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メルセルヴィーテ帝国の裏歴史  作者: 木月橘
3.皇帝の後悔
10/19

①前編

黒歴史でやらかしたアルベルトの子、フィリップのお話です。

次の②で終わりです。




「皇帝陛下」


 職務から離れた家族団欒の場においても、皇帝フィリップの第一子は彼をそう呼ぶ。常と変わらぬ穏やかな笑みのままで。

 第二子も第三子も第五子も、公の場を離れるとすぐフィリップを父と呼ぶし口調も親しいものに変わるが、長子のアシルは異なった。原因は彼自身にある。

 長兄に追従して長女も同じようにフィリップを敬称で呼ぶ。口調こそ多少は和らぐがそこだけは決して譲らない。

 その度にフィリップの胸に痛みが走る。


 間違えた。フィリップは間違えた。

 今どんなに穏やかに笑い合っていても、どれほど敬愛の念を向けられようともフィリップの罪は消えない。




 フィリップの人生は初めから多くの苦難が約束されていたようなものだった。

 あのアルベルトの子である時点で、例えどんなに優秀でも、どんなに結果を出そうとも、決してまともに評価される事など無いのだから。

 可哀想に。いつもそう言われた。そう言いた気な目で見られた。


 帝国の跡継ぎにも関わらず、フィリップの縁組みには相当な苦労が重なった。

 候補はいたのだ。幾人も。優秀で聡明な令嬢はしかし、それだけの女性を育て上げた親は常識的であった。それが故に、我が子が同じ目に遭っては敵わんと、あのアルベルトの子へ嫁がせる事に難色を示していたのだ。


 当然の事だった。

 主君の為にと幼い頃から身を捧げた結果のあの騒動。アルベルトとマリーウェザーの婚約破棄騒動の余波は次代に寄せられた。

 結果的にマリーウェザーは幸せにはなったが、それも所詮は結果論。次期皇后となるべく費やされた時も献身も戻らない。

 同じ目に遭う可能性の高い所へ最愛の我が子を送り出すなど出来ないと、皇后に相応しい娘を育てられるほど優秀な人々はこぞって渋った。フィリップの妃候補の親はアルベルトと同世代、つまりあの現場に居合わせた者達ばかりなのだから。


 確かにアルベルトのお陰で世界大戦は開かれなかった。それは誰もが認めるところだ。

 しかし、それとこれとは別。

 むしろエルルリアを娶れたアルベルトが奇跡である。


 フィリップの縁組みは十八を過ぎても候補者すら定められない状態だった。どの令嬢にも無理強いなど出来なかったのも理由の一つである。

 本来ならば皇家からの必要な命令とあらば貴族らは逆らえない。

 けれど出来なかった。

 誰よりも彼自身が最も父親の事で苦しんでいたからこそ、その苦しみを同世代の女性にまで強いる事が出来なかったフィリップ。その原因を作り出してしまったアルベルト。

 どちらも無理な命は下せなかった。


 幸いにして皇家にはフィリップ以外にも、六つ下に弟のランディバルがいる。世情を鑑みながらゆっくり探そう。表向きはそう取り繕った。

 けれど焦りは消えない。

 自身の代で皇家の血を途切れさせてしまうかも知れない。ただの国ならば、ただの王家ならば多少の混乱はあれど人は続くであろう。

 けれどメルセルヴィーテは世界唯一の帝国。

 ここが帝国たる所以は守護神の加護のお陰であるが、その加護は皇家の血に宿っていると謂われている。確証の無い皇家にのみ伝わる言い伝えだが、それでも皇族なら誰しも幼い頃から繰り返し言い聞かせられてきた。


 皇家の血が絶えたら守護はどうなるだろう。

 民はどうなるだろう。

 世界はどうなってしまうのだろう。

 どうにも出来ず、他者が思うよりも独り苦しんでいたフィリップを救ってくれたのが、現在彼の皇后となってくれた女性──アンスリンドだった。




 彼女との出会いは夜会。

 その夜、フィリップは新たに独立した小国の独立記念式典に参加していた。

 暑い夏の終わりの気配が漂う夜。

 未だ属国の名残りは至る所に残されてはいたが、それでもきな臭い国からの独立にその国は沸き立っていた。希望で溢れている。


 独立したての小国は帝国の庇護を欲していた。そこに付け入る事は出来るだろう。そこに付け入りたい者もいるだろう。

 だからこそフィリップは要らぬ勘繰りや憂いを与えるべきではないと、その式典には参加しないつもりだった。

 庇護と引き換えに王女を娶る事は出来よう。だが、ようやく平和を掴み希望に溢れたこの新しい国にそれを強いるのは、あまりにも不憫でならない。

 フィリップが参加しただけで確実に下世話な噂もされる。


 だから外交の得意な貴族が来る予定だった。

 その貴族がワインの飲み過ぎによる腹下しと二日酔いにさえならなければ。

 ──なんだ、その理由は。

 フィリップは式典に参加しながら心の中で毒突いた。飲み過ぎの理由が接待で無ければ殴りに行きたかったくらいだ。

 お陰で急な代理が必要となり、それならばやはり当初の予定通りにと皇太子であるフィリップに白羽の矢が立った。

 なるべく目立たぬようにしよう。

 余計な噂が囁かれぬよう最善を尽くそう。

 そう心に決めて挑んだフィリップだったが、その決意は一瞬で崩れ去った。


 夜会の談笑の場でアンスリンドと目が合った瞬間、フィリップの瞳にはもう彼女以外の何者も映らないほどであった。


 長年虐げられてきた独立したての小国、その国の第四王女。三人の王妃、六人の側妃、二人の妾を持つ好色の王と呼ばれた男の末の子がアンスリンドだった。

 王族と言えど戦火の国に生まれ育ったアンスリンドは痩せぎすで、けれどフィリップの目にはこの世の誰よりも美しく可憐に映る。誰よりも輝いている。彼女だけがフィリップの光だと感じた。


 どうやらそれはアンスリンドも同じであったようで、彼女もまた呆けたようにフィリップを見詰め、やがてその瞳を蕩けさせた。

 諸外国にはあまり知られていないアルベルトの所業だが、この国には帝国に庇護を求めるほど、帝国にはそれを婚姻の縁が無くとも受け入れるだけの交流がある。

 だから多少なりとも事情を知られていたのだろう。急遽フィリップが参加すると知らせを届けた時、かの国の上層部は困惑していたそうだ。


 二人の様子から周囲もすぐに察した。

 目と目が合った瞬間に見詰め合うばかりで一言も発さない若者二人を気遣うように、一人、また一人と彼らから離れていく。

 会場の一角に不自然な空間が出来てからしばし、ようやくフィリップが口を開いた時には夜会は終了間際だった。



 こうしてその夜は自己紹介しか出来なかった二人だったが、片や帝国の皇太子、片やその帝国の庇護を求める小国の王女。周囲の認識と情報伝達は一瞬であった。


 だが、国王であるアンスリンドの父は元より、アンスリンドの母以外の妃達や義兄弟姉妹達までもがこぞってフィリップとの婚姻に反対の意を唱えた。味方などいない孤立無援の状態。

 王家は口々にアルベルトの例を持ち出してはアンスリンドを止めた。国王は心からアンスリンドを案じていたが、他の者達は末の王女に傅く事を厭うていただけ。

 けれど反対したのはフィリップも同じだった。一目で心惹かれたからこそ、この地獄のような日々を共に過ごしてほしいとは言えない。最愛の人だからこそ巻き込みたくないと強く感じた。

 そんな中、唯一この出逢いを誰よりも喜び、婚姻を後押しし尽力した者がいた。


 ──他ならぬアンスリンド本人である。


 誰に何と言われようともアンスリンドは諦めなかった。

 確かにアルベルトは間違えた。けれど、それに関してフィリップに何の咎があるのか。いつまで過去の話を蒸し返すつもりか。この世に間違えぬ者はいるのか。過ちを冒した者を被害に遭ってもいない者が咎める事は正しいのか。

 いつまでもこぞって批難して過去ばかり振り返って、今現在や未来を見据えられない者になどなってくれるな。

 人々に繰り返し問うた。繰り返し語り掛けた。


 そうだ。アルベルトは間違えた。とんでもない事をしでかした。

 けれど、フィリップには優しい父だ。時に厳しく接し、時に面白おかしく笑わせてくれ、いつも大切に愛してくれていると感じられる父なのだ。

 敬愛する父を否定され続けて喜ぶ子がどこにいる。

 少なくともフィリップは聞きたくなかった。苦しかった。父を否定され続けるのは、心を殺されるのと同義だった。

 正論ぶっていても、真実だとしても、それを子に聞かせ続けることは正しいのだろうか。幼い頃より繰り返されてきた言葉により、フィリップの心は限界にまできていた。

 けれどアンスリンドが救ってくれた。


 彼女はフィリップを見てくれる。アルベルトの子としてではなく、フィリップ個人を見てくれる。彼の父を否定しない。

 そして共に在るべく尽力してくれている。

 彼女の誠意に応えずして、何が皇太子か。何が次期皇帝か。

 フィリップが心を決め立ち上がると、それまで静観の姿勢を崩さなかったアルベルトも全力を尽くしてくれた。

 その時の皇帝として立つ父の姿をフィリップはまだ覚えている。



 どんな過去があろうとも皇帝として君臨しているアルベルトが動き出してからは順調に話が進み、フィリップは感激の中で愛しい人を迎えた。見ている者の方が赤面してしまうほどにアンスリンドを寵愛し、優先し、敬った。

 彼女の為ならば何でも出来るような気になるほどの歓喜で満たされた日々の始まり。


 ──跡継ぎが必要な事は分かっているが、三年は待ってほしい。


 婚姻祝賀の際に出されたフィリップの言葉は、最愛の女性との二人きりの時間を皆に認めてもらうための願いだった。

 国民は熱狂した。皇太子時代に突然婚約を解消した皇帝の子は、いつまで経っても縁談のえの字も無い皇太子。国はどうなるのか。不安に思っていた所に降って湧いた吉報。

 美しい王女を迎えた皇太子の表情たるや、かつての何かに追い込まれていたかのような様子はまるでない。幸福そのものだ。

 成婚時の国民への言葉ですら惚気るとは。微笑ましい限りである。


 しかし、そうなると出てくるのが一部の強欲者だ。

 あんなに妻を大切に出来ると知っていたら、自身の娘を皇后にしたかった。小国の王女など大国の皇后に相応しくない。異国の血を帝国に入れるのか。

 かつての己の言動は棚に上げ、声高らかに、さも自身が正しいかのように言い放った。まるで、アルベルトを批難していた時と同じように。


 フィリップは憤慨した。

 彼が最も苦しんでいた時に背を向けていたくせに、彼を最も苦しめていたくせに。今更何を偉そうに言っている。何を憚ることなくそう責め立てた。

 そして当然厳しく罰した。

 アンスリンドへの無礼な言動は一切許さない。フィリップはアンスリンドだから大切にしているのであって、まかり間違って他の者がフィリップの配偶者となったとしても同じようには愛せない。愛さない。優遇するどころか会うことすらないだろう。

 そう言って、徹底的に他の女性を拒絶した。



 強欲者共が歯噛みしている間にフィリップの寵愛を一身に受けていたアンスリンドは懐妊した。成婚時に告げた三年より遥かに早く。

 フィリップは狂喜し、安定期までを指折り数えた。

 アンスリンドが悪阻で苦しめば必ず側で背をさする。乞われれば何でも叶えた。多くを望まぬ慎ましいアンスリンドがじれったく感じるほどの日々。

 安定期に入り彼女の様子も落ち着いてきて医師の許可が下りると、直ちに国中へ自慢するように懐妊を知らせた。いや、完全に自慢だった。

 成婚時の願いは何だったのかと人々は大いに笑い、喜び、そして心から祝福してくれた。

 幸せだった。

 何の衒いなく、ただありのままに日々を過ごせたのはこの時が初めてだったかも知れない。


 けれど、そうして生れてきた大望の我が子は、その身に一切フィリップの色も姿形も映していなかった。


 成長するにつれ落ち着いてくるとは言われたが、明らかに茶色っ気の無い銀にも近い金色の髪。エメラルドのような瞳。妻によく似た顔立ち。

 どこにもフィリップはいない。

 まるで彼は不要とでも言っているかのように見えた。

 天国から地獄へ突き落とされたような絶望。一度幸福で満たしておいてから全て偽りだったと言われたかのようだった。


 今でこそ、それしきの事でと言えるかも知れない。

 けれどこの時のフィリップにはとても冷静になれる余裕などなかった。ほんの僅かでも自分に似ていてくれたらと何度も苦悩した。

 生まれたばかりの我が子を視界に入れないようにするしか、己の心を守る術が無かった。

 生まれてから一度もその腕に抱く事無く、極力目にする事すら無いよう取り計らい、時にはアンスリンドすら避けて過ごした。


 普段はじっとしていられず国中のあちこちへ行っている放浪癖のある弟のランディバルですら、その時期は皇宮に滞在しフィリップを諌めたほどだ。いい加減にしろと何度いっていた事か。

 けれど、そう言われれば言われるほどフィリップは頑なになっていった。

 遅れてきた反抗期かと言われ殴り合いの喧嘩に発展したこともある。二人揃って正座させられた。当然だ。


 そうこうしている内にアルベルトは退位し、フィリップは皇帝となり、アンスリンドは皇后となった。

 けれどフィリップは態度を改められなかった──。



 それでもフィリップは妻を、アンスリンドを愛していた。それだけは変わらない。

 ここぞとばかりに皇后下ろしを狙う輩を徹底的に廃し、決して彼女の他に目を向けないくらいには愛していた。

 それならば冷遇するなという話だ。他ならぬ自身の言動がアンスリンドの立場を危うくしている。

 分かっている。分かっていた。

 けれど、頭では分かっていても心が付いていかない。

 彼女を目にするとどうしても自分の色がまるでない長男がチラつく。どうして何一つとして自分の要素が無いのか。そればかりが思考を占領した。

 怒りや悲しみを表に出さないよう仏頂面で留めるのが精一杯だった。決して暴言を吐いてしまわないよう口を閉じるだけで精一杯だった。


「父上」


 アシルがフィリップをそう呼んでくれたのはただの一度きり。

 幼い我が子がそう呼び掛けて来た時、フィリップは気付けば激高し声を荒げていた。


「お前にそう呼ばれる筋合いはない! 二度とその呼称を余に使うな!!」


 まだ二歳にもなっていない我が子に向ける言葉ではなかった。なかったが、もう言葉は外に出ている。

 ──しまった。

 慌てて口を塞いだ。

 だから口を開きたくなかった。こんな事など言いたくなかったのに、もう音となって伝わってしまっている。

 ぐるぐると脳内を後悔と己への怒りが渦巻く。

 けれどアシルはきょとんとするばかりで、全く何も感じていないような様子だった。幼い表情。

 理解するな。今、何と言ったのか理解してくれるな。

 少しの間の静寂。

 祈るように心の中で幼子の無知を願い、フィリップは頑なに手で口を覆い続けた。互いに無言で視線だけを交わせる。

 やがてアシルは何かに納得したように数度頷いた。


「かしこまりました、陛下」


 瞬間、凄まじい後悔に襲われた。先程の比ではない。こんな幼い子になんて事をしてしまったのだろう。

 ──この子は全て理解している。

 違う。こんなものはただの八つ当たりだ。何の八つ当たりかも分からない。だけど確かにフィリップの心の内にある憂いがそうさせる。

 けれど誰かを傷付けたいわけではない。

 そうではないのに、現実では何一つとして理想通りにならない。


「母上がおさがしです。おへやへおこしください」


 まだ舌っ足らずではあるが皇子に相応しい口調だった。

 フィリップが目を反らしている間にもアンスリンドは我が子にきちんと教育を施している。しっかりと愛情を注いでいる。その事をまざまざと思い知らされた。

 アシルの案内で引き合わされたアンスリンドから告げられたのは、懐妊の知らせだった。



 アンスリンドの不貞疑惑が明らかにフィリップの誤解であると判明したのは、彼女が第二子を出産した時だ。

 フィリップと同じ髪と瞳の色の皇子。よく似た顔立ち。

 ようやく世界に認められた気がした。


 やっと間違いを正せると、アシルの時は義務感のみで簡素に行っていた御子誕生の祝い事を、二度目は嬉々として執り行った。

 長子の分も盛大に祝い、皇后はアンスリンドのみであると知らしめよう。ついでにアシルの紹介も改めて行い、今年からは誕生祭も大々的にやろう。今までよりも、もっと。

 フィリップがそう心に決めて催した規模も予算も桁違いの第二皇子誕生の祝賀会。

 そこでフィリップはアンスリンドの怒りを思い知った。


「陛下」

「アンスリンド? どうした? 具合が悪いのか?」

「エミリアンは陛下と私の子です」

「? そうだな」

「それは、アシルもです」

「……あ、ああ。そうだな。どうしたんだ?」

「私の子です。どちらも大切な、私の子です」


 無自覚の扱いの差。けれど、あまりにもあからさまな第一子と第二子の差に、アンスリンドは第二皇子の誕生の祝賀会を我が子二人と途中退場するという形で抗議を行った。

 常に品行方正で皇后として恥じない振る舞いを心掛け、およそ他者から非難されるような言動などとった事の無いアンスリンド。そんな彼女が初めてなりふり構わず母親としてとった行動だった。


 当然、そんな彼女の行動に批難はあった。

 けれどそれらの全てをアンスリンドは一蹴した。皇后として、母として。

 皇子達の心の為にも、一人の人間としても、そして何より愛する我が子達の将来の為にも受け入れる事は出来ない。無用な後継者争いの元となりそうな要素は瞬時に廃する。私は幸せにする為にこの子達を生んだ──と、そう言って。

 この発言に世の女性達は追従した。母は強い。

 そしてランディバルが直ぐ様皇后の発言を賞賛したこともあり、批難の声は急速に小さくなりやがて消えていった。


 これに慌てふためいたのは当然ながらフィリップである。貴族の批難や女性達の怒りより何より、妻を傷付けてしまったとようやく気付いた。

 周囲の目など気にも止めず、連日連夜のように皇后の居住区へ足繁く通い、開かれぬ扉を相手にひたすら許しを乞うた。

 過去を悔いて反省し結果を出そうと急いて、皇子誕生の祝賀会という大きな行事を妃との相談もなく独断で仕切ったが故の失敗。

 相談をすれば良かった。素直にこれまでの態度を謝罪し、どうすれば良いか話し合えば良かった。

 汚名を返上しようと焦り過ぎたのだ。悪手にも程がある。


 けれどフィリップの謝罪はすぐに「乳幼児が居るのに気遣いが無い。五月蝿い」と女官を通して抗議された。心から反省した。確かにそうだ。

 ならばと今度は日に何度も文を出す。

 会いたい。話をしたい。アシルの帝王学について相談しよう。会いたい。会いたい。顔を見せてほしい。不便は無いか。エミリアンは元気か。アシルはどうしているか。会いたい。

 そんなフィリップの文は、十日ほどしてから全て紐でひとまとめにされた開封すらされていない状態で返却された。

 絶望しかない。

 間違えた。また間違えた。どうしたらいい。どうしたらちゃんとあの子達の父親になれるだろうか。

 どんなに考えても答えは出ない。



 どうしようもなくなっていたフィリップを救ったのは冷遇してしまった息子だった。


「陛下」


 その日もフィリップは皇后の居住区近くに居た。

 幼い声に振り向けば、そこには少し戸惑ったような苦笑を浮かべているアシル。

 連日のように居住区近くの柱から頭だけを覗かせている父が気になったのだろう。何をしているのかと不思議そうにしている。

 その顔が最愛の妻によく似ていて、フィリップは途方も無い寂寥感に苛まれた。


「アシル……」

「さいきん、いつもそこにいますね」


 仰る通りである。


「どうしました? なにかありました?」

「いや、その……」


 妻を怒らせてしまって妻子に会えず、寂しくて連日覗いています。──なんて、幼い我が子に言える筈もない。


「いま、えむはねむっていますよ」

「そうか。……お前は元気か?」

「はい」

「母はどうだ?」

「おおむね」


 概ね、だと。本当に二歳児か。

 フィリップは我が子のあまりの利発さに思わず息を止めた。


「陛下、母上にあいにいらしたのですか?」

「そうだ。あ、いや、お前達にも会いに来た」

「そうですか。もうすこしあとなら、おきているえむにあえますよ」

「そうか。アシルは今何をしていた?」

「ほんをよんでいました。そこのこかげで」

「そうか。何を読んでいるんだ?」

「宗教と戦争から見る世界経済と進化論」

「え?」


 フィリップは聞き間違いかと思わず我が耳を疑った。


「宗教と戦争から見る世界経済と進化論」

「お、面白いか?」

「なかなかきょうみぶかいです」

「そ、そうか……。アシル、時間はあるか? 今は何の時間だ?」

「ごぜんのきゅうけいじかんです。このあとおやつをたべます」

「そうか。その後は?」

「おべんきょうです」

「そうか。ならば、今の内に父と散歩に行かぬか?」

「かしこまりました」


 およそ会話らしい会話をしたのはこれが初めてだったが、中々良いのではないかとフィリップは希望を感じた。


「えむがおきるじかんになったら、ごあんないします」


 だが、それもすぐに潰えた。

 ──そうじゃない。フィリップは叫びそうになった。

 父は弟に会いに来ているのだとアシルは思い込んでいる。その考えを微塵も疑っていない。フィリップが自分の事を気に掛けているだなんて思いもしていない。


 それはつまり、フィリップには全く期待などしてもいないと言う事だ。

 期待をしていないからアンスリンドのように怒らない。父親を常に陛下と呼ぶことに抵抗がない。父親らしい事をしてもらえずとも気にならない。弟が優遇されても遠くから楽しげに眺めていられる。

 何かしてもらえるだなんてまるで思っていない。

 幼い我が子の一日のスケジュールすら知らない父など、期待をする相手だとすら認識していない。当然だ。


「アシル、先程の……あー、宗教と戦争の……」

「宗教と戦争から見る世界経済と進化論」

「それだ。それは誰から読むよう言われた?」

「じぶんでえらびました」

「何故それを選んだ?」


 子供らしい絵本もないのかどうなのか。それすらフィリップは知らない。


「がくしゃになりたいからです」

「お前は学者になりたいのか?」

「それがいちばん、あらそいのもとになりにくいと、おもいました」

「争い?」

「けいざいが、いちばんにがてなのです」

「何の事だ? 争いとはなんだ!?」

「陛下はえむがおきにいりだから、こうたいしはえむになると」

「誰がそんな事を言った!?」

「じじょです」

「侍女?」

「それならば、わたしはいないほうがいいそうです」

「誰だ、そんな事を言っていたのは……」

「じじょです」

「どの侍女だ」

「ほとんどです。そんなじじょばかりです」


 フィリップはこの時、多くの侍女の解雇を心に決めた。

 例えフィリップの言動が良くなかったとして、だからと言って侍女ごときが偉くなる訳でも発言権が与えられる訳でもない。それなのに何故そんな事が言えるのか。

 アンスリンドの侍女ならば尚の事、どんなに拒否されようとも連日フィリップがご機嫌伺いをしている事を知っている筈だ。皇帝は皇后に首ったけだと分かる筈だ。

 皇家に仕えている自覚の無い者を侍女につけてしまった失態を知り、フィリップは心底己の人を見る目のなさを呪った。


「あ、えむがおきました」

「分かるのか? どうやって?」

「えむはおきていると、よくわたしにまりょくをむけてきます」

「それは……大丈夫なのか?」

「びびたるものですから。かまってほしいのです」

「そうか。……余も行って良いだろうか」

「わたしといっしょなら、だいじょうぶですよ」


 アンスリンドのこれ以上の拒絶が恐ろしくて不安なフィリップの思いを察してか、アシルはにこやかに頷いた。我が子がとても頼もしく思える。

 アシルに連れられてアンスリンドの部屋へ向かう。

 皇后の部屋を守る騎士達は少しだけ目を見開いたが、やがて何事も無かったかのようにフィリップを最敬礼で迎えた。


「母上。もどりました」


 何の抵抗も無くアシルは室内に入って行くが、フィリップはどうしても一歩踏み出せず扉の前で立ち止まってしまった。

 騎士達はそっとフィリップから顔を反らしている。


「あら。お帰りなさい、アシル。長いお散歩だったわね。喉は乾いていない?」

「すこし」

「疲れたでしょう? いらっしゃい。エムも起きたところよ。おやつにしましょう」

「母上、陛下がいらしています」

「は!?」


 誰が通したと言いたげな怒りの声だった。フィリップは恐怖に震えるしかない。


「いっしょにおさんぽをしていました」

「え? あら。そうなの?」

「はい」


 だが、アシルの一言でその怒りも一瞬で霧散した。フィリップの父親らしい行動に驚き、意外にも歓迎しているようだ。

 ──良いぞ、その調子だアシル。

 扉の隙間から室内を覗きながらフィリップは心の中でアシルに声援を送った。


「何かお話はした?」

「わたしが、さいきんよんだ、ほんについて」

「本? どの本のお話をしたの?」

「宗教と戦争から見る世界経済と進化論」

「え!?」


 アンスリンドは聞き間違いかと思わず我が耳を疑った。


「宗教と戦争から見る世界経済と進化論」

「あ、そ、そう……随分とまあ、小難しいものを好むのね。そんな本あったかしら……」

「陛下もごいっしょにおやつ、いいですか?」


 我が子のお願いを聞いたアンスリンドは顔を上げて扉へ視線を向けた。

 僅かに開いた隙間から夫の情けない顔が覗いている。


「…………」

「……陛下」

「はい……」

「どうぞ」

「良いのか!?」

「お嫌でしたら帰ってどうぞ」

「いや。いや、入る入る」


 この機会を逃して堪るかとフィリップは瞬時に室内へ入り、席に着いた。

 しかしアンスリンドはそんなフィリップにもう視線を向けない。


「どうも、陛下。うちのアシルがお世話になったようで」

「いや……我が子だ。これからはもっと共に過ごす時間をと……」

「はあ?」

「うっ……。とっ、共に、過ごさせては貰えないだろうか……」

「考えておきます」

「宜しく頼む。…………一つ聞いても良いだろうか」

「何です」

「あの横一列に並んで壁に向かって行進し続けている侍女達はどうしたのだ? 額がめり込むぞ」


 既に手遅れかも知れない。

 絶対に今頃は額が真っ赤になっているだろう。


「罰です」

「罰?」

「皇后と皇子を軽んじた罰です」

「何をされた!?」

「陛下にお話する理由がありませんわ。元凶ではないですか」

「…………解雇はせぬのか」

「したいです」

「即刻全員解雇!」


 この日を切っ掛けにアンスリンドは少しずつまたフィリップと会い、会話をしてくれるようになった。それがどれほど有難かったことか。

 どれほど無念であったことか。

 例の侍女達は解雇したが、彼女達があんな話をしたそもそもの切っ掛けがフィリップの態度のせいだったので、アンスリンドはそれでもしばらくはフィリップを警戒していた。それでもいい。一言二言でも会話がある事が何よりも嬉しかった。


 二人がぎくしゃくしている間、緩衝材のような役割を担ってくれたのがアシルだ。子供のような言動の合間に理解不能な事を言い、全てを忘れるほど困惑させられてはフィリップとアンスリンドは話し合いを重ねた。

 ──今のどういう意味かしら。

 ──全く分からん。

 どんなに話し合ってもまるで理解できなかった。何も解決しなかった。

 けれど、だからこそ多く言葉を重ねられた。重要な事から些細な事まで、あの日からフィリップが何を感じ、何を思い、あのような暴挙をしでかしてしまったのか。

 何故こんな態度をとってしまうのか分からない。分からない事が申し訳ない。そう言うフィリップを眺め、長い溜め息を溢してから、アンスリンドはやがて小さく呟いた。仕方の無い人ね──と。


 少しずつ軟化していくアンスリンドと接しながら、拒絶されるのは身を裂かれるように辛いが、こうして許されるのは心をえぐられるようだとフィリップは感じた。

 許しも罰と成り得るのだと身を持って思い知った。



 そして翌年。

 予定日より随分と早く第三子が生まれたのは、間違いなくアンスリンドの心にかかった負担のせいだろう。第三皇子は小さく生まれた。

 それでも生まれた。生んでくれた。こんな不甲斐ない男の子を生んでくれた。

 フィリップは息子三人を抱き締めて涙を流し、エミリアンに髭が痛いと頬を叩かれ、不機嫌になった生まれたての我が子には泣かれた。アシルは涙を拭いてくれたが、それは弟の涎拭きだ。とんでもないことになった。

 エミリアンと似た、つまりフィリップとよく似た子は、テオと名付けた。


「陛下」


 アシルは間もなく四歳になるが、未だフィリップはどう接したらよいものかと思い悩んでいた。彼はまだフィリップを陛下と呼ぶ。


「アシル、どうした?」

「叔父上がきました」


 振り返るとそこにはエミリアンを抱き上げているランディバルがいた。

 同じ次男だからだろうか。二人は気が合うらしくよく会話をしている。ただし、エミリアンはまだほぼ喃語しか話せないのでランディバルの相槌は彼の気分次第だ。


「兄上」

「ランディバル、どうした?」

「捕獲したぞ、また。エミリアンは脱走癖があるな。それより、気付いたか?」

「何にだ?」

「母上とアシルの瞳をよく見比べてみろよ」


 祖母エルルリアに抱かれたアシルがフィリップを見ている。美しい翠眼がフィリップを映していた。

 エルルリアも孫を抱き上げたままフィリップを見ている。

 その時になってフィリップはようやく気付いた。二人の瞳の色はそっくりそのまま同じだ。幼い頃から苦労を共にしてきた母親の色を、アシルは宿してくれている。

 そんな事にも気付けなかったのか。己に愕然とした。


「へっか」

「ん? エミリアン、どうした?」

「へっか!」


 フィリップに向かってびしりと指を伸ばし、堂々たる姿でエミリアンが自慢気に繰り返す。

 どうやら兄を真似たらしい。エミリアンが初めてフィリップを呼んだ瞬間だった。

 アンスリンドは腹を抱えて笑っていた。



 過去の己の愚行に思い悩んでいる間にアシルは運命と出逢い異質性を遺憾なく発揮するようになり、ランディバルもまた運命と出逢い数々の反対の声をねじ伏せ隣国へ婿入りしていった。

 続く怒涛の展開にアンスリンドと目を回している間に月日は過ぎる。

 目まぐるしい日々だった。


 そしてフィリップの抱いた猜疑心が完全に被害妄想だったと思い知らされたのは、第四子が生まれた時、初の皇女の誕生時だ。

 彼女は完全なる神の姿を持って生まれた。

 神話に残る守護神の姿、それは人間には作り得ない不可思議なもの。完璧に神を再現した姿の皇女は『神の映し身』と呼ばれ、国中に感動の渦を巻き起こした。

 その姿とは、左右で濃淡差のある虹色の瞳、額と左手首の宝石、首元の痣、そして限りなく銀に近い白金の髪。

 その髪色は、まさしく生まれたてのアシルと同じもの。

 成長するにつれ落ち着いた色味となってはいたが未だアシルの髪は綺麗な蜂蜜色。そんな長男の生まれたての頃と同じ髪色の皇女。よく似た兄妹。


 フィリップは震えた。神の映し身は皇家に生まれる。この皇家にしか生まれない。アンスリンドは他国の王女だ、彼女に皇家の血は流れていない。シャーロットは間違いなくフィリップの子だ。

 フィリップやアンスリンドの色どころか両家の親族の色すらも持たず、人並み外れた要素ばかりを多く持つ皇女。それでもその姿でもって間違いなく皇家の血を継いでいると明言していた。

 そんな長女と同じ髪色の長男。皇女ととてもよく似たアシル。

 ──初めから疑う必要など無かった。

 アシルは間違いなくフィリップの子だ。神に愛されたが故の色だっただけなのに、冷遇した。冷遇してしまった。


 更に翌年生まれた第五子、第四皇子のお陰でフィリップの被害妄想は、完全に悲劇の主人公気取りの独りよがりだと追い打ちのように告げられた。

 フィリップと全く同じ髪色を持ち、かつ顔立ちが誰よりも彼と似ている第四皇子の瞳の色は、アシルと同じ翠眼だった。




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