①出会い
フィリップがやらかしている間、アンスリンドはどうしていたのか的なお話です。
三話くらいの予定でしたが思っていたよりもアンスリンド無双が過ぎたので終わりは見えていません。割と平和です。
なるべくさらりと流すようにしましたが、人が亡くなっている事を示唆する表現が出てきます。
お気を付けてどうぞ。
「貴女の為に言っているの。聞き分けてちょうだい」
アンスリンドがこの世で最も嫌いな言葉。
それが母のこの口癖だった。
(祝福もくれなかったくせに、なんて自分勝手な)
けれど、アンスリンドがその言葉をまともに受け取った事は無い。
母がその言葉を使う時、それは決してその言葉を向けられた自分の為などではないと知っている。娘の為ではなく母本人の為なのだとアンスリンドは知っていた。
彼女の生まれはとある小国。生まれた時には既にとある大国の属国だった。
戦に敗け、名ばかりの自治権と王家存続を条件に、長年虐げられてきた小さな国。それがアンスリンドの祖国だ。今でも一応は存在している。
アンスリンドはそんな小国の第四王女だった。
第四王女と聞けば耳障りは良いかも知れないが、アンスリンドの母は六人いる側妃の中でも最も地位が低い。
また、王が戯れに手を付けただけの女性で、特に一芸に秀でている訳でもなく野心があった訳でもなく、寵すら得られなかった。本人としても王に目をかけてもらおう等とは微塵も願っていないようで、媚を売る事も愛想を振りまく事も無かったという。
国を保たせる知恵のある三人の王妃の足元にも及ばず、他の側妃達のように国王や王妃達の補佐も出来ず、かと言って二人の妾のように王を癒やす事も寵愛を得る事も出来ない。
ひたすらに目立たぬようにばかり努める。
アンスリンドの母はそんな人物だった。
だからだろう。彼女はいつも周囲に怯えていた。いつも周囲のご機嫌取りばかりしていた。
そして、それをアンスリンドにも強要する。
「いいこと、決して目立ってはいけないわ。貴女は末の王女。末端の者。静かに控える事が巡り巡って必ず貴女の為になります」
「正妃様や側妃様達の仰ることには、必ず二つ返事で了承なさい。口答えはいけませんよ」
「異母兄姉達よりも優秀になってはなりません。貴女の為にならないわ。女の貴女がそんなに学んでどうするの」
「とにかく誰にも目を付けられないようになさい。静かに控えるの。いい加減、それくらい学んでちょうだい」
いつもそう言われてきた。
やる事成す事全てを否定されたきた。
必要以上に勉学に励んで知識を身に付ける事も学ぶ事も良しとしないのに、息を潜める方法ばかりを学べという。とにかくアンスリンドの意思とは真逆の事ばかりを強いる。
何も出来ないなら出来ないなりに努力をし、学び、何か少しでも出来る事を得てゆけば良いのにと、母に対してアンスリンドはいつも思っていた。今思い出してもそう思う。
けれど、彼女の母は絶対に表には出ぬようにするばかりで、何一つとして自ら動こうとはしない人物だった。
弱い、弱い人だった。
何れにしても、そんな人物であるにも関わらず王の目に止まったのは、偏にその美貌のせいだと言うべきか。それとも、お陰と言うべきか。
王家の悲願も民の願いも一つ。支配国からの解放。
その為、王は例え好色と呼ばれようとも多くの優秀な女性を娶り、多くの子を成し、周辺諸国との繋がりを深めようとしていた。優れた後継者を多く輩出しようとしていた。
美しさも使い方次第では力となる。強味に出来る。それもあってアンスリンドの母もお手付きとなったのだろう。
様々な強さを欲していた国王が彼女に求めたのは美貌という力。
けれど彼女にはそれを活かせる知恵が圧倒的に足りていなかった。まるで、美しいだけでは何も手に出来ない、と言う事を体現しているようであった。
飼い殺しのように後宮で息を潜めるばかり。これではとても妃の職務など任せられない。
とにかく怯懦な人だった。
アンスリンドは末子であったが、それは生き残った子の中ではという話だ。
戦火の国では王家に生まれようとも長く生きられぬ子も多く、彼女にも本来ならば同腹の弟がいた。異腹の兄弟姉妹も幾人か失った。
戦でも幾人かの異母兄を失った。
けれども、支配国と水面下で長年争っていた大国に上三人の異母姉が揃って嫁ぎ、内一人が国王の寵を得、一人が妃として手腕を発揮し、一人が将軍の寵を得てからがらりと状況は変わる。
大国の王は信頼できる優秀な妃と最愛の妃である姉妹の願いに応え、将軍は妻の憂いを晴らそうと、そうして大国は遂に支配国へ牙を剥いた。
こうして支配国からの独立という悲願を達成した小国だったが、今度はその大国から不穏な気配が漂ってきていた。
大国の色に染まっていたアンスリンドの異母姉達は、祖国を下に見るようになっていたのだ。いつしかかつての支配国と同じように祖国を属国のように見ていた。
元より強欲な異母姉達である。アンスリンドからしてみたら予想通りの出来事だったが、父王やその妃達は慌てた。
これでは支配する国が変わっただけとなってしまう。新たな支配国には小国の内情に詳しい元王女が三人もいる。
以前よりも状況は悪化する未来しか見えない。
王族と事情を知る一部の家臣達は頭を抱えた。何の為の戦だったのか、と。
アンスリンドがフィリップと出逢ったのはそんな時だった。
かの大国の皇族の話はアンスリンドでも知っている。よく耳にした。
世界唯一の帝国は守護神による慈悲に包まれている。その慈悲は周辺諸国のみならず、帝国と長年に渡り友好関係を築いていた遠くの地にまで及んでいた。
全く災害が無いわけではないが天候は比較的安定しており、作物も実り豊かで水資源も豊富な大国。
そんな国を長年統治する皇族には不可思議な力があるという。
代々、直系の皇族のみが発現させると言われているその力は、己の伴侶を定める力だとまことしやかに囁かれている。皇族がそうだと言明したわけでも、確かな証拠があるわけでもないが、各国ではそれが当然の事として受け入れられていた。
帝国の歴史を紐解くと、そう囁かれるのも納得するほどに皇族、特に皇帝は伴侶をそれはそれは慈しみ、ただ一人を生涯に渡って大切にしてきている。
国が続く為に最も適しており、何よりその直系の皇族本人の心が求める人物を定める。
定められた側はそれをどう知らされるのか明らかになっていないが、何らかの方法で定められた事を悟るのだという。
心を悟るとはどういう事なのか、当時のアンスリンドにはよく分からなかった。
当時の皇帝、つまりフィリップの父アルベルトは一度定めた相手の手を離した過去があると、アンスリンドも歴史学で触りだけ聞いていた。
中々の騒動になったらしいが、彼女からしたら自身が生まれる前の話。詳しくは知らない。他国の後継に関する詳細など伝わってきていない。
また、神の慈悲を受けている大国に対して根拠の無い噂話など出来ぬと、教師のみならず周囲の大人達は挙って口を噤んでいた。
本来ならば皇族自身で相手は定められるというのに、周囲がお節介で婚約者を用意した事が原因というのが周辺諸国の見解だ。それ以上は深入りすまいと人々は結論を出したのだろう。
彼女もこの意見には賛成だった。
それが故に詳しい内情は知らぬが、幾ばくかの興味もあって少しだけ知っている。少しだけ調べた。
帝国の成人は十六。
その歳になってもまだ婚約者を定めるどころか浮いた噂一つ聞こえてこない皇太子だった頃のアルベルトに、国の重鎮達は焦りを募らせたのだろう。そうして用意され宛がわれた皇太子と同年の幼馴染みだと言う女性。
姉弟のように仲が良かったというが、それを幼い頃から婚約者候補だったからだと事実を歪めた。
結果的に皇太子は定めさせられた相手とは歩めなかった。
婚約を解消した皇太子は執務に励み、周囲も一度は余計なお節介で失敗してしまった事もあり、暫くは静観していたようだ。
後に二十一で再び婚約した皇太子が定めた相手は、当時十六。成人したての五つ歳下の令嬢――それが現皇后エルルリアであった。
成人したとはいえ幼さの残る女性を皇太子妃に迎えるとあって、それなりに困惑はあったらしい。まだ早いのではないかという声が大半であった。
だが、一度自身の心で定めた相手とあらば皇族は思わぬ力を発揮する。また、定められた方も受け止めた上で自身の意思で心を返しただけあって、並大抵の事では揺らがない。
一応は学生の内は婚約に留める事が決まったが、学園を卒業するとエルルリアはすぐにアルベルトへ嫁ぎ、一年も経たずにフィリップが生まれている。
守護神からの認可も得た正式な伴侶を得た皇族に、最早誰も口など出せなかった。
――皇族の伴侶探しに余計な口出しは無用。
それが周囲の見解であり、満場一致の意見であった。平時のみ、面向きは、ではあるけれど。
そんな歴史のある帝国から皇太子が独立式典にやって来ると知らせが来た時、小国の上層部は戸惑いと喜びに湧いた。
もしかしたら万が一があるかも知れない。
帝国の妃は代々皇后のみ。側室が、皇妃が存在した歴史は無い。けれど、今回ばかりは側室も有り得るのではないか。
そんな下世話な憶測が飛び交った。
「帝国からは皇太子殿下がいらっしゃるのですって! アンスリンド、貴女、そんな貧相な姿を晒さないでちょうだいね。我が国の恥だわ」
「あら、お異母姉様。嫁がれたとばかり思っておりましたがいつ出戻られたのかしら」
「おお嫌だ。なんて口の利き方なの。これが国唯一の未婚の王女だなんて心許ないから手助けに来て差し上げたのよ」
「異母姉の優しさが分からない子ね。本当に可愛くないったら」
「嫁がれたというのに未だこの国を『我が国』と仰るだなんて、お異母姉様方の旦那様がお聞きしたらどう思うでしょうね」
大国に肩入れし過ぎて祖国を侵略しようとしていた事など無かったかのように、アンスリンドの異母姉達は戻ってきていた。さもここにいるのが当然だとでも言うかのように。
嫌味も相変わらずである。
黙って聞いているような性格ではないアンスリンドとの舌戦も変わらない。求めていないけれど。
長年この小国がかつての支配国に抵抗できていたのは、国が国として成り立つ以前より帝国との関係が良好だった事に起因する。そうでなければ疾うに滅ぼされていた。
だから異母姉達も弱点を知っているにも関わらず直ぐには手を下せなかったのだろう。
小さな部族に過ぎなかった遠い祖先の頃、帝国の皇族と何かしらの交流があり、以来決して裏切る事無く、けれど深入りする事無く互いを尊重し合ってきていた。そんな長い長い歴史がある。
これまで通りの関係を保ちつつも、帝国との蜜月っぷりを見せ付けて牽制するのも良い手だと、国の重鎮達は皇太子の出迎えに力を入れた。
本来ならばこの式典には外交官の貴族が来る予定だったが、その者の体調不良を慮りながらも、どこかで喜んでいたのもまた事実である。
そして開かれた独立記念式典とその後の夜会。
彼は豪華絢爛な場で出来る限り静観に努めていた。祝いの礼儀を弁えた上で最低限の装飾のみで質素な装いをしていた。
けれど、一目で他と一線を画す厳かな雰囲気を纏った美丈夫に、本人の意図とは真逆に人々の意識は集中した。
その人物とは、言わずもがな、帝国の皇太子フィリップその人である。
父の逞しい美しさと、母の静かで慎ましい美貌を受け継いだ皇太子は、ただそこにいるだけで人々を魅了した。
他の誰かと会話をしているように見せ掛けて、皆フィリップを気にしている。皆、彼に見蕩れていた。
嫁いだ筈のアンスリンドの異母姉達すらも、隣に立つ夫の事すら忘れ果てて帝国の皇太子に熱い視線を送る始末。
けれど、その異母姉達にアンスリンドもどうこう言えなかった。他の誰よりも彼女が最も心を奪われていたから――。
夜会でフィリップと目が合った時、これが『定められた』という事なのだとアンスリンドは身を持って思い知った。
きっと現皇帝陛下の元婚約者は、これに怯んだ。皇帝自身が定めたのでは無く、周囲が要らぬお節介を焼いて定めさせた相手だから。
宛がわれて決められた相手だったが、それでも皇帝は心を向けた。
けれど元婚約者はそれに心を返せなかったのだろう。こんなにも熱烈に全身全霊で心を預けられて、同じように返せないし、自分では受け止められないと悟った。向けられた心から目を反らした。
それも致し方の無い事だと思う。
だって、これはあまりにもひたむきだ。一途な心はどこまでも強烈で鮮烈だった。
――顔がいい。
フィリップを見てアンスリンドが抱いた素直な感想は、実はそんな言葉だった。
煩雑な周辺諸外国の評価など抜きに、両陛下譲りのその麗しい見目に全意識を持っていかれた。なんだかもう『ひたすらに好みだな』しか頭に浮かばない。
器の小さい父、臆病な母、欲ばかり立派な異母兄姉、その母親達、愚鈍な周囲。そんな人達ばかり見てきた彼女にとって大国の皇太子は、所作の優雅さは元より、元来の気質からして別次元の人間だった。
大国が大国たる理由を垣間見た。
そして、そんな人物に情熱的な瞳で一心に見詰められて、やがてアンスリンドも心を定めた。
(顔がいいな)
とりあえずその時の彼女の思考はそれだけだったが、それでも確かに向けられた彼の心にアンスリンドは心を返した。
定められて、受け止めた。
ぼんやりとしか知らなかった皇族の力を一身に受けて、それが一体何なのかその場で唯一知る者となれた事を喜んだ。アンスリンドはフィリップに心を向けられて、そのとき確かに歓喜した。
「フィリップ・クイラ・ヴェリテ・メルセルヴィーテと申します」
どのくらい見詰め合って心を預け合ったのか。随分と経ったような気もするし、一瞬の間だった気もする。
しばしの後に皇太子がようやく名乗った所で、気付くと夜会もお開きの様子となっていた。
「……アンスリンド・ティナ・イルージュと申します」
「アンスリンド……」
「はい、フィリップ様……」
辛うじて名乗れた覚えはあるが、結局アンスリンドにはその晩の記憶は殆どない。




