5・ネストールとユテル
程なく石竜は完成し、魔法庭園全体も開園の日を迎えた。その庭園御披露目が行われる前日のこと。
ネストールは休憩中に、石の竜を眺めていた。鱗の1枚1枚、瞼の皺の1本1本に至るまで、躍動する魔力が血液のように駆け巡る。ユテルは、明日に向けて最後の磨きをかけているところだ。
完成した石の竜は、気まぐれに歌う。不規則に羽ばたき、向きを変える事もある。時には目を瞑り、丸まって眠る。
今は、創造主の手の元に大人しく磨かれていた。
「ユテル、本物の龍を見たくはありませんか?」
ネストールは、何でもない事のように切り出す。
「見たいよ、あてがあんのかい?」
ユテルは、期待を込めた眼差しを送る。
「ネストールの故郷には居るんだろうが、随分と遠いんだろ」
何か手段がありそうだと思いながら、ユテルは質問する。
「お仕事のあと、今日はお時間ありますか?」
「あんた、魔法使いかね?」
「いいえ、ただの笛吹きですよ」
「へええ、そうかね」
「まあ、楽しみにしてくださいよ」
夕方、仕事を終えた2人は、ネストールが街に来た際通った門をくぐる。来たときに門衛から教わった通り、辻馬車を利用した。
ネストールは、辻馬車で街の外に出て、ユテルを森まで連れて行く。嵐の日、ネストールが途方にくれて立ち尽くした湖がある森だ。
あの日はとぼとぼ歩いて来たが、今日は快適な馬車の旅だ。道連れもいた。
あの大きな湖は、辻馬車の休憩地点でもあった。森向こうまで行く乗客達が、思い思いの休憩をとる。
親戚を訪ねると言う家族連れは、弁当を広げて楽しそうだ。水筒と固形食糧を取り出した恰幅のよい紳士がいる。紳士は、商用で森向こうよりも更に遠くにある都市を訪れるらしい。初めてのひとり旅で緊張している若い女性は、ストレッチをしていた。三人連れの若者が、声をかけたそうにチラチラ見ている。
休憩が終わると、乗客はまた馬車に乗り込む。
ネストールとユテルは、森の道を走り出す馬車を見送った。帰りの辻馬車が来る時間も一応聞いたが、明日になるという。
ユテルの持つ工具箱をキャンプ道具と解釈してくれたようで、湖に留まる2人は怪しまれはしなかった。
車輪の音も消えた頃、ネストールは、ユテルに向き直って微笑んだ。
「そこでじっとしていて下さい」
ユテルが、訝しそうにネストールを見やる。
ネストールは、徐に湖へと歩き出す。ネストールはユテルが見守る中で、小さな音の口笛を吹く。湖は僅かに波立って、ネストールが一歩踏み出す。その月笛の名手は、事も無げに水面を渡って行く。
息を詰めて凝視するユテルは、身じろぎもせずにいる。見る間にネストールは、湖の中程にまでやって来た。
菫色の瞳が、水面からユテルを振り向く。
首から提げて懐に差していた月笛の袋を背中側に回すと、ネストールは深く息を吸う。
歌でも歌うのかな、とユテルは思った。
ネストールの体に空気の渦が集まる。夕焼けが湖面を赤く染めてゆく。ネストールの黒髪が燃え立つ赤を映す。
「こちらへ、ユテル!」
差し伸べられた手は、巨大な爪のある羽に変わった。
「えっ」
と驚く暇もなく、ネストールは、巨大な黒竜となって湖に立つ。
ユテルは、一瞬、竜へと変わる姿に立ちすくんだ。だが、吸い寄せられるように、ユテルも湖を渡って行く。水面から、ネストールの深閑とした魔力が感じられる。
竜の姿をしたネストールの所まで辿り着くと、ユテルは、大きく穏やかな菫色の瞳を見上げた。小山のような竜なのに、ちっとも怖くはなかった。
ネストールの優しい息が、静かな魔法となってユテルを包む。ユテルの体は、ゆったりと持ち上げられる。そして、すとんとネストールの背中に乗せられた。ネストールの首には、月笛が入っている袋があった。
「袋の紐に掴まって」
姿は変わっても、ネストールの声は変わらなかった。魔法生物故に、体の大きさや見た目と発する声は一致しない。
ユテルは安心して、笛袋の紐を掴む。どうやら紐は、魔法で強化されているらしい。
首に跨がる格好になり、なんだか肩車されている気分だ。
ネストールの魔法で守られたまま、石工の乙女は湖を飛び立つ。羽ばたきは、水面や森の木々を揺らす。しかし、暴風にはならない。多少の落ち葉は舞うものの、森の平和を乱しはしない。
ネストールは、ユテルを乗せて茜色の空を滑る。夕陽が、遠くの地平線に落ちて行く。一番星は金色に光っている。巣に急ぐ鳥たちが、隊列を組んですれ違う。虫達が慌てて道を譲る。
ユテルは、ときめく乙女心を抑えることが出来なかった。
「空は素晴らしいな。ありがとう、ネストール」
自ずと甘い声になり、ユテルは、ネストールの首に身を寄せた。心安らぐユテルの魔力がとても近く感じられ、心底嬉しいネストール。
「ユテルと飛べて幸せです」
ネストールの声にも、恋が滲む。
ユテルは、ネストールの堅い鱗に頬を寄せ、このまま時が止まればいいのに、と思った。
ネストールはユテルの体温を優しく受け止め、これからずっとユテルと過ごせたらどんなに素敵だろう、と微笑んだ。
空は、だんだんに暗くなる。茜色から紫、藍色と変わり、星が増えてゆく。やがて、瞬く星で漆黒の空が埋め尽くされた。
満天の星空には、満月が銀の光を放つ。月は、寄り添い心を通わせる若い2人の芸術家を、そっと見守っているのだった。
これにて完結です。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。