1話 人生朝露っていうけれど死にたくない
友人である登良を見捨ててから、十数年が経つ。
なんの変哲もない日常をずっと繰り返して、味のないパンのような日々だったけれど、それでも悪目立ちはしなくなったし、両親や祖父母に心配をかけることも減った。
それなりに友人も出来たし、悩み事といえば将来の夢だとか、勉強だとか彼女ができないだとか──普通で面白みなどない。けれど人の輪の中は気楽でいい。
登良を犠牲に手に入れた平穏。
それは偶然の連続かはたまた奇跡か、宿命の巡り合わせかなんて僕にはわからない。けれど或る日突然、その平穏は終わりを告げる。
不運と幸運が、ごちゃ混ぜに降り注いだ──大学のセンター試験当日。
かねてから襲来していた大寒波は近年稀に見る異常気象で、朝から大雪が世界を白く染めた。土地勘もない僕はもしもの事を考えて、試験会場から一駅のホテルに泊まっていたが、それが功を奏した。
本当なら会場傍のホテルにすれば良かったんだろうけど、みな考えることは同じで予約の電話を入れた時には既に周辺ホテルは満室だったのだ。まあ地震による災害、その他の事情によって決められた期日に試験を実施できなかった場合、再試験が受けられる。
だから大丈夫──と数日前まで思っていた。だが当日、降り注ぐ雪を前に僕は全くもって冷静じゃなかった。
(──もし、再試験がなかったら?)
憶測と不安。
受験のストレスもあって、その時の僕は心の余裕がなかった。一浪できるほどうちは裕福じゃないし、僕はどうしても「あの大学」に通いたかった。
そんな思いに突き動かされてか、ホテルを飛び出して試験会場に向かって足を進めていた。駅前から住宅街を通って徒歩で十五分。昨日のうちに歩いてきたから距離感も把握している。
入念に準備をしておいたのに──気づけば、閑散とした人の気配のない見知らぬ街に入り込んでしまった。「入り込んだ」と言うのは比喩表現ではなく、そのままの意味である。
(しまった! あああああー、もう最悪だ!)
慣れない土地。建物の密集地帯で迷路のような都会に気圧され、色々と余裕がなかった。だから僕は忘れていた。『人が多いところの方がヨクナイモノは集まりやすい』という事を。
田舎ではヨクナイ雰囲気や空間には近寄らなければよかった。だが建物が入り組んでおり、人混みがある地域によっては別空間、または別次元と重なるすることがままある。神隠しなんていうのは、そういった異なる道の入り口だったりする。天狗や狐の通り道や異界抜け道、黄泉の入り口エトセトラ。それらには「境界」があり、それとなく目印がある。
地蔵や道祖神の像、岩や松や竹林、川や橋など様々だがそういった何気ないものが大きな意味を持っていたりするのだ。
小さな目印を見つけられれば、面倒ごとを回避できる。
だが都会は地形や家々が密集しているせいで、ゴチャゴチャしているせいで目印に気づけない。なによりそういった目印が区画整備などの理由で、場所をずらされてしまったりする。
(なにこれ! 都会怖い、都会怖い!)
そんな訳で僕が可笑しくなったわけでもなく、世界が重なった──異界に紛れ込んでしまったのだ。ありふれた日常から、僕の嫌いな非日常。こういったときは確実に面倒ごとに巻き込まれるというフラグが立つ。もしそれを面白そうなどという奴がいたら、いますぐ僕と変わって欲しい。いや、本当に。
異界では常識が通用しない。そして異界の特徴は文字が歪み、鏡文字になる。それは標識も同じで、僕はすぐさまそれを確認した。
降り注ぐのは、真っ白な牡丹雪。
吐く息は白くて、手足が痛い。
ついほんの数分前まで積雪は五センチ程度だったのに、今では三十センチ以上に積もっていて、進もうとするだけで一苦労だった。
ついには足がもつれ、僕は誰も歩いていない雪の上に倒れ込んだ。
運がないし、本当にツイていない。しかも転んだ拍子に伊達眼鏡が外れて、どこかに落ちてしまった。
(まずい、まずい、まずい!!)
僕は反射的に起き上がると慌てて眼鏡を探す。
試験会場の受付まで時間がない。──それはそうだけど、もっと直近で不味いのだ。なぜ僕が伊達眼鏡なんてかけているのか。残念ながら僕が超絶イケメンで目立たぬようにかけているとかじゃない──僕が普通でいる為の大事な道具なのだ。
幼い頃に友人から貰った伊達眼鏡は、毎年誕生日になるとベッドの上に新調された眼鏡が置いてある。あの特別な力を持つ登良なら、そのぐらいは出来るだろう。
「ア……。アア…………」
どすどす、と誰かが近づく音が背後から聞こえる。
異臭と共に迫りくる悪寒に、僕は振り向かずにその場から立ち上がって駆け出した。僕が座り込んでいた場所に、不可視の何かが襲い掛かる。
「ひっ!」
間一髪、僕は得体のしれない何かから逃れると、前を向いて力いっぱい駆け出す。振り返ることなどはしない。