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メルセルヴィーテ帝国の裏歴史  作者: 木月橘
2.皇太子の黒歴史
8/19

③クリフの受難

本日二話目です。


マリーウェザーはヤバい子です。

段々本性を現すので無理だと思った所でお戻り下さい。




 クリフはその日も通常勤務だった。その予定だった。

 いつも通り出勤して、いつも通り仲間達と挨拶を交わし、いつも通り休憩室の奥にある更衣室へ行く。そして、いつも通り着替えようとしていた時に異変を感じた。

 異変を察知したのはクリフだけではない。

 室内に居た多くの仲間が同じように異変、それも感じた事の無い言い知れぬ空気を感じ取り身構えた。


 ここは皇宮。

 目にする事は無くとも守護神の代理たる天上人、皇族の御座す宮殿の出入り口。一般兵とは言え皇族の住まう皇宮に出仕する者達は、敏感に不穏な気配を感じ取り各々身構えた。

 気配は休憩室の外から。

 扉が開かれる音。休憩室に居た面々の驚き戸惑う様子が伝わってくる。

 クリフは近くに居た同期と視線を交わした。

 何が起こっているのか。

 やがて足音は更衣室へと向かって来た。脱ぎ掛けていた羽織りを脱ぎ手に持ったクリフは窓を確認した。室内の幾人かも同じ行動をしている。

 問題無い。何があったら最も足の速い者が窓から飛び出し異変を知らせて回るだろう。クリフは足留め要員だ。

 覚悟を決めた所で遠慮なく扉が数度ノックされ、誰の返事も待たずに開かれた。それはこの更衣室を使い慣れた者の動作だった。


「フィルアスはいるか?」

「え、班長?」

「えええ……何だって班長がそんな不吉な気配を」

「フィルアス?」

「は、はい! ここに。……如何なさいました?」


 あれだけ皆で身構え最悪の事態を想定していたのに、現れたのはクリフの所属する門前警護班の班長だった。

 一気に気が抜けた。

 休憩室に居た面々の戸惑った気配も、不穏な空気を発していたのが班長だったからだろう。賊じゃなかった。ちょっと良かったと安堵した。


「ああ、フィルアス。良かった。そのままでいい、着替えなくて良いからちょっと来い」

「はい。……え、このままですか?」


 まだ着替える前だ。仕方無くいざと言う時に目隠し代わりに使おうとしていた羽織りにまた袖を通しながら班長の元へ向かう。

 やはり先程感じた言い知れぬ空気は勘違いではなかったようで、その異様な空気はまだ目の前の班長から醸し出されている。初めての事だった。


「……お待たせ致しました」

「フィルアス。これから驚きの連続だとは思うが心を確かにな」

「既に驚いております」

「こんな事で驚くな。心臓が足りんぞ」

「なんですか。何があったんですか? 何があるんですか!?」

「私の口からは言えない事なんだ。とりあえず行ってくれ」

「どこへですか?」

「……宰相閣下がお呼びだ」

「さいっ!? え、……え!?」


 せめて制服に着替えてからの方がとクリフは粘ったが、良いから行け今すぐ行け絶対にそっちの方が好みだから早く行け喜ぶから、喜ぶから! と追い立てられた。

 なんで? と問う間もなく蹴り出された。

 門番用の更衣室から出されると、今度は彼ら用の休憩室がある。更にそこから出ると廊下には騎士がいた。クリフからすると憧れの上級職だ。


「クリフ・フィルアスか?」

「はっ。クリフ・フィルアスであります」

「宰相閣下がお呼びだ。……それは私服か?」

「はっ。着替える直前でした、申し訳ありません。数分頂ければ直ぐに着替えて参ります」

「いや、必要ない。むしろその方がお喜びになるだろう。案内する。付いて来るように」


 だから、なんで?




 足を踏み入れた事すら無いような皇宮の奥に案内されるがまま付いて行くと、とある重厚な扉の前で騎士は立ち止まった。


「この先に宰相閣下が居られる。入るように」


 案内するなら室内まで案内してほしかった。入るの? 俺は今からこの重厚な扉の向こうへ行く為にこの扉を開けるの?

 内心泣きながらクリフは必死に上位貴族相手のマナーを思い出そうとしていた。だが、混乱した頭には何も浮かんでこない。

 どうにでもなれと開き直って一般兵として振る舞う事にした。


 扉を叩く。

 軽くノックしたつもりが、ごんごんごんごんと鳴った。コンコンとかじゃなかった。もう本気で逃げたい。

 

「入りたまえ」

「失礼致します」


 すぐに返事が返ってきた。

 室内に入るとクリフの父親よりも少し若そうな、けれど比べものにならないほど威厳のある人物が立っていた。我が国の宰相やっべ。


「お待たせして申し訳ありません」

「呼び出したのはこちらだ。出勤前にすまんな」

「とんでもございません」

「君が……フィルアス君か?」

「はっ! クリフ・フィルアスと申します」

「いくつか聞きたい事がある。答えたくない事には答えなくて構わない。些か踏み込んだ質問もしてしまうであろうから、遠慮はしなくともよい」

「はっ」


 するに決まってるじゃないですか、と思うのはお約束だろう。

 クリフは緊張で手が震えた。


「すまんな。……君は子爵家の次男だそうだな。兄弟は全部で何人だ? 今は何をしている?」

「兄と姉と弟が一人ずつおります。兄は次期子爵として週の半分は実家で父と執務を、残り半分は王宮の政務官として出仕しております」

「ああ、そうだ。フィルアス子爵と言えば勤勉で実直な政務官であったな。子息も一度見た事があるが……父に似て真面目に働いていた」

「ありがとうございます」


 めちゃめちゃに緊張していたが家族を褒められると嬉しくて心が温かくなった。ありがとう、生真面目な父と兄よ。貴方達のお陰でクリフは今こうして謎の尋問の最中で心を救われている。


「確か昨年、子が生まれていたな。男児か? 女児か?」

「はい、第二子です。兄は四年前に婚姻しておりまして、昨年生まれたのは女児です。上に三つになる男児がいます」

「他の兄弟は? どのように過ごしている?」

「弟は領地にて父と兄を支えております。姉は昨年、隣領の子爵家の嫡男と婚姻を結び今年の初めに子をもうけております」


 答えながらクリフは内心驚き戸惑っていた。

 小さな、それも首都から遠く離れた僻地のような領地しか持たない子爵家の家族情勢まで、この宰相閣下は頭に入っているのか。

 どこまで覚えられているのだろう。


「君ではなく弟君が領地に入っているのか?」

「はっ。自分に経営の才はありません。一昨年の集中豪雨被害の際に支援の為、頭の回転の早い弟が現地へ赴きました。そこで見事に対応し、そのまま領地を任せる事となりました」

「ふうむ……フィルアス領の豪雨災害か。確かに記憶にある。あれか。……して、その弟君には配偶者はいるのか?」

「はい。先々月に婚姻をしました」

「では、結婚していないのは君だけと言う事か」

「はい」

「相手はいないのか?」


 本当にズバズバ聞いてくるな。


「お恥ずかしながら、学生時代は小さな子爵家の地味な次男など見向きもされませんでした。特に際立った才も無く、自身を売り込む事も出来ません。幸い、家のことは兄弟達の縁組みで安泰です。自分は辛うじてマシな剣術を磨き今の職を得ました」

「現状に不満は?」

「ありません。歳の近い弟が優秀な事もあり、幼い頃から何れは平民になると覚悟しておりました。一般兵とは言え皇宮に出仕でき望外の喜びを感じております」


 むしろ就職してからの方がモテるようになった。

 いや、正確には皇宮関連の職に就いている、という事実に群がる女性が居たというだけだが。それでも仲間と酒を飲みに出たり買い物に出たりすると、街の女性達に声を掛けられるのは存外嬉しいものだった。

 こうしていつか伴侶を見付けるのだろうなと何となく考えていたくらいで、クリフは現状に満足している。正直、弟が優秀で良かったと心から感謝しているくらいだ。


「なるほど、なるほど。……君、クリフ君だったかな」

「はっ」

「私の娘を知っているか?」

「はい。皇太子殿下と同じお歳のご婚約者様と心得ております。一昨日の卒業式典にて皇太子殿下と共に学園をご卒業されたと聞きました」

「うむ。その卒業式典の夜会の折、君はどこに居た?」

「その日は……いつも通り皇宮の門番をしておりました」

「夜会の時間もか? その日の具体的な勤務体制は?」

「式典会場の警備に人員を多く配置する為、早朝から夕方までの長時間勤務の日でした。次の日も早出のシフトでしたので、疲れもあって寮に帰ったらすぐに寝てしまい……、恐らく夜会の時間にはもう寝ていたかと」

「そうか。ならば、あの騒ぎは知らないのだな」

「騒ぎ、ですか?」


 何かあったのだろうか。一昨日の事なら昨日知らされてもおかしくはないが、皇太子殿下の参加する式典での事なら、場合によっては箝口令が敷かれる事もあるだろう。

 今回はそれかも知れない。

 何れにせよクリフには何も知らされていないのだから、それはきっと知らない方が良い事なのだろう。


「ああ。それで、クリフ君。私の娘と会った事はあるか?」

「ご令嬢と? ……確か、両陛下のご成婚二十周年記念のパレードの際に」

「会ったのか?」

「民衆がパレードに近付き過ぎないよう街道の警備にあたっておりました。警備兵は民衆を見張るのが目的ですので、パレードには背を向けております。したがって断言は出来ませんが、確かご令嬢も皇太子殿下とパレードにご参加し、自分の後方を通られたかと」


 押し寄せる民衆を留めながら、耳元で歓声を挙げる人々のあまりにも大きな声に、鼓膜の無事を願い続けたものだ。体力的には問題無かったが鼓膜的にはしんどかった。後日、仲間達も同じ事を言っていたくらいには。

 あれからしばらくクリフの聴覚はおかしかった。

 確か、皇太子殿下を呼ぶ歓声と共にかの婚約者の令嬢を呼ぶ声もあったように思う。


「……そうだな。その日は娘もパレードに参加していた。姿を見てはいないのか?」

「民衆に背を向ける事になります。職務怠慢ですので拝謁したくとも出来ません」

「まあ……そうだな。それは会った内に入らんな。他に娘と会った事は?」


 さっきから本当に何なんだろう。

 クリフは悩んだ。

 宰相閣下のご息女とか歳が離れている事もあって学園の在籍年すら一年も被らなかった。そもそも爵位が離れている。例え被っていたとしてもすれ違う事すら無かった可能性が高い。

 そんな人と会う機会などある訳が無い。


「ほぼ毎日のように皇家の教育を受ける為や皇太子殿下と会われる為に皇宮へいらしていたかと存じます」

「そうだな」

「自分は門番ですので何度か宰相閣下の家紋のついた馬車をお通ししましたが、どの時も会話をするのは御者とです」

「それは……まあ、そうだろうな」


 馬車のカーテンはいつも閉まっていた。当然だ。

 そちらへ視線を向ける事すら失礼にあたるので意識して御者の対応をしていた。顔を見る事すら出来ない。


「あ、城下町に出回っている皇家の絵姿と共にご令嬢の絵姿もありました! お姿だけでしたら拝謁した事が」

「絵姿か……」

「はっ」

「声は?」

「お声……ですか。えー……、申し訳ございません。自分のような者では接点がまるで無く……」

「いや、良い。当然の返答ばかりで安堵している」

「はっ」

「その娘なのだがな、皇太子との婚約は解消となった」

「かいうおうええ!?」

「驚いたか」

「し、失礼致しました。驚きました。自分が聞いても良いものなのかと」

「何れ発表されるが、それまでは他言無用だ」

「畏まりました」


 それなら何故言った。クリフはもう吐きそうだった。

 何故、宰相はクリフの家族関係を把握しているばかりか、やたらご令嬢との関係を問うてくるのだろう。

 勘弁してほしい。

 解消? 婚約解消? この時期に?

 卒業から数ヶ月後には婚姻を控えているのにどうして今なのだろう。何があったのか。箝口令を敷かれていそうな卒業記念の夜会での事件はこれのことか。


「非は完全に皇太子側にあってな、皇家側から次の婚約の世話を全面的に見ると言われている。協力は惜しまないそうだ」

「そ、そうなんですか……」


 あ、良かった。

 なんかよく分からない冤罪でクリフがご令嬢を誑かしたとか何とか言われたら本気で泣く。会ったり話したりするどころか、目すら合った事の無い異性を誑かせるような技量など持ち合わせていない。

 最近、街で話し掛けられてちょっと会話をしたり酒場で一瞬相席したり、ようやくその程度なのだ。クリフの異性との関わりなんて。

 妙な誤解が無くて良かった。


「ならばと娘は、マリーは慕う相手がいるからその者との縁組を望んだ」

「はあ。そ、そうなんですか。それは何よりと言いますか、良かった……ですね?」

「その相手が君なんだが、娘と会って貰えるか?」


 クリフは考えた。混乱した頭で一生懸命考えた。だが、思い当たらなかった。


「キミ殿ですか。…………すみません、自分の既知にキミと言う男はおりません。ご紹介したいのは山々ですが」

「違う。キミと言う名なのではない。クリフ・フィルアス、君だ」

「え?」

「私の娘、マリーウェザーが望んでいるのはクリフ・フィルアスとの婚約だと言っているんだ」

「……そうなんですか。奇遇ですね。自分の名前もクリフ・フィルアスなんですよ」

「そうだな。この国にフィルアスの名の付く家はフィルアス子爵家のみであるし、そこでクリフと言う名を持つのは君だけだな。この国でクリフ・フィルアスのいう名を持つのは君だけだ」

「他国に嫁がれるのですか?」

「君に嫁ぎたいと言っている。マリーウェザーは、今、私の目の前にいる、門番の君に嫁ぎたいと。そう言っているんだ」

「どなたとお間違えですか?」

「だと良いと思って本人に詳しい話を聞き後悔し、今日こうして君から話を聞いたところ……全て合致した」

「いや、いや、そんな。そんな、まさか……」


 数々の質問の意図はそこだったのか。

 宰相も信じられなかったのだろう。娘の想い人が一般兵の、それも地味で冴えないほぼ平民の男だなんて。

 だからどういう男なのか聞き出し、それを元にクリフへ質問のような詰問のような事を繰り返し、結果クリフが娘の想い人だと確信したらしい。

 だが、当の本人であるクリフからしたら青天の霹靂である。

 いつの間にそんなに調べられていたの!?


「同感だ。本当に、まさかとしか言えん。とりあえず本人に会って確認させては貰えないか? 本当に君なのかと」

「はっ。何かの間違いだと思われますので、お会いすればすぐに誤解は解けるかと」


 そうであってくれとしか思えない。これまで二十五年も地味な子爵家の次男だったのに、突然に公爵閣下の娘の想い人とか笑えない。


「だと良いんだがな」


 クリフの願いとは裏腹に、宰相は諦め顔で窓から遠くの景色を眺めていた。






「初めまして、マリーウェザー・ロン・オースティンと申します」

「クリフ・フィルアスです。初めまして」


 宰相に案内されたのは王宮の一室、貴賓に与えるような豪華絢爛な客室だった。

 それだけでも緊張してクリフの手足は同時に出てしまう珍妙な歩き方になったのに、そこでは部屋に似つかわしい麗しの令嬢が彼を待っていた。

 何これ夢かな。現実が受け止められない。

 街の女性を綺麗だ綺麗だと仲間達と騒いでいたが、本当の綺麗を見せ付けられてクリフの思考は彼方へと霧散した。

 なんかめっちゃ美人がいる。彼の思考回路は十年以上巻き戻った。


「この度は私の我儘のせいでフィルアス様には多大なご迷惑をお掛けし、また多分に驚かせてしまったかと存じます。申し訳ありませんわ」

「いえ、そんな。とんでもございません」


 うわ、やば。声までめっちゃ綺麗。高位貴族ってすごい。


「ですが何かの間違いでも誤解でもありませんのよ。私マリーウェザーは、真にクリフ・フィルアス様をお慕いしております」

「なんで!?」


 驚き過ぎて素が出た。

 流石にヤバいと慌ててこほんと咳払いをして誤魔化す。誤魔化せる訳が無いと分かっている。


「失礼致しました。あの……どちらかでお会い致しましたか?」

「いいえ」

「いいえ、と言う事はやはり初めましてですよね?」

「はい。ただ、毎日のように皇宮へ通う際にこっそりと見ておりましたの。門で馬車から時折見かける貴方のお姿が、聞こえる声が好ましいと感じたのが最初です」

「声、ですか」

「一言で言うともろ好みど真ん中です」

「え、なんて?」


 今のは空耳か?

 令嬢らしくない言葉が聞こえた気がした。


「超絶ど好みです」

「あ、はい」


 聞き直してみたけれどもっと令嬢らしくない言葉が飛び出してきただけだった。


「あああ〜〜! 仕事中のキリッとしたお声も良いけど戸惑っているお声もいい〜〜〜〜」

「ひえっ……。え、あ、はい。はい?」

「めちゃくちゃ戸惑ってる〜〜身悶えるわあ」

「さ、宰相閣下……」


 どうしたら良いのか遂に分からなくなったクリフは、半泣きで離れた位置に待機している宰相を振り返った。

 が、首を横に振られる。


「すまん。これが娘の本性なんだ」

「本性……?」


 何それ高位貴族怖い。


「いきなり婚約者にしてくれだなんて贅沢は申します」

「え、なんて? え?」

「権力だけでなくあるものは何でも使います。婚約してから全力で落としにかかりますのでとりあえず婚約して下さい」

「……なんて?」

「とりあえず婚約です。婚約して下さい。売約されて下さい。婚約します。マリーウェザーは絶対に。皇帝陛下から許可は得ておりますので、後はフィルアス様の署名だけで婚約成立です。さあさあさあさあ! 陛下のご意向ですよ。ご署名を」

「え、待って凄い怖い」

「これは一種の脅迫です。恐ろしくて当然ですよ」

「ぴえん」


 麗しの令嬢の背後に龍を見た気がした。




「はてさて、フィルアス様。これでマリーウェザーは貴方の婚約者です」

「え、え……なんで? え、なんで?」


 マリーウェザーと言う名の龍に睨まれたクリフと言う名の兎は、逆らう事も出来ずに婚約宣誓証にサインをした。するしかなかったのだ。

 だって皇帝陛下の署名捺印はもうされていた。

 だって宰相閣下の署名捺印はもうされていた。

 だってクリフの父子爵の署名捺印までもうされていた。お前もか、父上ぇ……。

 何が起きている。


「クリフ様。私、マリーウェザーですよ」

「そうですね」

「ちゃんと名前で呼んでくれないと陛下に泣き付きます」

「呼ばれた気がして来たぞ」

「皇帝陛下あっ!?」

「ささ、フィルアスのとこの次男よ。呼んでやれ呼んでやれ」


 話し掛けられた。皇帝陛下に話し掛けられた。

 目の前にいるというだけでもう気絶しそうなのに個人として認識されて話し掛けられた。

 クリフの魂は半分抜けかけている。


「マ、マママ、マ……マ、マリーウェザー様……」

「マが多い。次に敬称を付けたら皇后様に泣き付きます」

「呼ばれなくても来る気だったわよー」

「皇后陛下あっ!?」


 権力に殴られている。クリフは今、権力にフルボッコにされている。


「マ、マ、マ……マリーウ、ウ…………ううう」

「マリーウェザー、あまり虐めてやるな」

「親しい方達はマリーと呼びますの。さあ、どうぞ」

「う、うう……、マ…………マザー」

「最悪の略し方ですね。父に泣き付きます」

「拒否する。クリフ君があまりにも可哀想だ」


 宰相があまりにも不憫なクリフの味方になってくれた。有難いけれどそれでもクリフの魂は抜けそうだ。

 天上人に囲まれ過ぎた。


「待って。本当に待って。なんだこれ、夢か? 夢? なんで? なにかしたっけ。あ、死ぬのかな。そろそろ死ぬのかな。割と充実した人生だった……」

「ああああ〜〜〜〜その戸惑い方ベスト・オン・ベスト〜〜」

「ひえええ」

「私服? ねえ、それ私服ですよね? はー、堪らん。あー、堪らん。選ぶ衣服までパーペキパーフェクトパーリィー。レッツパーリィー。姿形や声から性格だけではなくて服のセンスまで好みオブ好み。私に囲われる為に生まれてきたのね素晴らしいわありがとうございますフィルアス様のご両親ご先祖様」


 班長や騎士が言っていたのはこれのことだったのだろうか。本当にめちゃくちゃ喜んでいる。何を言っているのか半分くらい分からないけれど。


「おい、マリーウェザー。なんで私は呼ばれないんだ。ずっと待機していたのに」

「皇太子殿下あっ!?」


 限界だった。クリフの精神はもう限界だった。

 もう虚無を見詰めるしかない。


「そのまま一生待機していても良かったのよ。貴方に泣き付くくらいならミルイニ海峡を反復横飛びで横断するわ」

「相変わらず意味の分からん例えだが、これ以上無いくらい拒否されているのは分かった」

「今貴方がいるその扉が出口よ。一歩下がって閉めてちょうだい」


 婚約解消した割には仲良いな、この二人。やっぱり結婚すれば良いのに。


「そう言うな、マリーウェザー。宰相から脅は……もとい、依頼されていた件が了承された。君とそこの、そこの……そこの……誰だっけ?」

「クリフ・フィルアスと申します」

「それだ。君とフィルアスが婚姻を結んだらめでたく伯爵だ、おめでとう」

「? おめでとうございます」

「お前がめでたいんだって」

「どなたがですか?」

「君だ」

「恐れ入ります。キミダ殿とはどなたでしょう」

「ははは! 見ろ、マリーウェザー! フィルアスは大混乱だぞ」

「可愛い」


 ぐしゃぐしゃになるから髪を混ぜるのは止めてほしい。止めてほしいが相手は皇太子。

 クリフはひたすらに虚無を見詰めた。


「どこから伯爵位を強奪してきましたの?」

「してないしてない。そんな悪どい事なんかしてない。ほら、昨年の麻薬密輸組織団の摘発の際に幾つか貴族を潰しただろう? その時の功績として潰えた爵位はそのまま私預かりになっていたんだ」

「そんな曰く付きの爵位ですの?」

「いや、その時に父上……皇帝陛下の元へ帰属し、後に私に与えられた形を取っていた。一度私が継いでいる」

「ロンダリング済みですか。それならまあ良いでしょう。フィルアス様、皇太子殿下より爵位の強奪に成功いたしましたよ。私達が結婚しましたら伯爵ですわ」

「なんでですか!?」


 酷い。虚無すら見詰めさせてくれない。


「マリーウェザーの外交術を手放すのは得策ではない。伯爵と伯爵夫人ならば海外の要人と相対しても失礼は無い地位だろ?」

「じ、自分の実家は子爵でして……」

「親兄弟より上の爵位は気まずいか。問題ない。君はオマケだ。君がいなくては外交などしないとマリーウェザーが言うから、君はただマリーウェザーと結婚してくれればそれでいい」

「子を成すも成さぬも、家を残すも残さぬも自由だ」


 皇帝と皇太子のタッグが凄い追い詰めてくる。クリフはもう瀕死なのに凄い追い詰めてくる。


「何故、自分なんですか……?」

「顔と声と手」

「う、うお……」

「先程も申し上げました通り、声はもろ好みど真ん中です。お顔も素敵。もう少し地味でも良かったくらいですが目元は完璧でしてよ。あと手。大事よね〜〜。骨張っていて節々がごつごつしている男性の手。働いている男の人の手。性格もある程度は把握しておりますのよ。貴方には密偵を付けて動向を把握し、言動の一つ一つを事細かに報告させておりましたからね」

「え、え、え……い、いつから……」

「貴方に目を付けた四年前からです」

「う、うわあああ…………」

「二度と酒場には行かせませんからね。あ・な・た」


 こういう男性を目指したら少しは女性に振り向いてもらえるんじゃないの、と学生時代に姉から渡された彼女の愛読書。その書物に出て来た主人公の少女を溺愛する男とマリーウェザーの姿がクリフには被って見えた。

 物語の主人公も、その物語を好んで読んでいる女性陣も凄いな。これにときめくのだから。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 少女小説?の溺愛?(ヤンデレ?)系ヒーローとマリーが重なった、っていう最後の感想が特に面白かったです。
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