■31.東天昇る旭日と西天輝く五星、そして――。(前)
11日18時ちょうど。中華人民共和国北京市にある中華人民共和国外交部、その庁舎の一室に在中華人民共和国特命全権大使の神威央一郎は通されていた。
白髪の教授然とした男、神威は無表情のまま、ちらと視線を動かす。中世から欧州貴族が愛してきたボヘミアンクリスタルシャンデリアをはじめとして、見る者を圧倒させる豪奢な装飾が、この部屋には施されていた。白色を基調とした壁紙が暖色の光源を浴び、空間が文字通り輝いてみえる。
が、それを神威は内心で、(無駄遣いだな)と切って捨てた。金に物を言わせて調えた成金趣味に過ぎない。交渉相手を心理的に圧倒する意図があるのだろうが、それと同時に「なめられたくない」という浅ましい思惑が透けて見えるようであった。
「公務のために遅刻したことをお詫び申し上げます」
会談の予定時刻から15分遅れて入室してきたのは、外交部部長の馬樹南であった。言わずもがな外交部のトップ。国家主席の金洪文にも意見できる中国共産党首脳部のキーパーソンである。
しかしながら齢64、日本国外務省の課長級ポストを複数務めた後、世界各国の公使を経験した老練の神威が心乱されることはない。彼は表情筋を動かさないまま、一言「始めましょうか」と答えた。
(これは交渉ではない。恫喝ではないか)
事前に本国筋から聞かされていたとおり、馬樹南外交部部長が切り出してきた休戦・講和の前提条件は、日本側からすれば横暴極まるものであった。
第一に尖閣諸島が中華人民共和国領であると認めること。第二に南西諸島の治安維持と、東シナ海・南シナ海の平和回復が達成のため、与那国島から宮古島に至る島嶼を中華人民共和国の管理下とすることを認めること。
「もしも我々の正当なる要求が容れられぬ、というのであれば、残念ながら中国人民解放軍が九州島・本州島に対するミサイル攻撃・航空攻撃、日本列島周辺海域における無制限潜水艦作戦といった形態の武力行使を選択する可能性を否定できません。あらゆる軍事的なオプションを、われわれ中国共産党は認めることになるでしょう」
流暢な日本語を操る馬樹南外交部部長の話を、神威は挙手をして遮った。
「あらゆる軍事的オプションとは、大量破壊兵器――核兵器の使用も入りますか」
「ええ。真に残念なことですが、我々は必要とあれば千代田区を核で焼く。まあ交渉相手が消えては話がまとまりませんから、市ヶ谷(※防衛省)にでもしておきましょうか」
“残念”という言葉とは裏腹に、馬樹南外交部部長の声色には愉悦が混じっている。彼は決して残忍なのではない。前述の通り、馬樹南外交部部長は00年代には駐日中国大使を務めている経験もあり、日本に対して親しみさえ覚えている。
で、あるが故にわかっていた。
「神威さん」
勝者であることを確信している馬樹南外交部部長は、神威へ親しげに語りかけた。
「どうぞ本国にお伝えください。馬は戦争のエスカレーションと、核攻撃の可能性を否定しなかったと。もしかすると我々がプレスを発する方が先かもしれませんがね」
「勘違いしてもらっては困ります、馬閣下」
神威は馬樹南外交部部長の爆弾発言にも動じることはなかった。日本本土へのミサイル攻撃・航空攻撃はともかく、核攻撃は悪手ではないか。本気ではなく日本政府の動揺を誘おうというのであろう。
「最前線の海戦・空戦は、我々が勝利し続けている。数時間前には航空自衛隊の戦闘機が、石垣島・宮古島に上陸した中国人民解放軍を空爆しました。要求するのはこちらの方だ。中国人民解放軍全部隊を10月10日正午以前の配置に戻していただきたい。即時に、遅滞なく、です」
「つまり、あくまで戦い続けると」
「ええ。暴力による現状の変更を認めることはありません。中華人民共和国に任せていたら、与那国島から宮古島に至る島嶼に居住している日本国民の安全も定かではないのでね」
神威は感情の機微を見せないまま、淡々と言った。
対照的に馬樹南外交部部長は笑った。嘲笑に近い。
「継戦ですか。神威さん、そして日本政府が覚悟を固めていたとしても、日本国民にそのつもりがあると思いますか。私が思うに、日本国民は南西諸島を棄てると思いますよ。連れ去られたままの“12名”と同様にね」
「その件に関して、我々は解決に向けて最大限の努力をしてきました」
「今回も日本政府は“最大限の努力”をするでしょう。だが日本国民はどうか。1週間もすれば結果が出ると思いますよ。賢しらに自称専門家やコメンテーターらは早期講和の必要を説き、日本国民は仕方ないと南西諸島を切り棄てる。国家の主権だとか、現地に住んでいる人々の生活など、日常とは関係のない別世界の話ですからね。日本国民に激昂する気概など、ない」
得意げに語る馬樹南外交部部長であるが、一方の神威は真に受けず聞き流していた。
(これは連中もかなり焦っているぞ……)
核攻撃という過激なカードをちらつかせたのは、日本政府を早々に屈服させるためだ。それは翻って言えば、彼ら自身が通常戦力による勝利に疑義を感じ始めているからにほかならない。やはり自衛隊機による空爆成功をはじめとした自衛隊の反撃が、中国共産党首脳部にまで効いているのであろう。
神威は軍事のことはわからない。が、防衛省関係者の言を信じるのであれば、陸海空自衛隊の作戦によって中国人民解放軍の輸送・占領計画に狂いが生じ始めているという。楽観は許されないが、勝ち目はあるというわけだ。
ただ戦争は長期化する可能性が高い、と神威はみていた。中国人民共和国は極めて面子を重視する、というのが外交官らの一般的な認識である。彼らが容易に中国人民解放軍の消耗を認めて南西諸島を諦めるということはないだろう。
故にいま日本国外務省は四方八方、手を尽くしていた。
中国人民解放軍の九州島・本州島に対する全面攻撃に備えた“聖域”の拡大と、利害関係が一致する国々と連携する中国包囲網の形成のためである。




