■3.極東軍事バランス崩壊。
従来、中国人民解放軍は所謂『接近阻止・領域拒否』なる軍事戦略を重視してきた。
これは西部太平洋における海上優勢を確実なものとし、近海における中華人民共和国の権益を守るための戦略である。
では、その中国の権益を脅かす存在とはいったい何か?
それは例えばシーレーンを脅かす海賊船であったり、あるいはまた中国との間で領土問題を抱える周辺諸国が挙げられよう。
そして彼らにとっての最大の仮想敵は、名実ともに世界最強のアメリカ海軍であった。
誤解を恐れずに言えば、90年代の中国人民解放軍がアメリカ海軍に対して勝利を収められる可能性は、万に一つもなかっただろう。なにせ相手は10隻を越える原子力空母、50隻以上の原子力潜水艦を抱え、世界第2位の航空戦力を有しているのだから(世界第1位はアメリカ空軍というオチがつく)。
それでも彼らはこの強大な怪物に対する『接近阻止・領域拒否』を実現するため、00年代・10年代に相当なリソースを割いてきた。
90年代から10年代にかけて、まず目覚ましい進歩を遂げたのは沿岸防衛である。
中国人民解放軍は以前から射程約40㎞ほどのHY-1やその射程延長型のHY-2、HY-4といった地対艦誘導弾を配備していたが、00年代半ばに、排水量7000トンの水上艦艇を一撃で撃沈可能とする射程約400㎞のYJ-62Aといったより高性能な地対艦誘導弾を配備。
加えて艦対艦誘導弾を備えた近海作戦用の水上艦艇を多数就役させた。
以下は新型インフルエンザの蔓延に伴う混乱が生じる前(2019年)に明らかになっていた、中国海軍の艦対艦誘導弾を備えるフリゲート、コルベット、ミサイル艇の一覧である。
■ミサイルフリゲート053型H1・H2×12隻
(70年代から90年代に就役した旧型で、20隻が退役済。海上自衛隊やアメリカ海軍に抗するのは難しいと考えられているのか、ほとんどが南海艦隊に配備のため、本章ではあまり登場しない)。
■ミサイルフリゲート053H3型『江衛2』×10隻
(99年から05年に就役、約半数が東海艦隊配備)。
■ミサイルフリゲート054型・054A型『江凱』×32隻
(05年から19年に就役、10隻以上が東海艦隊へ配備された)。
■ミサイルコルベット056型『江島』×42隻
(13年から現在まで就役が続いている)。
■ミサイル艇037-2型『紅箭』×6隻
(90年代に就役、すべて南海艦隊に配備された)。
■ミサイル艇022型『紅稗』×60隻
(04年から就役、配備数は諸説ある。東海艦隊には24隻が配備された)。
実際のところ水上艦艇は航空機に比較すると鈍足であるし、搭載する艦対艦誘導弾4発から8発を発射したらまた補給を受けなければならないから、水上打撃戦は少々効率が悪い。
とはいえ沿岸海域で地の利を活かして待ち伏せれば、接近してきた敵艦隊を苦しめることが可能だろうと考えられた。
上記のような水上艦艇よりも迅速に、かつ高い攻撃力を発揮できるのはやはり航空機である。
中国人民解放軍空軍・海軍の航空戦力の拡充もまた、凄まじい勢いで進められてきた。
20年前、30年前の感覚でいると、中国人民解放軍空軍の主力戦闘機は、殲撃6型(MiG-19)やMiG-21をモデルにした中国製戦闘機・殲撃7型、そこにロシア製輸出戦闘機Su-27SK/UBKが少数混じる程度で、中国の航空戦力はさしたることはないというイメージがつきまとう。
では実情はどうか。
『接近阻止・領域拒否』の軍事戦略を達成するための攻撃機として挙げられるのは、滑空誘導弾や空対艦誘導弾を装備できる殲撃8型Bが300機。
加えて対レーダーミサイルを発射可能な殲轟7型シリーズが約200機。
さらにSu-30MKK2(海軍所属)が24機、これを模範とした殲撃16型の生産が続けられている(推定生産数は約150機程度)。
この攻撃機を援護するのが、殲撃10型や殲撃11型といった制空戦闘機である。
殲撃10型は初期型(無印)と量産型(A)が約300機、改良型(B)が約50機、最新型(C)が100機以上生産されたと考えられているが、中でも注目すべきは能力が向上したB・C型だ。
このシリーズはA型から精密爆撃能力を有し、B型から対レーダーミサイルや空対艦誘導弾を装備出来るようになっているため、B型以降は空対空ミッションだけではなく、必要に応じて対艦攻撃任務にも割り当てることが出来る。
そしてロシア製Su-27を国内生産した大型制空戦闘機の殲撃11型であるが、対戦闘機戦をもっぱらとする無印と改良型(A)が96機。
続けて対艦・対地攻撃能力を擁する最新鋭のB型が200機以上生産されている。
上記の機数を整理すると、攻撃機を約500機、それを援護する制空戦闘機を約400機、対艦攻撃も可能なマルチロールファイターを500機以上有していることになろうか。
これに戦力化時期・配備数・能力ともに未知数の殲撃20型(一説には2019年時点で30機以上が製造されたらしい)や、人民解放軍海軍の艦上機・殲撃15型が加わるので、個々の機体スペックと規模だけをみれば間違いなく東アジア最強の航空戦力を擁していると言えよう。
さらに中国人民解放軍海軍はより遠方(所謂、第二列島線)での軍事行動を可能にするため、航空母艦・巡洋艦・駆逐艦の建艦に注力していることは周知の事実だ。
ところが、こうした中華人民共和国の努力を以てしても、2019年末まで東アジアのパワーバランスが崩れることはなかった。
それは第7艦隊をはじめとする太平洋のアメリカ軍の軍事力があまりにも強大だったからである。
また尖閣諸島は日米安全保障条約の適用対象である、とアメリカ側が公言している以上、好き勝手にやれば手痛い報復を受けることになりかねない。
仮に2019年時点で人民解放軍空海軍と陸海空自衛隊・在日米軍の間で軍事衝突が起き、大量破壊兵器や弾道弾を使用しない対称戦を戦うことになれば、前者は大敗を喫したであろう。
しかしながら、この2020年初頭から年末にかけてこの均衡が崩れた。
2020年初頭、猛威を振るう新型インフルエンザH5pdm19により、人類社会のあらゆる組織が打撃を被ったが、それは軍事組織も例外ではなかった。
例えば日本国内では2020年初夏、増加する重症者により、医療機関の病床が不足したため、H5pdm19に感染していない入院患者を自衛隊病院へ転院させ、海上自衛隊の護衛艦『ひゅうが』・『いせ』を病院船として急遽運用することで、医療協力を行った。
陸上自衛隊も2020年4月には災害派遣の形で、軽症患者の収容施設設営や輸送に協力したが、日常の営内集団生活のために駐屯地内で集団感染が次々と発生。
この災害派遣と自衛隊内で発生した集団感染への対応のために、予定されていた訓練がほとんど実施出来ない部隊が現れてしまった。
自己完結能力が高い上、対NBC戦に備えている組織がこの“防疫戦争”に駆り出されるのは当然と言えば当然だが、その間軍事組織のリソースは防疫に割かれることになり、肝心の戦闘力が下降の一途を辿ることになるのも当たり前であった。
対応に苦慮したのは、在日米軍も同様であった。
日本国内で感染者が確認されたのは2020年1月のことであったが、沖縄県うるま市に司令部を置く第3海兵遠征軍の将兵にも感染が広まり、2020年1月末には米海軍第7艦隊『ロナルド・レーガン』艦内からも感染者が出た。
「東アジア“は”危険だ」
このニュースに触れたアメリカ本国の人間の多くは、そう感じたらしい。
実際にはすでにこの時点でアメリカ国内にH5pdm19は侵入していたが、そんなことは露ほども思わなかった。H5pdm19蔓延の直前に、季節性インフルエンザが猛威を振るっていたことは前述の通りである。また医療機関にかかって高額な医療費を請求されるのでは、と恐れる人々が多かったため、診断を受けないままH5pdm19に感染したことに気づかない者も多かった。
とにかく彼らは何やら中国や日本で得体の知れない病気が流行っているという認識を抱き、在日米軍将兵の家族の多くが米国本土へ帰還(避難)し始め、士気に大きな影響を及ぼした。
中でも日本国防衛省関係者に最大の衝撃を与えたのは、『ロナルド・レーガン』をはじめとする多くの米海軍第7艦隊水上艦艇が、グアム海軍基地へ去ったことであった。
彼らが極東を後にした理由はハワイ州に日本人・中国人観光客が持ち込んだH5pdm19が蔓延し、医療崩壊の危機を迎えようとしていたためだ。
また夏以降にH5pdm19の脅威に晒されることになった中部太平洋の島国の救援要請にアメリカ政府は応じ、第3海兵遠征軍の一部をこれに充てた。
こうした活動は中国政府が920型病院船『和平方舟』を派遣し、太平洋地域における存在感を示そうとしているという情報を得たための対抗措置であった。
ところが不可解なことにハワイ州や医療設備が整っていない国々に派遣された海軍・海兵隊部隊は、2021年になっても日本列島に戻ってこなかった。