■5.大統領補佐官ナンシー・サンダースの憂鬱。
いつも拙作をお読みいただきありがとうございます。
前話の
>“We will never retun!(私たちはもうもどない!)”
に関しては意図的な誤字であり、サンダース大統領のスペルミスを表現するために、returnともどらないを故意に崩しております。今後ともお付き合い頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。
2021年4月4日、アメリカ合衆国ワシントンDC。
太陽の光を燦々と浴びて輝くホワイトハウス、その1階の多目的室グリーンルームでは、ソファに座った大柄の白人男性が、手掴みで巨大なハンバーガーを口に押し込めているところであった。
「大統領閣下。ハンバーガーを手で直接掴んで食べるのはおやめください」
傍らに控える大統領補佐官が注意したが、大統領と呼ばれた男は、その濃紺のスーツを纏ったブロンドの女性を一瞥しただけで、返事をしなかった。
別に彼女のことを嫌っているわけではない。
ハンバーガーを咀嚼するのに必死だったからであり、すぐにテーブルの上にあるダイエットコーラに手を伸ばし、がぶ飲みして牛肉とバンズの塊を胃へ流し込んだ。
「悪い悪い、ミセス・ナンシー。でもこの食い方がいちばんだ。クソデカいハンバーガーを両手で掴んでかぶりつき、コーラで押し流さないと食べた感じがしないのさ」
一国のリーダーだとは到底思えない姿と発言に、大統領補佐官は溜息をついた。
彼女はもう大統領補佐官を4年以上務めているし、彼との私的な付き合いは30年以上にも及ぶが、その言動にはいつまで経っても慣れない。
「先進国の首脳でH5pdm19に罹患したのは、英首相と大統領閣下くらいです。恐れながら申し上げますと、手掴みで物を食べていたのが原因かと」
「ロシアのプチナはどうだ? あいつもかかった疑いがあったはずだ」
アメリカ合衆国大統領サンダースは、躊躇いもせずにフライドポテトへ手を伸ばした。
「それに手掴みで物を食べたから感染したっていうのはエビデンスがないぞ。日本人はライスボールを手掴みで食う。だがフルカワは感染しなかったじゃないか」
「その、日本についてです」
30代の大統領補佐官は早口になった。
「我々は在日米軍を2020年以前の規模に戻すべきです」
「うーん……」サンダース大統領は生返事で、ポテトを口に運んでいる。「やはり一度に5本以上じゃないと食べた気がしないな」
「話を逸らさないでください」
ナンシー・サンダース大統領補佐官は平静を装いながら、ポテトが入った紙パックをサンダース大統領から没収した。
「スタッフの半分は在日米軍の減勢に不安を感じています」
「でも残る半分は俺の主張に賛成してくれている……あっ、こらっ! くそ!」
大統領補佐官は流れるような動作で、ポテトをゴミ箱に放り込む。
「大統領閣下の機嫌を損ねるのを恐れて、です」
ぴしゃりと言い放つ。
「日本国を失うことは、すなわち極東におけるアメリカのプレゼンス喪失を意味しています。北朝鮮や中国、ロシアの伸張を許すおつもりですか? ……それとフライにしたじゃがいもは健康に悪いそうです。おやめください」
「違う違う違う違う!」
「どちらがですか?」
「両方だ!」
大声を張り上げたサンダース大統領は、冷静さを取り戻すためにハンバーガーを一口かじり、咀嚼する。
「いいか。閣僚や議員たちは俺の機嫌をうかがっているわけじゃない、国民の機嫌をうかが――不適切だな、国民の声をよく聞いているのさ。新型インフルエンザH5pdm19は、直接的に国民の生命を脅かしただけじゃない。世界恐慌を呼び起こした。大抵の国のGDPは前年度比30%以上の減少を記録した。ウチも例外じゃあない。海外に割くリソースがあるなら俺たちに使え、金があるなら俺たちに投資しろ。それが国民の総意さ。それに逆らうことなく動いたから、俺はまた選挙に勝てた」
「後の禍根になると分かっていても、在日米軍の縮小を是とするのですか」
「政治家は長期的に政局を睨む必要があるが、“いま”が大事なこともある。それからお互いあまり下手なことを言わないように気をつけよう……失業者にいつ暗殺されるかわからんぞ」
「覚えておきます」
「それからフライドポテトだが、フライドポテトを食べることで早死にするというデータにはエビデンスがない」
ここからが重要だ、とサンダース大統領は人差し指を立てた。
「いや、あるのかもしれないが、要は四六時中フライドポテトを食べている食生活が問題なんだろう。1週間に3回、4回以上フライドポテトを食べている人間は、ピザやハンバーガー、ポテトチップス。こういうものを主食としている上にコーラを水のようにがぶがぶ飲んでいるに違いない」
「大統領閣下のことではないですか」
「まあそうだが……」
痛いところをつかれたな、とサンダース大統領は思ったがすぐに切り返した。
「俺は、煙草は吸わんし、酒も飲まない。コーヒーも飲まない。もちろん、ドラッグもやらない。コーラだって、ほら、ダイエットコーラだ。つまり他の奴らよりその分健康だといえる」
サンダース大統領の祖父や兄弟はアルコール依存症がきっかけで病没しており、そのため彼は自身にも家族にも飲酒、喫煙を強く戒めているのである。
自信満々で語り終えた大統領は、再びハンバーガーにむしゃぶりついて、わざとらしく首を傾げた。
これは「他に何かある?」というサンダース家の人間に共通している仕草だ。
(はあ……)
ナンシー・サンダース大統領補佐官は内心で溜息をついた。
「保守層の政治評論家の中には、在日米軍の事実上の縮小を不安視する声を出始めています」
「いまは新型インフルエンザH5pdm19に苦しむ国民と、中小国を支援することが、アメリカの国益に結びつく。まだH5pdm19のワクチンも世界中に行き渡っているわけではない、我が国さえ集団的な免疫を獲得したとは言い難い。再流行の可能性はいくらでもある」
サンダース大統領の言葉は真実である。
新型インフルエンザH5pdm19は、未だ爆発的再流行の可能性を残していた。
現在、人類文明のインフルエンザワクチン製造力は約6か月で20億個から30億個程度だと言われており、2021年2月に完成したH5dpm19ワクチンは世界各国のメーカーから約4億個が出荷され、富裕国の医療関係者・軍事、警察組織関係者、所得の高い都市部の人間に投与されたと考えられている。
つまるところこの2021年4月時点では、H5pdm19に罹患したことも、ワクチンの恩恵にあずかることも出来ていない人々が世界に数十億人いる、ということである。
その上、H5pdm19に対する免疫を獲得した者も安泰というわけではなく、再びの大流行でH5pdm19による入院者が増加し、病床が圧迫されれば適切な医療処置を受けられないかもしれない。
サンダース大統領からすれば、いまはH5pdm19対策に集中し、国内の安定、医療協力による国外の発言力確保を優先したい、という思いが強かった。
「もちろん、北朝鮮の“花火大会”や“理科実験教室”を止めるくらいの力は残しておくつもりだ」
「北朝鮮は小物に過ぎません」
「あのロケットマンの国はもともと瀕死の病人みたいなものだったが、今回のH5pdm19流入で本物の重症者になってしまったからな。問題は中国だと言いたいんだろう?」
「ならば――」
「だがこの状況で中国も動くのか? GDPマイナス成長。21世紀最悪の恐慌にいま彼らは直面している。ここで何か派手な行動を起こして失敗すれば、“忠実な”人民たちの怒りを買うぞ。どうせ、なんとか島とかいう無人島の近海に入った、入ってない。そういうレベルの話さ」
「日本政府の担当者の間では、アメリカが安全保障条約を遵守する気がないのでは、と考える者もいます。もっと積極的な姿勢を見せなければ……」
「もちろん、そういう話が出ていることを俺も知っている。しかし、だ。海軍の高官の中にはこうも言うやつもいるんだぜ、
“日本のために働くのはもううんざり、中国近海で作戦をするのは不利です! 20年代からは戦略を転換しましょう、それはこうです。敵のミサイルと爆撃機がたくさん飛んでくる中国近海に海軍を張りつけるのではなく、中部太平洋まで相手をおびき寄せて少しずつ弱らせる。ぜ……ぜんげん戦略? が、効率的なやり方です。”
ってな。もちろん、俺だってタマなしじゃない。日本を見棄てようなんて言ってない。俺は器がデカい、あんなクソ動画気にしちゃいないさ」
サンダース大統領は自分が食べたファストフードのゴミを全部まとめると、ゴミ箱へ放り込んだ。
「でもアメリカはスーパーマンじゃあない、無人島の戦いじゃ“間に合わない”ってこともあるかもしれないな。さ、午後の公務をこなそう」
「ちょっと……」
「あーフライドチキン食べたい。我ながらアメリカ全土の鳥をぶち殺したのは英断だったが、同時に失敗でもあったな」
ナンシー大統領補佐官が取りつく島もなく、大統領は足早に部屋を出ていった。
(まずい)
と、ナンシーは思う。
父は西部太平洋と東アジアを軽視している。
おそらく中国がアクションを起こすとは考えていないし、起こしたとしても対処する腹積もりはないであろう。
中華人民共和国と対立する台湾や、火種を抱える日本の南西諸島が侵攻されたとしても、いまの父ならば静観に徹する可能性は十分に考えられる。
(老いたな)
いまのサンダース大統領にはグローバルな視野はない。
ただ米国民の反応とH5pdm19の再流行を恐れている。
H5pdm19に罹患した際に、生死の境を彷徨ったせいかもしれなかった。