⑤現実を見る
本日三度目の更新です。
「ヴァロンタン、ヴァン。ヴァン、お返事をして?」
今日もヴァロンタンの部屋の扉をシャーロットが叩くけれど応えない。合わせる顔がない。
シャーロットから叱られた日から家族全員を避けて、早半月。
その間に何があったのか、情勢が落ち着いたからとシェイデンとリリーフローレンスは帰って行った。
彼らの事も避けていたヴァロンタンは見送りにも出られなかった。前回は国境に居たアシルが代わりにその場に居たらしいので、それならばヴァロンタンよりも余程良いだろう。けっ。
あの後、皇帝から下された罰は三日間の自室謹慎のみだった。
ヴァロンタンの良識のある優秀な講師が辞めてしまったのはエミリアンのせいだったし、その後に問題のある講師を選んだのは皇帝だったからだ。シェイデン達が滞在している間にヴァロンタンを窘められなかった責任は皇后のものとなった。
それからずっと自主謹慎をヴァロンタンは続けている。
客人が帰国してから皇帝、第二皇子、皇后の順に罰を受けたという。要らぬ混乱を招かぬよう主導は皇太子が行い、それ事態が一切秘匿された。
家族を罰するのはどんな気分だろう。
ヴァロンタンはアシルに申し訳無くて、けれどまだ叱られた事が消化し切れなくて閉じこもっていた。
「ねえ、ヴァン。お姉様は明日、北へ帰ります。その前に一度お顔を見せて。ね。お願いよ」
なんだそれ。
ここに来てお願いとか、今まで殆どお願いなんてしたことなかったくせに、それなのに願うのがそれとか。なんだ。何なんだ。
一体どれだけシャーロットはヴァロンタンが好きなんだろう。そんなにヴァロンタンは特別なのだろうか。
それならば致し方ない。
特別なヴァロンタンを姉に見せてやろう。
「ヴァン……」
「ヴァン、お前、なんでそんな目が腫れて……」
何故かエミリアンも居た。
別に泣き通していたわけではない。だから目だって腫れていない。
妙な勘違いはしないでほしいものだ。
「……出て来てくれてありがとう。落ち着いたから明日には出立します。朝一の予定だから今日中に挨拶をしたかったの」
「そうですか」
「ヴァン、ごめんなさいね。碌な講師も見付けられていなかったのにあんなに叱ってしまって」
「別に……」
「でもね、貴方はこれからですからね。沢山学んで沢山遊んで立派な皇子になりましょうね」
「何ですか。姉上にはどうせ分かりませんよ、僕の心の闇なんて」
「…………」
「…………」
途端、静寂が辺りを支配した。
きっとシャーロットもエミリアンも驚いているのだろう。ヴァロンタンのそこらの人間とは違う物言いに。
「え、なんて?」
どうやらシャーロットにも理解が出来ない事があるらしい。ヴァロンタンはとても得意な気分になった。
「今、貴方は何て言ったの?」
「シャーロット、聞き流せ。いつものやつなんだ」
「お待ちになって、お兄様。いつもの? いつものですって? これが常だと仰るの?」
「この半月でなんか悪化してるけど以前から片鱗はあった」
「悪夢かしら……。え、夢? これは夢? これと向き合わなくてはならないの?」
「愛する人を悉く他の男に盗られてしまう僕の運命なんて、この悲劇なんて……とても貴女には分からないでしょう!?」
「むしろ喜劇。……そもそも貴方のではないでしょう。盗られるというのはおかしくてよ」
「姉上。姉上には分からないのですか? ああ、きっと分からないのでしょうね。この闇が! きっと僕にしか見えていないんだ」
皆は知らないだろうけどヴァロンタンは知っている。自分は周りの人間とは違うのだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……これは無い」
しばらく沈黙が続いたが、やがてシャーロットが小さく呟いた。
「どうしましょう、お兄様。これは無い」
「……ねっえなぁ…………」
「わたし? わたしが言わなければならない? わたしね。わたしだわ。今のこの状態ならわたしね。嫌だ、わたしって誰だったかしら」
「頑張れ、頑張れシャーロット! お前はシャーロットだ!」
「シャーロット辞めたい」
「生きろ」
「しんどい」
「同感だ」
「これは今すぐ治療しなければならないかと」
「そうだな」
「つらい」
「同感だ」
「荒治療が良いでしょうね」
「そうだな」
「つらい」
「同感だ」
見た事の無いシャーロットがいる。何故ヴァロンタンに会いに来ておいて遠くを見詰めているのだろう。
長兄の事を語る時の腑抜け上にそっくりな目をしている。なんだどうした。
「致し方ありません。前回は間違えました。恋に恋して夢見る思春期少年特有の言動かと思っておりましたが、このままではいけない」
「うあ……既に心が痛い」
「出来れば放っておきたかった……」
「同感だ……」
「何ですか、何二人で黄昏れているんですか」
「ヴァン、よく聞いて」
「何ですか?」
「貴方が言っている闇とは深淵のこと?」
「なんだ。姉上にも概要は分かっているのですね。けれどその真髄までは分からないでしょう」
「あのね、ヴァン。よく聞いて」
シャーロットが勿体ぶって深刻そうに何か言おうとしているが、ヴァロンタンには彼女が何を言おうとしているのか予想がついていた。
様々人物が様々な場面で使用しているあの有名な一節だろう。
そんなのヴァロンタンだって知っている。
「貴方が深淵を覗く時」
ほらな。出た。予想通りだ。
「深淵は別に貴方を覗いてなどいない」
「えっ」
予想外だった。
「別に見てもいない」
「えっ」
予想外の言葉だった。
「特に気にもしていない」
「えっ」
そして追討ちをかけられた。
「自意識過剰」
「あ、あ、あ……」
怒涛の追撃である。
「今の貴方の思考と言動はそっくりそのままかつてのエミリアンお兄様とテオお兄様と同じ。全く同じ。特別で格別なところなど一欠片も無い」
「そ、そんな……そんな……」
尚も追い討ちは止まらない。
「闇なんて見ていないで現実を見なさい」
止めを刺されてヴァロンタンは震えた。かつてない衝撃だった。
ブランシュおねえさまにフラれた時よりも、アシル兄上に子供が生まれた時よりも、そしてリリーフローレンスが既婚者で子供までいると知った時よりも凄まじい衝撃だった。
「うわあああああああああああん!!」
だから泣いた。
これ以上無いくらい遠慮なく泣いた。
「うっわ……えっぐぅ」エミリアンの心苦しそうな声だけが妙に耳に残った。「俺まで大ダメージだ死にそう」
あれからヴァロンタンは更に一月ほど自室に籠もった。家族からは毎日のように手紙や贈り物が届いている。
顔を見せても良いと思えるようになったら出て来て欲しいと書かれていて、無理強いしてこない優しさが痛くてまた少し泣いた。
甥っ子達からは似顔絵が届けられ、そこには拙い字で『ヴァンちゃまだいすち』と書かれている。間違っていた。そこがまた可愛い。
引き籠もりながらもすぐにシェイデン王子には正式な謝罪の手紙を送った。けれど『友人とのただの軽口を大事にする気は無い。茶も美味かったし馬も素晴らしかった』と返信が来て、先に送った手紙も非公式扱いにしてくれたそうだ。頭が上がらない。
そんな彼へ更に返事を認めて、もし許されるなら従姉のリリーフローレンスに渡して欲しいと、彼女宛の謝罪の手紙も添えて送った。
彼女からの返事はすぐに来た。
シェイデン王子の反抗期はもっと大変だったからヴァロンタンも気にしなくて良いとあって、恥ずかしさのあまり枕で顔を塞ぎながらベッドの上で右へ左へと転がりまくった。
埃が舞うから止めるよう従者に叱られた。解せぬ。
反抗期とはっきり言われてしまった恥ずかしい。その通りだ恥ずかしい。
これか。
あの日エミリアンが言っていたのはこれだったのか。シャーロットに会いたくなくて生け垣に隠れていたあの日、迎えに来た兄が言っていたのはこれだったんだ。
それに気付いて初めて、ヴァロンタンは荒治療でも何でも無理やり現実に気付かせてくれた姉に感謝した。あのまま成長していたらと思うだけで恐ろしい。
ひとしきり暴れ回ると、ぜえはあと荒い呼吸のままヴァロンタンはベッドサイドに置いているローテーブルに手を伸ばした。
ローテーブルに一つだけ付いている引き出し。そこには姉からの手紙が入っている。
ヴァロンタンが盛大に泣き喚いたあの日、闇に拘らなくなったら読んでほしいと言い、この手紙を置いて姉はまた辺境へ帰って行った。あれ以来、彼女は帰って来ていない。
こんな日が来る事を姉は知っていたのだろうか。
あれから色々と考えた。
意を決して従者に子育てについての教本を持って来てもらって読んだ。その名も『思春期、及び反抗期における子供の思考と言動』である。
そこには自分が居た。
やたら反抗的になりありもしない何かを夢想し、己が特別な存在だと思いたくて意味不明な言動を繰り返し、ちょっと悪ぶってみたり背伸びしてみたり。
書かれている具体例の殆どにヴァロンタンは当てはまった。殆どだ。ほぼ全てだ。この本はヴァロンタンを観察して書いたのではないかとすら思えた。
発行年月日は百年前。改定に改定を重ねられつつも発行年月日は百年前。
一世紀も前からヴァロンタンは普通だった。
生まれる前からヴァロンタンは全てを見抜かれていた。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
なんだこれは凄まじく恥ずかしい。つらい。しんどい。恥ずかしい。
第三の目なんてありませんごめんなさい。
筋肉痛にはなりましたが腕が疼いた事なんてありませんごめんなさい。
魔力だってちょっぴりしかありませんごめんなさい。
誰かの力になれるほど何かを成し得る実力も根性もありませんごめんなさい。
時々普通にぶっ飛んでて意味が分からなくて置いていかれて呆然とするけど、いつも優しくて何でも知っていてめちゃめちゃ強いアシル兄上に憧れています昔から今でもひっつき虫ですごめんなさい。
そんな兄上の最愛だから無条件に素晴らしいと思って恋に恋して横恋慕しましたブランシュおねえさまごめんなさい。
エミリアンお兄様の女性関係が派手なのは何故かと勝手にベッドの下と衣装部屋に隠されていたあられもない本の数々を勝手に見てそのままにしたのは僕ですごめんなさい。
兄弟があまりにも個性的過ぎてテオ兄上の存在をたまに忘れてごめんなさい。
それから、それからーー。
手紙を取り出す。
見慣れた優しい筆跡で封に『最愛の弟へ』と書かれている。
年子なせいでいつもヴァロンタンの八つ当たりを受けていた筈なのに、一度としてヴァロンタンに怒った事など無いシャーロット。
怒るよりもよほど的確に心を抉ってくるが、まあ、それは自業自得というやつだろう。
緊張した。
手紙を読むだけでこんなに緊張したのは初めてだ。シェイデンやリリーフローレンスの手紙ですらこんなに緊張しなかった。
それでも読まなければと封を切る。
手が震える。
上手く開けられない。
封筒が少し斜めに破れてしまった。
手紙を取り出す。
便箋は一枚。
意外と少ない。
便箋を開く。
まだ手が震えている。
上手く開けられない。
やっとの思いで開いた手紙。
そこに書かれていたのはたった一文。
『シャーロットはヴァロンタンが大好きだから、許してくれるならまたお手紙してね』
ヴァロンタンだってたった一人の姉が大好きに決まっている。
許すも何も悪いのはヴァロンタンだ。
次の瞬間にはヴァロンタンは部屋を飛び出していた。たまたま向かう先近くに居たエミリアンを捕まえる。父の目前に滑り込むように飛び込んで頭を下げた。最早、這いつくばっていると言った方が正しいくらいの姿勢で希った。
シャーロットに、姉に会いに行かせてくれ、と。
会いたかった。手紙よりも何よりも会って目を見て話をしたい。
許可はすぐに降りた。
馬車の手配はエミリアンがしてくれた。
しかし、その馬車に飛び乗る寸前で見覚えのある馬車が城門を潜ってくるのが見えた。
降りて来たのは期待通りのシャーロット。
「姉上……」
「はーい、呼ばれてもいないのにやって来たシャーロットですよー」
またおどけている。なんだこの姉は。なんなんだ。いつも意表を突いてくる。
なんで笑える。
何故あんな事をしでかしたヴァロンタンに笑い掛けられる。なんで、なんで、何故、何故ーー。
「あねちゃまあああごめんなさいいいいいいい!」
ぎゃんぎゃん泣くヴァロンタンをシャーロットが優しく抱き締めて、そんな弟妹をエミリアンが更にまとめて抱き締めてくれた。
あったかくて心地よい。
ヴァロンタンとシャーロットの年齢差は一歳。一つしか変わらない。
けれど、それでもやはりヴァロンタンは末の子だ。甘ったれだ。姉はやっぱり姉で、兄はやっぱり兄で、そしてどう足掻いてもヴァロンタンはヴァロンタンでしかない。
どんなに何者かに憧れて背伸びをしても、それは自分が背伸びをしているだけで結局は自分なのだと思い知った。
ヴァロンタンはまた失恋した。そして失敗した。
何故か毎回人妻にばかり心奪われるが不可抗力だ。許してほしい。
これからもきっとまた何か失敗する。どこかで失敗する。
けれど反省も後悔もする。
同じ失敗は繰り返さないように努力もするから許してほしい。
許してくれるだろうと甘えてばかりの愚かな弟を許してほしい。
きっときっと、もっと頑張るから。
ヴァンくんのお話はこれでお終いです。ありがとうございました。