紳士。あまりにも見苦しすぎて、風太は思わず許可をしてしまった。もっとも作業台を見られるわけにはいかないので、直視できない入口付近という条件を取り付けるのがやっとだった。
真祖吸血鬼である彼の目であれば、作業台からの距離などあまり意味はない。最悪、隣の部屋からでも見ようとすれば透視は出来るのだが、最愛の妻の傍に居たいという気持ちが勝った結果である。
(ほう。絵具の剥落部分に適した充填剤づくりに取り掛かるか。膠の袋を煮詰めた汁で作る接合剤で溶いて──ふむ)
絵の具層等の欠失部分には、その処置は問題なかった。ただあまりにも普通な修繕作業に目を伏せた。
(セオリー通りだが……やはり見守ることしかできないのは、歯がゆいものだ)
「フウタの邪魔をしたら右腕を切り落とす。殺意を向けたら片目をえぐる。困らせたら左腕、約束を破ったら首を撥ねる」
教授の隣に並んでいる美女──白李はいつになく彼を敵視していた。
緋衣草のように燃える赤い髪、豊満な胸に引き締まった腰回り、華奢な体つきだが、戦いなれた佇まいで彼女は風太に悟られぬように、凄まじい威圧を教授にかけていた。
やや過保護とも呼べる行為に彼は微苦笑する。
「そんなに怖い顔をしなくとも彼は恩人になる。危害を加えるつもりはない」
「今のところは、だろう」
教授は視線だけ隣にいる白李へと向けた。彼女の表情は読めない。風太の傍に居る時とは別人と思えるほど感情の起伏がなく、その実力も計り知れなかった。
「お前からは血の匂いがする。吸血鬼という生態だからという意味ではなく──少なくとも百以上人間を殺しているだろう」
「昔の話だ。それこそ二百年前、彼女と出会う前の──」
教授の人生を変えた絵画。
血と憎悪だけの薄暗い世界で、貴族階級として人間社会に溶け込んで生きていた。あれは、たまたまブラックマーケット──闇市のスポンサーとして誘われたのがキッカケだった。殺した人間が所有していた財産、宝石に彫刻やら絵画、高価なモノを売りさばく。長い年月を生きてきた中での、そう単なる暇潰し。
冷徹で打算的な吸血鬼。
その上気位が高い。
だからビジネスとして組むことはあったが友人と呼べるモノはいなかった。商談中に『黒の年代記』を広めようとする魔術結社は後を絶たなかった。だが彼は人間の児戯に興味など、心の底からどうでもよかった。
そう、あの絵画と出会うまで。
「──っあ」
思わず息をのむほどの出来栄え。
あれほど憎んだ太陽の温かさ。慈しみと微笑み。教授が欲しかったものすべてを持った女。それが自分に向けられたものだと勘違いした。いいや、そうだったらどんなにいいだろうと、想像を膨らませて思い込んだ。
彼女が欲しくて絵画を買い取り、屋敷の奥へと飾る。
愚かにも自分だけに、その微笑みを向けて欲しいと願った。愚行だと周囲に思われてもいい、自分の欠けたナニカを満たしてくれるかもしれない。そう思えるだけで、世界の色が少しばかり変わった。
冷えた屋敷に春が訪れたかのようだった。
冷え冷えする屋敷にポツンと飾り付けられた絵画。
「この絵には、明るい色の内装が好ましいのではないか」と、思うようになり、少しずつ物が増え──部屋の内装から家具まで買いそろえて、花を飾るようになった頃だろうか。
「そんなに色々して頂かなくても大丈夫ですよ」
可憐な声、長く美しい金髪に空のような蒼い瞳。
あの絵画から抜け出した『妖精女王』が実際に姿を見せたのだ。元は妖精の羽根が絵画に馴染み自我を得た──低俗な霊。矮小で浅ましい存在だと思っていた教授の考えが音を立てて崩れていく。
決めつけや固定概念に気づけたとき、彼の瞳に僅かばかりの光が灯った。それから──百年。教授は人間社会に少しずつ溶け込んでいく努力をした。
生態的に不可能とされた太陽の光を克服し、吸血衝動も深い眠りと献血から得ようと福祉事業を設立する。その福祉事業が、同族たちの命を救うことに繋がっていく。
少しずつ教授の周りには人が集まって来た。今までのような金銭目的や損得とは別の──形容しがたい真昼にも似た温かさを持つ者たち。
人もそうでない者もいたが、関係ない──そう気づかせてくれたのも彼女だ。
ずっと傍に居てくれた彼女との蜜月は幸福でしかなかった。だから、彼女の──絵画の修繕は定期的に行ったし、環境も整えた。だというのに──妖精の羽根の輝きが日に日に弱くなっていく。
教授は生まれて初めて失う事への恐怖を知った。幸福だからこそ──失う恐れと絶望。もはや孤高だったあの頃に戻ることなど出来るはずもない。
「私を置いていくなど……絶対に許さん」
声は震えで掠れていた。
エマの腰に手を当てて、強引に抱き寄せる。彼女は半透明になりかけており、実体化を維持することも難しくなっていた。
駄々をこねる教授に彼女は優しく頭を撫でる。甘えるように彼女の肩に顔を埋めた。
「恩寵眼保持者なら……もしかしたら、私の問題を解決してくれるかもしれません。私を作った方も不思議な目を持っていたのですよ」
唯一の可能性。
それから彼女を治せる者を探して世界を巡った。あらゆる人脈を駆使して半世紀かけて拠点を変え──それでも見つからなかった。
彼女は「ねえ、アナタ。私、日本という国を見てみたいわ」と呟いた。春にだけ咲く桜を見たいと。もうその頃の彼女は死を受け入れていたのだろう。
刻々と訪れる終焉。
夢のように甘い幻想が崩れていく。
命の灯が掻き消える刹那──希望が現れたのだ。闇の世界で暗躍してきた『PHANTOM』が頭角を現したことと、世界の均衡維持を目的とした組織『高天原機関』からの依頼。これならばエマを修復できる人材を炙り出すことが、出来るかもしれない。それは賭けだった。
たとえその能力者が『PHANTOM』に、目を付けられたとしても自分の知ったことではない。教授にとってもっと大事なのはエマだけだ。
「エマが助かるなら全てを賭けてもいい」
「…………」
白李は返事こそしなかったものの、教授に対しての敵意が僅かに薄れた。彼女もまた自分よりも風太に重きを置いている。だからこそ教授の想いの強さ、本気だということが少しだけ気づくことが出来た。その変化もまた彼女にとっては新鮮であった。




