■25.琉球弧地上戦、勃発。(前)
10月11日、黎明。
未だ夜闇わだかまる与那国島では、自衛隊員と人民解放軍兵士による地上戦が続いていた。与那国沿岸監視隊をはじめとする駐屯部隊が与那国駐屯地を放棄し、島中央部の森林地帯に移って徹底抗戦の構えをとったのは、前述の通りである。
寡兵の上に移動手段と言えば二本の足、火力も貧弱で航空支援もない自衛隊側は、優勢なる敵火力と機械化部隊を前に、瞬く間に消耗していった。
ところが一方の中国人民解放軍側も、苦しいことには変わりなかった。
第一陣が強襲上陸に成功した後、予定されていた増援や物資を搭載した揚陸艦は、一向に姿を見せなかった。空降兵も両棲兵らも武器弾薬の携行や輸送を優先していたため、食料や水は数日ともたない。両棲部隊の指揮官は平然な顔をして、周囲に「敵兵が根を上げるのが先だろうよ」と言いふらしていたが、心中は穏やかではなかった。
(海上輸送が断たれた)
下士官・兵の士気に影響するために彼は口外しなかったが、海上自衛隊の潜水艦が周辺海域に潜んでいるそうで、そのために中国人民解放軍海軍は増援と補給物資を搭載した揚陸艦を寄こすのを躊躇っているらしかった。100mm砲による艦砲射撃も途絶えており、おそらくフリゲート2隻も撃沈されたのであろう。
自衛隊員は地対空誘導弾も装備しているから、空輸も慎重にならざるをえない。
司令部は潜水艦から軍民の識別が困難、かつ襲撃のコストに見合わない漁船で取り急ぎ水と食料を輸送するつもりらしいが、それでは完全武装の増援は期待できなかった。加えて問題になるのは、島の北東部に避難した島民約1500名の生活物資をどうするか、ということだ。占領地の住民の面倒は当然ながら中国人民解放軍が看なければならないが、漁船による細々とした輸送で、軍民併せて約3000名の生命を維持できるのだろうか?
(最悪の場合、見殺しにするほかない)
指揮官の上校(大佐)とて人の子であり、本土へ帰れば一児の父だ。与那国島の島民に対しても個人的な恨みはなく、最低限の寝食は提供してやりたい気持ちがあった。だがしかし、そうした人情を超越したところにあるのが軍務である。必要ならば島民が栄養失調で斃れても無視できるし、島民が暴動を起こせばこれを躊躇なく鏖殺するであろう。
上校の頭を悩ませているのは、輸送計画に狂いが生じていることだけではない。
戦闘自体も苦戦が続いており、死傷者も予想以上に出ていた。地理に明るいのは自衛隊側であり、両棲部隊の最先鋒は常に遠距離からの狙撃に晒されることになった。このとき自衛隊員の一部は狙撃班を組織しており、対人狙撃銃は勿論、12,7mm重機関銃まで持ち出して足止めに努めていたのである。また無反動砲や迫撃砲といった簡便な火器による攻撃も、装甲の薄い水陸両用車輛にとっては十分な脅威だった。
上級司令部では自衛隊員が潜む森林地帯を燃料気化爆弾や焼夷弾で攻撃することを検討したらしかったが、それは上校の方からやんわりと断りを入れている。万が一延焼した場合、島の防火設備や両棲部隊の消火能力では手に負えない。狭い島内を逃げ惑うのはごめんであった。
それとは対照的に、中国人民解放軍の石垣島攻略部隊と陸上自衛隊石垣警備隊の間で勃発した地上戦は、前者が圧倒的優位に立った。
無防備であった西表島を人民解放軍・武警が占領し、石垣島に特殊作戦旅団の偵察部隊が隠密上陸したことは先に記した通りである。さらに中国人民解放軍海軍の戦車揚陸艦は、石垣島ではなくその西方に隣接する西表島に夜通し重装備を揚陸した。
そして、黎明。東の空が白み始めると同時に、西の空が火焔で埋め尽くされた。
西表島東部に展開した陸軍の05式155mm自走榴弾砲や122mm自走ロケット砲による石垣島への砲撃である。約75年前の沖縄戦で、アメリカ軍が沖縄本島上陸直前に155mmカノン砲を神山島へ進出させ、そこから沖縄本島の日本軍陣地を砲撃した戦術、その再現だ。
対する石垣警備隊側は、抗する術をもたなかった。
120mm迫撃砲RTでは敵火砲に対して射程で劣るため、対砲兵射撃は不可能だ。観測役を務める特殊作戦旅団の偵察部隊を島内で追いかけ回すことくらいしかできない。が、もともと1個普通科中隊が主力であり、加えて緒戦の弾道ミサイル攻撃で死傷者が出ていたため、敵偵察員を追跡し、撃退するには人手が足りなかった。
中国人民解放軍第81統合任務戦線司令部が最も注力したのは、下地島・伊良部島とこの二島と伊良部大橋で繋がる宮古島の攻略であった。
先に隠密上陸した特殊作戦旅団の支援を受けつつ、運輸20型輸送機による空挺攻撃が実施され、1個連隊に近い戦力が下地島・宮古島に降下した。加えて宮古島の北部・西部の砂浜に水陸両用車輛と戦車揚陸艦、揚陸艇がビーチングし、内陸への侵攻を開始する。
重装備を失い、火力の上でも数の上でも劣る宮古警備隊にとって、宮古島はあまりにも広すぎた。与那国島は地積が狭いために敵がどこに上がって来ようが対応しやすく、守備側が身を隠す森林地帯・山岳地帯もある。宮古警備隊のモデルとなったのは対馬警備隊だが、対馬島は森林と山地の連続であり、敵の侵攻路は限定される。こうした他の島嶼に比較すると、宮古島はあまりにも守り難い地形をしていた。強襲上陸に利用出来そうな砂浜海岸は多いし、島の大部分は平野(畑地)だ。広大な平野の中に、市街地や森林が点在しているような格好である。
それでも宮古警備隊は01式軽対戦車誘導弾をはじめとした対戦車火器で、敵水陸両用戦車数隻を葬ったのを皮切りに、朝日の下に79式対舟艇対戦車誘導弾の攻撃で中型揚陸艦2隻を中破炎上させるなど、中国人民解放軍に対して多大な出血を強いた。また敵空降兵らに対しても、軽装甲機動車等から成る自動車化部隊を組織し、積極的な反撃に打って出た。




