②後編
多くの後悔の中、それでも今フィリップは妻と穏やかに過ごす時間を持てている。彼女の許容の姿勢には驚かされるばかりだった。
互いに何も話さず、ただ景色を眺めている時もある。
国の政策や人事について話す事もある。特に人事はいつまで経っても解決しない。常にどこかで問題が起きていた。フィリップに人を見る才があまり無いのも原因だ。
子供達の誰か、または全員が乱入してくることもある。最も多いのは末の子ヴァロンタン。アシルは必ずブランシュを伴ってやって来る。そうでなければ彼女と過ごす時間を減らすわけが無いので来ないから、フィリップもアンスリンドも当然のように受け入れていた。
様々な会話を重ねる二人だったが、やはり最も多いのは子供達の話だ。いくつになっても話題が尽きない。
その頃の二人の話題は、専ら間もなく誕生する初孫のことばかりだった。
「そろそろ生まれる時期か……」
「そうですね。近頃よく二人であちこちお散歩しているわ。ずっと子供の人数について話しているのよ」
「何人が良いかという話か?」
「そう。アシルは一人で十分だと言うのだけれど、ブランシュちゃんは男女どちらもほしいって」
「それで一日の就労時間を六時間にするとか宣言していたのか、あやつは」
「今は……八時間? 九時間? 効率化の鬼神って官僚達から呼ばれているのを見て笑ったわ。褒め言葉として受け取ったアシルが官僚達ににこやかに手を振っていて、もう、本当におかしくておかしくて」
「子が生まれたらどうなることやら」
「あら。それはあなたが教えてあげたら?」
アンスリンドの悪戯めいた微笑にフィリップは思い切り顔を顰めた。
「アシルは余に期待などしていないだろう」
「誰がそれを?」
「あやつが幼い頃から感じてはいた。はっきりと告げられたのはシャーロットからだ」
「あははっ! まあ。あの子ってば、本当に的確」
仏頂面で告げるフィリップに、アンスリンドは声を出して笑った。娘、最高。的確。
「アシルからはっきりと言われた事は無い。無いがな、うん。それでもやはり、アシルからの言葉が一番堪えた」
「それは、どんな?」
「アシルが七つの頃、本格的に帝王学を学ばせる事を決めただろう?」
「そうですね」
「その時だ」
その日フィリップは、皇宮に講師を招いて教えを受けていたアシルを彼らのいる部屋の前で待っていた。帝王学の話をする為に。見張りの騎士達はいつもの事だと特に気にする事無く職務に邁進している。
驚くなかれ。
授業後に皇帝の執務室へ来るようにと言っても無駄だ。過去に何度も呼んだがアシルは来た事が無い。
授業内容はどうか、進み具合はどうか、そんな話をしたくとも断られる。
「皇子の履修内容は全て陛下の指示でしょう? 私からの報告で再確認される必要性を感じません。私の様子は講師にお伺い下さい。その方が客観的な意見を得られるでしょう。ブランシュと会う時間が減ります。非合理的です」
そう言って断られる。話があるのなら、ブランシュとの時間を割いてでも聞く必要性があると感じるような、そんなプレゼンをするよう言われる。
七つの息子を相手にフィリップのプレゼンが通った事は無い。
だから、アシルに用がある時はいつもこちらから訪ねなければならない。彼を探さなければならない。
律儀にいつもプレゼンをするか自ら探すフィリップをアンスリンドは笑いながら見ている。普通とはかなり異なるやり取りだが、この父子ならではのいつものやり取りを微笑ましく眺めていた。
そうしてその日の授業を終えたアシルが部屋から出て来たところで捕まえ、講師を帰した室内へまた戻して二人だけで話をする。
事前に『陛下とちゃんとお話してから来て下さい』とブランシュに一筆書いてもらっていた今日のフィリップは完璧だ。アシルはブランシュからの手紙が増えたと喜んでいる。実に完璧だ。
「帝王学?」
「そうだ。皇后とも相談をし、来週から」
「それは陛下からエミリアンにお伝えした方が良いかと存じます」
「え?」
「ん?」
何故エミリアンの名が出てくるのかと首を傾げるフィリップと、父の様子が不思議なアシル。
もしもここにエミリアンとテオがいたら、揃ってからからと笑っていただろう。またシンクロしてる、と。
「だから、帝王学を来週から始める」
「はい。承知致しました。ですが、エミリアンには陛下からお伝え下さい。私からは伝えられません」
「いや、待て。何故エミリアンに伝える必要があるんだ?」
「帝王学と知らせず帝王学を学ばせるのですか?」
「誰に?」
「エミリアンにでしょう?」
「は?」
「ん?」
長子が何を言い出しているのか分からず、フィリップはまた首を傾げた。アシルはアシルで父との会話が噛み合わないことが不思議で首を傾げる。
鏡写しのような二人の姿に哀愁すら漂った。
「何故エミリアンに帝王学を学ばせるんだ?」
「違いましたか? 失礼致しました。それでは、テオですか? ですが、それだとエミリアンが」
「待て。何故、長子のお前が学ぶ選択肢が無い」
「私ですか?」
「アシル、お前だ。帝王学を習得後に立太子し、お前が皇太子となる」
「何故ですか?」
「え?」
「ん?」
「何故、とは?」
「何故エミリアンではないのですか?」
「当たり前ではないか。余の長子はお前だ」
「何故私なのですか?」
「だから、お前は余の」
「何故ですか?」
「いや、その……」
「心変わりですか?」
「…………」
「あれは、心にきた」
「あはははははははははははは! アシル、最高っ!!」
「余はアシルが『宗教と戦争から見る世界経済と進化論』を読んでいると知った時から次期皇帝はあやつしかおらぬと思っていた」
「ああ。あれは衝撃でした。毎日見ていたのに、いつの間に経済学者を目指し始めたのやら」
「一番……、一番苦手だと言っていた──」
「何のことです?」
「アシルは経済学が一番苦手だと言っていた。だから、最も優れた結果を残せぬであろう経済学者を目指し、無益な争いの種にならぬよう埋没したいのだと」
「……そうですか。そんな事を考えていたの、あの子」
あの頃の事を思い出すと本当に心が痛む。
変わり者だ変わり者だと普段から言ってはいるが、それでも我が子。初めての子。兄弟の中で唯一、不遇の時を過ごさせてしまった過去のある子。
侍女から「跡継ぎは弟だからお前はいない方がいい」と繰り返されたという話を聞いた時、どれほど身勝手な親である事を悔いただろう。
本人は気にしていないと言っていたが、それでも決して良い気分にはならなかったであろう事は明白。本当に可哀相なことをした。
この時ばかりはフィリップも「原因は自分の態度だから」なんて怯むことなどなかった。実の父であり皇帝でもあるフィリップと、ただの侍女とでは立場は比べ物にならないほど違う。彼を理由に使用人が好きに発言していいわけがない。
それなのに一介の侍女如きが皇家の跡継ぎに関して口出しや根拠の無い噂話をした罪は重い。ただの解雇で済ませる訳が無かった。
あの時の侍女達の家門は今、この帝国には存在しない。
だが、フィリップ達の心は未だ晴れない。晴れる筈もなかった。
「ブランシュ嬢が皇后の地位に怯んだら、今頃は本当に経済学者となっていただろうな」
「でも投資を次々と成功させているわ」
「本当に苦手なのかと疑っている」
「疑うのは貴方の専売特許ですものね」
「違う……筈だ…………」
こうして折に触れて過去をいじられる。その度にフィリップの心臓は嫌な音を立てて軋んだ。
けれど、どこか安堵もしていた。
笑い話に出来るほど時が過ぎ、心に余裕が生まれた証だから。笑い話に出来るほどアンスリンドと会話を重ねてくる事が出来た事実に堪らなく幸福を感じる。
「ま、安易に何でも信じてしまうより良いですけどね」
「そなたは……おおらかになったな」
「それはもう。母ですから」
「シャーロットのカウンセリングとやらのお陰か?」
アンスリンドはたまにシャーロットと二人、何やら話し込んでいる。カウンセリングをして貰っているのだと彼女は自慢気に言う。そんな母を見てシャーロットは納得していない風でありながら、どこか諦めたように苦笑していた。
会話を終えたら何の話をしていたのか報告するから、二人でいる時は絶対に邪魔をするなと厳命されている。
だからフィリップはいつも会話が聞こえない範囲で最も近くに待機していた。何も話してくれなくとも構わない。けれど、弟しかいない彼にとって母娘が会話をしている場面は何度見てもどこか不思議で、何やら華やかで、どんなに眺めていても飽きない光景だった。
「私があなたを許したのは、シャーロットを授かる少し前ですよ。あなた、邪香を盛られたでしょう? 短気に、怒りっぽく荒々しくなって性欲ばかり増すあの麻薬。廃人を幾人も生み出した劇薬を盛られ、間者の女が寝台へ潜り込んだ時……、あなたは自分がどうしたか覚えていますか?」
「あの時は……薬で朦朧としていて、定かではない。定かではないが、凄まじく気持ち悪かったモノを排除しようとした事は覚えている」
「そうでしたか。あなたってば、その女を突き飛ばして縛り上げて『アンスリンドじゃない! アンスリンドはどこだ!?』って叫び続けていたんですよ」
「そ、そうだったのか……」
「それから、呼ばれて慌てて駆け付けた私を」
「襲ったのか!?」
「抱き締めて眠りました」
「だ……お、おお?」
「髪の匂いを嗅ぎながら」
「かっ!?」
「親子ですよねえ」
アンスリンドはけらけらと愉快そうに笑うがフィリップは全く笑えなかった。
いつの間にアシルに似たのだろう。いや、アシルがフィリップに似たのか。いやいや、髪の匂いを嗅ぎたいと思った事は無い。無い筈だ。無かったのか?
最早己のことすら何も分からない。
「まあ、それはそれです。妻として、女としては許しましたが、母としては許していませんからね」
「重々承知した」
許しはしないと言いながらも、アンスリンドはフィリップにもシャーロットカウンセリングを勧めた。心が軽くなるらしい。
娘本人はそのネーミングもさることながら、そんな大層な事は出来ないし母親の話をただ聞いていただけなのにと、困惑していた。
フィリップとしても、娘と会話が出来るのは嬉しいが、我が子を相手に心情を吐露することに抵抗がある。故にしばらく断り続けていた。
それならばとアンスリンドの勧めでシャーロットと二人で過ごす時間を作る事となった。ただそれだけで良いらしい。
週に一度の娘との時間は存外楽しかった。兄弟達と違って基本的に突拍子もない言動を取らないので、ゆったりとした時間を過ごせる。
シャーロットはフィリップの執務室を何度も破壊したり騎士団の宿舎を破壊したり暗殺者を逆さ吊りにしたり全人類が恋愛対象だと宣言したり植え込みに嵌まったりしない。最後のは、まあ可愛いものだ。
そうして安穏とした日々を過ごす内、気付けばアンスリンドの思惑通りフィリップは自身の心の内を話していた。
フィリップとて話すつもりは更々無かったのだが、何かの拍子にぽろりと一つこぼれてしまった時、シャーロットは相も変わらずただ微笑むばかりで特別な反応を返さなかったのだ。だからこぼしていた事にもしばらく気付かなかった。
一度こぼれると後はぽろぽろと勝手に溢れる。
我が子を相手に情けない。
不甲斐なさで落ち込むフィリップにシャーロットは困ったように笑った。家族内でくらい良いではないかと苦笑する。
「陛下は優し過ぎるのですよ」
「優しい? 余が? 何を言う。優しい人間が妻子を冷遇などするものか」
「心が限界だったからとった自衛手段でしょう? その頃には完全にお母様に心を許していたから甘えていたように思います。一種の反抗期のようなものでしょうか。それよりもむしろ、わたしは陛下をそこまで追い詰めた者達に怒りを覚えます」
「怒り? そなたが?」
「そうですよ。何かおかしいですか?」
「シャーロットが怒るという図式が脳内で成り立たん」
「わたしを何だと思っていらっしゃるのですか。むしろ短気な方ですよ。すぐに腹が立つのです」
「この世で一番そなたに似つかわしくない言葉だな」
「だって、陛下がお祖父様を貶した者を許せなかったように、シャーロットだって陛下を苦しめた者を許しません。怒っていますよ。家族ですからね」
そう言って頬を膨らませてみる娘は、明らかに怒っている体を装っている。
家族しか知らない彼女の一面だが、皇女は存外おちゃめでおてんばだ。割とよくふざけているし兄弟達にイタズラを仕掛けることもある。
「……そうだな。余も許せなんだ。今でも思い出すと腹立たしいくらいだ」
「幼子への忠言も過ぎれば虐待です。表面上は正しい事を言っているからこそ、その事実に気付ける者は少ないのが難点ですね」
「それは無い。同じ過ちを繰り返さぬよう心を砕いてくれたのだと知っている。虐待などと、そんな」
「陛下」
「……なんだ」
「陛下のその反応は、その考え方は、正しく精神的虐待を受けた子そのものですよ」
「まさか、そんな……」
「中々婚約者が定められなかった事も、人事が苦手な事もそこに起因します。陛下は人の顔色を伺い過ぎる。冷徹になり切れない。人から何か言われる事が恐ろしくて堪らない。完璧でいなければまた父が悪し様に言われる、己の失敗が全て両親の不徳となる。……陛下は父母を敬愛していた。だからこそ、それが心底お嫌だったのでしょう」
言われて初めて気付いた己の性質にフィリップは震えた。当て嵌まる。全て当て嵌まる。
恐ろしいくらいに的を得ている。
「言っている言葉が正しければ何を言っても良い訳ではありません。正しさの押し付けは一種の脅迫。弁えられぬ人間は得てして傲慢です。傲慢な人間は必ず善人の顔をしてこう枕詞を付けます。──貴方の為」
その通りだった。
幼い頃からフィリップは「貴方の為」と言われ続けていた。
アルベルトの所業を繰り返し語って聞かせる事も、とにかくアルベルトとは違うのだと分かってもらえるよう見目を気にしろと言う事も、些細な願いすらも我儘だと否定される事も。全部全てフィリップの為だと言われてきた。
「誰かの為になれると自惚れている輩の戯言など、履いて捨ててしまいましょう。大抵誰の為にもなっていない」
「履いて捨てるか。そうか。……そうだな。余の為とならぬ事はもう判っている。いつまでも心に留めておく必要もない」
「それが良いでしょう」
ふと心が軽くなる感覚を味わった。
──ああ、これか。フィリップは悟った。アンスリンドが言っていたのはこれだったのか。
何ヶ月もかけてじっくり話を聞いた後でこう穏やかに話されると聞いてしまう。決して否定される事なく会話が出来るというのは、何という心地良さだろう。
きっとアンスリンドもこれに癒やされた。
「ところで、陛下は一度でもお祖父様に怒りをぶつけました?」
思わぬ言葉が飛びだしてきて、フィリップは思わず飲もうとしていた紅茶を吹き出すところだった。
「何を言う。余が腹を立てたのは父親にではない、悪し様に罵る者達にだ。そもそも、そんな事をして何になる」
「貴方の為になります」
「……余のため?」
「これまでどれだけ傷付いてきたか、どれほど苦労してきたか、それをお祖父様にお話ください。大丈夫。お祖父様は受け止めて下さいますよ。だって、お祖父様は陛下のお父上なのですから」
「いや、だが、それは……今更だ。もう孫もいる年老いた男がそんな幼子のような」
そんな事が出来るわけもない。今更なんと言えば良いのか。
的確なシャーロットにしては不可思議な事を言うものだとフィリップが娘を見ると、珍しく笑顔を消して酷く真面目な表情をしていた。思わず緊張する。
「子は、親にとっていつまでも子です」
「それはそうだがな、言って何か変わるか?」
「言ってみねば分かりませんが、変わると確信しております。幼い頃から他者に父親を貶す言葉を聞かされ傷付いてきたのだと、そう仰いませ」
「…………父は、傷付かぬだろうか」
「傷が深い人ほど誰かを傷付ける事を恐れますね」
「この気遣いをアンスリンドとアシルに出来れば良かったな。何故できなかったのかと今でもよく考える」
「それはこれからでも出来ますよ。ですが、お祖父様との時間は残り少ない」
「そうか。……そうだな」
「大丈夫ですよ、お父様。大丈夫」
「──シャーロット、シャーロット……いま、シャーロットそなた、いま、父と呼んだか……?」
皇女から父と呼ばれたのは、この時が初めてだった。
「生きている間でなければ会話は出来ませんよ」
結局、フィリップはそれからしばらくアルベルトと話を出来なかった。
シャーロットも即日行動できるとは思っていないようで、フィリップをせっつく事はしない。ただ、穏やかにぽつりぽつりとまた会話を重ねる。楽しかった事や笑い合った日々の事を中心に、思い出した事からつらつらと。
そんな中で、ふとフィリップの懺悔のような話になることもある。後悔の話になることもある。同じような話を繰り返しもした。
シャーロットは静かに耳を傾け続けてくれた。
そんな大人びた皇女が一度だけ様子が異なったのは長子の話になったとき。
「もしもアシルが生まれた時に間違えなければ、あれはどう育っていただろうか」
「陛下」
「な、なんだ?」
聞いた事の無い低い声に思わず怯んだ。
目が据わっている。
「それはこの世で最も考えても仕方の無い事です。今すぐに、永遠に、思考を放棄して下さい」
「う、うむ。過去は変えられぬからな、そうだな」
「いいえ。そういう事ではありません」
「なに?」
「大人がどう育てようと、何を言おうと、アシルお兄様はアシルお兄様です。あのままです。他者が何をどうしようとも何も変わりません。何も変えられません。無理です。それだけは無理です」
「お、おお……随分と気迫がこもった様子だな……」
「良いですか? 他の何について思考を巡らせても構いません。ただ、お兄様の育て方については止めましょう。無駄です。何も揺るがない。例え皇太子ではなく平民であったとしてもお兄様はお兄様です。誰が何をしてもお兄様には影響を与えられません。だって、ブランシュお義姉様ではありませんもの」
「…………そうだな」
「そうです」
「余がどう接しようともあやつには何の影響も与えられんな」
「そうです」
「それはシャーロットでもか?」
「無理です」
力強くシャーロットが断言した。
娘がたまに廊下の隅で壁をじっと見詰めていたり、部屋の端で頭を抱えている姿を目にする事がある。あまりにもこの娘らしくないその様子に驚いて、どうしたのかと慌てて声を掛けるがいつも返事は曖昧な笑みだけ。
もしかしたらあれはアシルの事で悩んでいたのかも知れない。悩むだけ無駄だと自身に言い聞かせていたのかも知れない。
「悩むのならアシルの事以外で悩むべきだな」
「そうなさって。陛下はどうぞご自身を否定したければ否定なさって。どんなに嫌でも、言われ続けたように考えてしまうでしょうから、その全てをシャーロットが覆してみせます。陛下の全てを肯定してみせますよ」
「それは余を甘やかし過ぎではないか?」
「皇帝を肯定」
「ん? なんだ?」
ぽつりと呟かれた声が届かず聞き返したが、シャーロットはゆるゆると首を降るばかりだ。
「いいえ、何も。わたし一人が全肯定くらいしても良いでしょう? 娘なのですから」
「本当に、余は娘に何を話しているんだろうな……」
「当時を知らぬ者にこそ話せる事もありましょう」
「……お前は一体いくつなんだ」
「あら嫌だ! 女性に歳を聞くものではなくてよ、お父様」
「ぐっ……、う、お前……不意に父と呼ぶな。感動する。何も言えなくなるではないか」
「正に狙いはそれです」
「アシルも父と呼んでくれるだろうか……」
「……お兄様のあれはただの怠惰ですよ。気に病むだけ損です」
「怠惰?」
「そんなに気になるなら本人に直接お確かめ下さいな。案外大した事では無いと思い知らされるのも、たまには良いでしょう」
晴れやかにシャーロットが笑う。
彼女の笑い声を聞き付けてヴァロンタンが飛び出して来た。
エミリアンがずぶ濡れで不貞腐れてやって来る。
その後を笑いながら、けれど手拭いを持ったテオが追っていた。
一気に賑やかになる。
「何故、最近お二人でよく話をしているのですか!? 僕は? 僕も入れるべきですよ!」
「何故すぐに水をかけてくるんだ! 女性は、何故、俺に水をかける! 毎度毎度、凄まじい屈辱なんだぞ!?」
「かけられるような事をした兄上が悪い」
「テオ! お前は誰の味方だ!」
「俺」
「あ!?」
「俺は俺の味方です。自分が一番かわいい」
「ちくしょうその通りだ!」
「え! ヴァンじゃないのですか!? 裏切りですかテオ兄上!!」
「あ、やべ。めんどくせ。かもん、シャーロット!」
「お断りします」
「聞いているのですか、兄上!!」
「召喚、シャーロット!」
「拒否します」
「なんで僕を呼ばないんですか!? 可愛くないからですか!?」
「頼むよ、シャーロット」
「いいえ。これはテオお兄様の対応案件です」
「頼むってば!」
「この場合はテオお兄様です」
「僕を面倒だと言った!? 僕を!? この僕を!?」
「あー、もう!! いいか、ヴァン。よく聞け。一番とか二番とかじゃない! お前は特別かわいい! 特別なんだ。良いか? 特別だ。順番なんか付けられない」
「……お、おお。なるほど。それはいい台詞です。確かに」
「これで良いのか」
「お前は本当に御し易いな」
フィリップは思わず吹き出した。
子供達が揃うといつも賑やかになる。
良い子達に育った。よくぞ育ってくれた。よくぞこの父の元に生まれてくれた。感謝の念が耐えない。
「陛下、良いお顔をなさっておられますね」
「お前達に感謝していた」
「良い傾向です。そろそろ謝罪ばかりではなく、感謝の言葉も聞けたなら、きっとお母様も喜びましょう」
そうだ。すっかり忘れていた。謝罪をすることばかりに囚われて罪悪感にばかり打ちのめされていた。
それ以上にフィリップはいつでもアンスリンドを有難く思っている。思っているだけだった。
妻にこそ感謝が耐えない。
こんな男に嫁いでくれて、何度も命懸けで子を生んでくれた。こんなに可愛い子達に会わせてくれた。
「余はまた間違えたか」
「いいえ。気付いた時が最善の時です。それでも気になるのでしたら、明日気付くよりは早かった、一生気付かぬ可能性もあったのに気付けて良かったと、そう思いましょう」
「気付けて良かった……、そうだな。良かった」
「はい。良かったですね」
「そうだな」
柔らかい風が吹いた。
息子達が集まってから騒がしいが、その騒がしさもまたフィリップの心を穏やかにしてくれる。
幾つになっても親にとって子は子。
その通りだと感じ、近い内に父親と話をしてみようかという気になった。
「陛下、一つお伺いしたい事があります」
「なんだ?」
「お母様に謝罪を繰り返されておられますが、それは何の為ですか? どう許されたいのかお伺いしてもいいかしら?」
「いいや。アンスリンドの価値をアンスリンド自身に実感してもらう為だ。許しは必ずしも必要ではない」
「お母様の価値?」
「そう。余が、帝国の皇帝が、何年でも何度でも許しを乞うほどの存在であると心に刻んでほしい。決して己を卑下する必要はない。誰に侮られる理由もない。余を試したいのなら気が済むまで試せば良い。生涯許される事無く試され続けよう」
「その覚悟は出来ていらっしゃるのね?」
「当然。一生伝え続ける」
「安堵致しました。これだけ謝っているのだからいつか許されるだろうなんて期待をしていたら、二度と口を利かないつもりでした」
知らぬ内にフィリップは死の淵から生還していたらしい。危うかった。ギリギリ踏み留まれたようだ。
本当にいくつなんだ、この娘。
安穏に微笑む娘をどこかぼんやりと眺める。ふとその後方に人影を捕らえ、そちらに視線を合わせた。
アンスリンドがアシルとブランシュを連れこちらへ向かっている。
アシルの腕に抱かれているのは、半月前に生まれたばかりの初孫だろう。出産したての妻に無理はさせないと、これまでの習慣を蹴飛ばしてまだ国民への披露目はしていない。大人しく楽しみにしてくれている帝国民に皇家はとても感謝している。とても。
その皇家もまた、ブランシュの床上げまで誰も皇太子宮に来るなと厳命されていた。彼女がそろそろ皆にも見てもらいたいと願わなければ、その床上げが何ヶ月先になっていたことか。
「アシルは……間違えぬな。常に優先すべきが何か定まっている」
「間違えるくらい何です。何度でも挑戦なさって下さいな。足掻いて縋って、また間違えて。そうして全力で向き合って下さいな。全力を尽くして下さいな。とても人間らしくて微笑ましいではありませんか」
まるで子供に言い聞かせるように言われて、本当に何でも肯定してくるなとフィリップは苦笑した。娘にそうされるのは何とも照れくさい。
そうこうしている内にアンスリンド達が合流した。
「皆お揃いね。どうしたの?」
「何となくですよ。ここに父上とシャーロットとヴァンが居たから、何となく集まってしまいました」
「ここに居れば甥っ子と対面できるかと思ったんです」
「え? みんなヴァンに集まったんでしょ?」
「…………」
「…………」
「勿論そうですよ」
「ああ、そうだ」
「そうそう」
「うんうん」
「へへっ。……へへへ。えへへへへ」
皆に肯定されてヴァロンタンはご満悦であった。
「陛下」
長男に、アシルにそう呼ばれる度にフィリップは心が締め付けられるように痛む。
アンスリンドが黙っていてくれるから多くの者は知らないだけで、フィリップの過ちは父のアルベルトよりも余程酷い。酷い間違いだ。
その事に関しては、今でもアンスリンドはフィリップを許していない。きっと一生許されない。
「……アシル」
「カルロと名付けました。抱いて頂けますか?」
「そうか。良い名だ」
「ありがとうございます」
アシルが自身の子をフィリップの腕に抱かせてくれた。初孫をあやしながら、遂に一度も抱き上げてやれなかった我が子を、立派に育った息子を眺める。
フィリップと違ってアシルは間違えない。
例え我が子に自身の色が無くとも可愛がっている。前例が無いなどという声には一切耳を傾けず、子煩悩だと言われるほど自ら子の面倒をよく見つつ、相変わらず妻からは離れない。絶対に。
良かった。
こんな自分に似なくて良かった。
「アシル」
「はい」
「余を、父と呼んでもらえぬか?」
「如何なさいました?」
「過去の事に関して改めて謝罪をしたい」
「何故ですか? 何に対してですか?」
「お前はまだ二つにもならなかったからな。覚えていないだろうが……」
「覚えております。母上がエムを懐妊した時の事でしょう?」
「お、覚えておったか……。そうだ。その時の事なんだがな」
「特に問題はありませんが、その謝罪は必要ですか?」
「え」
「私は納得しております。陛下の事は尊敬しております。何か問題でもありましたか?」
「え──」
「何故ですか?」
「え」
「心変わりですか?」
生まれたての赤子よりも無垢な顔をしているアシルの言葉に、アンスリンドが何の遠慮もなく笑い転げた。珍しい母の姿に下の息子達は驚いている。
シャーロットが呆然としているフィリップからカルロを取り上げ、滑らかにブランシュへと避難させた。すぐにアシルがブランシュの腰に手を添え、二人は我が子を覗き込んだ。
「心変わりではなく……、いや、変わった事もあったのだが……いやいや、そうではない。アシル、そんなに嫌なのか?」
「嫌かどうかと言うよりも面倒ですね」
「面倒?」
「今更、意識して変えるのは存外手間です。その意識や手間や気遣いの全てを私はブランシュに捧げたい」
フィリップは思わずシャーロットを見た。娘は遠くを見て何も聞いていない体を装っている。彼女が言った通りだった。
アシルは特に何も気にしていない。フィリップが罪悪感に苛まれている事にもきっと気付いているだろう。けれど、自分はブランシュで忙しいのだからそちらはそちらで頑張れと、つまりはそういう事だろう。
きっと一生父とは呼んでもらえない。呼んでほしい相手が呼称などどうでも良いと思っているから。
それでも、アシルがこんな自分に似なくて良かったと、フィリップは心からそう思った。
フィリップは間違えた。色々と間違えた。
凄まじい後悔を繰り返しているのに、きっとまた間違えるだろう。特に彼には人を見る目がない。人事が壊滅的だ。
だが、それでも一番大切な事は間違えなかった。
生涯の伴侶はちゃんと選び取れた。
「あ。笑ったわー、孫かーわいい〜〜」
「アンスリンド」
「はい。なあに?」
「苦労ばかりさせてきたな」
「なんですか、突然。あなたが思っているよりも真剣に思い悩んでいませんわよ、きっと」
ころころと少女のようにあどけなく笑う妻は、出逢った頃と同じようにフィリップを見てくれている。なんと貴重な人だろう。
こんな女性が世に二人といるものか。
「そなたは余にとって、得難い祝福だ。いつも感謝している。ありがとう」
ぽたりと雫が落ちる。
どんな目に遭っても毅然としているアンスリンドの目から涙が溢れたのを目の当たりにして、驚いたフィリップは思わず悲鳴を上げながら妻を抱き締めた。
皇帝の後悔はこれで終わりです。ありがとうございました。
次はアンスリンドのお話の予定です。