①前編
本編二話+オマケ+登場人物が誰なのか答え合わせ編の四話の予定です。
ありきたりな乙ゲー的婚約破棄話を目指して失敗しました。
結局いつも通りです。
メルセルヴィーテ帝国には一つ、口頭で受け継がれている話がある。
決して文字に著される事はなく、また表立って口にする事も憚られる内容だが、それでも幾年経っても人々の話題から外れる事の無いものだ。
それは、とある時代のとある皇太子の黒歴史と言っていい。
「マリーウェザー、君との婚約は破棄するよ」
その黒歴史を語る時、人々はいつもこの台詞から語り始める。
まさかの皇太子による婚約破棄宣言。
ああ、だから口頭のみで密やかに語り継がれているのだなと、聞かされる側もすぐに納得する。皇家への不敬にもなりそうな出来事を表立って話すことなんて出来ないからだ。
王侯貴族の通う学園の卒業記念式典の場。そのハレの舞台にあまりにも似つかわしくない突然の皇太子アルベルトの言葉に、彼の声は決して大きくはないが、それでも周囲は途端しんと静まり返った。
ああ、やはり噂は本当だったのか。
人々のそんな心の声が聞こえてきそうな静寂だった。
「畏まりました、皇太子殿下。書類はどちらに?」
突然の婚約破棄の宣言にも一切動じず、マリーウェザーはいつも通り朗らかに笑んだまま頷いた。
そして右手をまるでペンを持っているかのようにくるくると動かして、空に自身の署名を繰り返す。今ここに書類とペンさえあればすぐにでも署名に繰り出す心積もりのある動きだった。
「書類?」
「婚約破棄の書類です。陛下や私の父の了承も得ていらっしゃるのでしょう? 後は私が署名すれば相成るからこうして皆様の前で発表なさったのではないのですか?」
「いや、書類は……まだだ」
「あら? 嫌だわ。どこで滞っているのかしら。申し訳ございません、皇太子殿下。ごめんなさいね、マイル様。すぐに調べさせます」
困ったように頬に手を当てるマリーウェザーを見て、皇太子は予定と異なる婚約者の反応に困っていた。
ちらりと横を見ると驚きで唖然としている恋人のマイル。ぽかんとはしたなく口を開けて、淑女として成っていないにも程がある。あり過ぎる。見ていられない。あれ? こんな女性だったっけ?
そっと振り向けばアルベルトと同じように困惑している側近達。
その中にはマリーウェザーの弟レインスもいる。だが、彼だけは飄々としていた。今回の計画の話をした時にこの場での婚約破棄宣言に反対していたから、己の姉の反応を予想していたのだろう。
情報を漏らさないよう作戦を伝えてからは皇宮に泊まり込ませていたから、彼からマリーウェザーに伝わったわけではない……筈だ。
普通に軟禁だとかそんな声は聞こえない。聞こえないったら聞こえない。
アルベルトは助力を諦めてマリーウェザーへ向き直った。
「違う……。書類はまだ作成してないんだ」
「あら、そうでしたの。早とちりをしてしまって申し訳ありません。では、すぐ作成に参りましょうか」
「待て。君は私との婚約を継続したくてマイルに嫌がらせをしていた筈だ。何故そんなに乗り気なんだ」
腑に落ちなくて思わず問い質すが、相変わらずマリーウェザーはおっとりとするばかりだ。
「婚約の継続? 嫌がらせ? ……恐れ入ります、皇太子殿下。私はそれらに一切思い当たりません。他の方とお間違いではございません?」
挙げ句にこの発言。アルベルトは何だか力が抜けていくのを感じた。
「いやいや、私の婚約者は君だけだろう。間違えようもない」
「それもそうですね。では行き違いでしょうか? 困りましたね。全くの誤解ですので何としてでも解きたいところですが、どうしたものやら……」
「全くの誤解……だと?」
「そうだ! マイル様への嫌がらせについてとことん調べましょう。すぐに私では無いと分かります。いいえ、それよりまずは私の身辺調査ですね。ご安心下さいな、皇太子妃の座に執着など無い事はすぐに証明できます。取り急ぎ殿下の信の置ける方を選別し我が家へ派遣して頂いて、私の部屋の向かって左から二番目の本棚をご覧頂ければ」
「なんで進んで身辺調査させようとするかなこの人!?」
「なんで進んで家探しさせるかなこの人!?」
アルベルトの側近三人の内、マリーウェザーの弟では無い二人が思わず叫んだ。つっこまずにはいられなかった。
公爵家のご令嬢を相手にろくな証拠も無いのにそんな事を出来る訳がない。一人勇んで公の場でこんな事をやらかした皇太子にも止められなかった己にも腹が立つ。
ああ、あちら側にいる卒業生達が羨ましい。皇太子の側近達もあちら側に行きたかった。あの人達は何をしているだろうとこの茶番を眺めたかった。
「あれ? いけませんでした?」
「いけないと言うか想定外と言うか……。それよりだな、嫌がらせに関してはマイルの証言がある」
「はい……、私、とっても怖かった……」
「恐れ入ります、皇太子殿下」
「え、なに?」
「当事者の証言のみでは言った言わない、やったやってないの水掛け論が生じます。それではマイル様に負担がかかりますわ。あってはならないことでしょう?」
「確かに」
「ね。ですから確かな物証や第三者の証言が必要不可欠です」
「ほらほら、皇太子殿下。やはり証拠は必要ですって。何ですか証言のみって。いくらでも冤罪をつくれますよ」
「うむ……そうだな」
ふざけやがって。皇太子の側近の血管はブチ切れそうだった。
こんなにあっさり頷くなら何故今まで彼らが散々言っていた時は頑なだったのだろう。頭が痛い。誰か代わって。側近代わって。
「そもそもですね、私には皇太子殿下の恋人に嫌がらせなんてする理由など無いにも関わらず、こうしてマイル様が未だ怯える程の嫌がらせ……いえ、これはもう犯罪ですね。犯罪行為を犯した者がいて、尚かつその罪を私に擦り付けようと画策した事は明白。つまり国家反逆罪です」
怯えてない。怯えてない。
ちょいちょい強かに笑っているであろうことは、例え彼女が皇太子殿下の隣に纏わり付いているせいで、後方に控えている側近達からは後ろ姿しか見えなくても分かる。それくらい分かる。気配で分かる。
だって我らは皇太子の側近。なんで側近やってんだろって最近よく思うけれどそれでも側近。あー辞めたい。
「皇太子殿下、情け容赦は無用です」
「そうか?」
「ええ。躊躇う必要などありません」
「そうか」
「すぐにでも専門機関に情報収集を指示し、直ちに愚か者共に鉄槌を下しましょう。やるなら徹底的に、せっかくですから日和っている貴族達にも知らしめましょう。未来の皇帝、並びに妃殿下への狼藉、断じて許しては」
「だから! さっきから! なんで貴女が断罪する側の台詞を言っているんですか!?」
マリーウェザーのせいだと嘆く男爵令嬢と諌めない皇太子。どうせならマリーウェザー本人に止めてもらいたかったが何故か本人が一番乗り気。
本気で調べたらきっとボロが出るだろうに、側近達には何の権限も無いからそれも出来なかった。出来る事をやろうとしたら皇太子と上から叱られた。越権行為だそうだ。それならばと両親に相談したがそれは不敬に当たらないかと及び腰だった。ならばと皇帝陛下に相談したかったが今日までに謁見の許可が下りなかった。
完全に詰んだまま本日を迎えてしまった側近達は泣いていいと思う。
先程までおっとりとしていたのに急に支配者の顔になるマリーウェザーに、気配を消して事態を見守っていた生徒達はこっそり溜め息を溢した。
彼女が次期皇后なら安泰だったろうに。皇太子の未だ終わらぬ反抗期には困ったものだ。後方に控えている三人の側近の内、二人が完全に虚無を見詰めている。可哀想でしかない。
次の皇后候補は誰が良いだろう。ちょっと待ってこちらを見ないで下さる!? 私は嫌よ! 私だって嫌よ! こっち見ないで候補に挙げないで呪うわよ!?
「おかしい。おかし過ぎる。何だって主犯の筈の女が誰よりも犯人の厳罰を要求しているんだ? もう訳が分からん」
「みんな、騙されないで! しっかりして。きっとこれが彼女の手なのよ」
「皆って言うな、皆って」
「俺を一同に入れないでくれ俺はただの側近だ仕事だ仕事これは仕事なんだ違うんだ本当にただの仕事なのに……うっ……」
「アル様もしっかりなさって。打ち合わせと違います」
「あ、ああ……そうか。そうだったな。……いや、そうかな? 打ち合わせと違うのなら事実が異なるのでは……」
「そうそう、マイル様の仰る通りです! しっかりなさって下さい。まだ何も調べられていないのに、皇太子殿下の側近ともあろう方々がなんと情けない」
せっかく皇太子が我に返り始めたのに、よりによってマリーウェザーがまた妄想の国へ送り出してしまった。何故だ。
見守る生徒一同は気が気ではない。
側近達はもう虫の息だ。
「だから貴女が言うなって……」
「と言うかだな、マリーウェザー」
「はい、皇太子殿下」
「君がマイルに嫌がらせする理由がないと言うのはどう言う事だ? 君は私の婚約者だろうが」
「そうですね。直にそうではなくなりますけれど、今の時点では一応。まだそうですね。ええ、まだ。まだ……」
早く解消なり破棄なりされないかな、と言ったように聞こえたのは気のせいだろうか。
「やたら念押ししてくるな……。それならば、それは嫌がらせの一番大きな理由になるだろう?」
「……? んん? ……すみません、皇太子殿下。まるで意味が分かりません。私が皇太子殿下の婚約者である事と、マイル様に嫌がらせをする理由が全く繋がりません」
「ですから、貴女は殿下の寵愛を得たマイル嬢に嫉妬をして嫌がらせをしたんだろうと、そう言う事ですよ」
側近の一人が虚無を見詰めたまま説明をするが、それでもやはりどんなに考えてもマリーウェザーにはアルベルトが何を言っているのか分からなかった。
「……? …………?? 申し訳ございません。やはり繋がりません。何故マイル様が皇太子殿下から寵を得たからと言って私が嫌がらせをするのですか?」
「君は……私の心が君ではない他の女性へ向いていても良いと?」
「何がいけませんの?」
「マリーウェザー様、正直に言ってください! アル様に愛されている私の事が羨ましくて、それであんな嫌がらせをしたのでしょう!?」
「マイル……大声を出すんじゃない。公の場だ。耳元で叫ばないでくれ。耳がキーンとする、耳が」
その公の場で婚約破棄騒動を巻き起こしたのはどこの誰だ。どこの。
「え、だって……」
「だってじゃない。普通に話せば聞こえるのに何故叫ぶ必要がある。大声で威嚇するのは乱暴な荒くれ者だけで十分だ。あー、耳が痛い」
「そんな……マリーウェザー様が早く羨ましいって認めないから……」
「羨ましい? はて。何故ですか?」
言ってしまった。遂にマリーウェザーは言ってしまった。
「えっ」
「えっ」
「何故、私が皇太子殿下から愛されている方に嫉妬するのですか? それは私の仕事ですか? 必要事項ですか? 特に指示を頂いた記憶はありません」
「仕事!? 指示!? ……いや、いやいや。君は私の婚約者ではないか」
「今のところそうですね?」
「皇太子殿下へ愛はなかったと?」
だからこの暴挙を止めてくれないのか?
「まさか! 我が国のお世継ぎ様ですよ!? 勿論、敬愛しておりますとも。我が家はれっきとした皇家の忠臣でございます。そこのところ、誤解のないようお願い致しますわ」
「そうではなくてですね。皇太子殿下へ恋情は無かったのかとお伺いしております。平たく言うと、恋愛感情です」
「皇太子殿下に恋情? 恋愛感情!? え、何故?」
「何故、だと……?」
思わぬ言葉にマリーウェザーが驚愕の表情で固まった。けれど彼女のその反応にアルベルトもまた固まった。
後方に控える側近も言葉が出て来ず顔を見合わせるばかりである。
何がどうしてこうなった。
「え、えー……んー、婚約者、だから? とか?」
「えっ!? 皇太子殿下、私の事が好きなんですか!?」
「なんでそうなるかな!?」
「だって、婚約者への恋情って……」
困ったな。そんなマリーウェザーの心の声が聞こえてきそうだった。
「いや、ですからそれは皇太子殿下から貴女への感情ではなく、貴女から皇太子殿下への感情のことですからね? 話はそっちですからね?」
「私が皇太子殿下を好き? いやいや、無いです〜」
「無い、だと……?」
アルベルトは愕然としてマリーウェザーを見た。幼い頃から一緒に居て確かな愛情を感じていたのに、それは彼の気のせいだったと言うのだろうか。
そもそも確かな愛情を感じていたのなら、こんな婚約破棄騒動を起こすなよ、というのは会場全体の共通認識である。言葉にしないだけだ。
「えええええ……なんでぇ。なんで? え、なんで? 何この展開裏ルートでも無かったわよどういうこと……」
「なんでと言われましても、うーん……なんかちょっと無理」
「なんか」
「ちょっと」
「無理、だと……?」
アルベルトは更に愕然としてマリーウェザーを見た。
なんかちょっと無理。なんだそれは。なんだその曖昧な言葉は。それはつまり生理的に受け付けないという事か。どうなんだ。
アルベルトはちょっと泣けてきた。
「一臣下としては敬愛しておりますが、私個人が男性として殿下を見ろと仰られましても困ります。私にも好みがありますのでその辺りに関しては…………ごめんなさい!」
「フラれた……? 待て。私は今、婚約者にフラれたのか?」
しかも好みじゃないと言われた。丁寧にオブラートで包まれているようでいて、完全に破れて溶けて意味を成していないぞ。そのオブラート。
「いえね、だってね……皇太子殿下の事は四つの頃から知っておりますし、正直に言いますと弟と同じようにしか思えません。ごめんなさい!」
「弟と同格……」
「一瞬で二度もフラれてる……」
側近達も会場もアルベルトにかける言葉が無かった。
とんでもない事をやらかしているのに不憫過ぎて同情すらしてしまう。溢れ出る憐憫の念が止まらない。
「ですから婚約破棄は問題ありませんよ! ああ、でも家は弟が継ぎますのでこんな小姑が居てはお嫁にいらっしゃるお嬢様がお可哀想ですからね。次の縁談をご用意頂けたら有難く存じます」
「しかも政略結婚に抵抗も疑問も無いタイプだぞ、あれ」
「だからあの皇太子の婚約者なんてやっていられたんじゃないか?」
「いや、あの皇太子の婚約者だからこそじゃないか?」
「あー」
皇太子の側近二人がひそひそと話し合っている横で、これまでずっと黙っていたレインスが壇上から姉に声を掛けた。
「姉上ー、大丈夫ですよー。何があっても老後まで面倒看ますよー」
「皆様お聞きになった!? うちの弟は素敵でしょう!」
「ずっと本宅に居ても良いですよー。でも、好きな所に邸宅を建てても良いとアリアドネも言っていますよー」
「うちの弟の婚約者も素晴らしいでしょう!」
「でも気を遣って下さいー。アリアドネと姉上は仲が良過ぎますー。せめて離れに住んでー」
「アリアドネ、すぐに結婚して! 弟と!」
「勿論喜んで!」
途端、会場内が黄色い歓声に包まれた。
さり気なくマリーウェザーの後方に控えていたアリアドネも頬を紅潮させて見ている。マリーウェザーを。
あまり面白くはない事態だがレインスは特に気にしない。慣れている。
「はい、そこー。プロポーズは僕にさせて下さいー」