■11.自縄自縛。(前)
金洪文国家主席をはじめとした中国共産党首脳陣が日中開戦を決意している以上、中国人民解放軍と日本国自衛隊の激突は不可避の未来であったが、2021年5月から8月にかけて、それを予測出来ている日本国民はあまりにも少なかった。
これは中国共産党側が台湾海峡危機を演出しているせいもあったが、日本国民の側が無意識の内に戦争という事象、その存在を忘却していたこともある。
先に触れたとおり、日本政府は石垣島駐屯地への部隊配置と装備品の輸送といった南西諸島方面の防衛力強化を急いだが、野党や左派団体はこれを「いたずらに中国との緊張状態を生み出し、H5pdm19が生み出した国内の苦境から、国民の目を逸らさせるための汚い手口」と批判した。
メディア媒体は嬉々としてF-35A戦闘機の購入や3900トン型護衛艦の建造(1番艦・2番艦は2022年竣工予定)を取り上げ、これに使う防衛費があれば、H5pdm19ワクチンが〇〇本買えるという主張を繰り返した(実際には生産ラインが追いついていないため現状では金を出してもH5pdm19の予防ワクチンは手に入らないのが悲しいオチである)。
結局のところ、彼らは日本政府が軍拡に奔って他国に戦争を仕掛けるかもしれないと声高に叫ぶことがあっても、他国から戦争を仕掛けられる可能性に関してはみじんも考えておらず、全面戦争に至った時に矢面に立つ自衛官や、相手国の攻撃に巻き込まれるかもしれない市民のことなど碌に考えていないのが彼らの実情であった。
票田確保・政権奪取のためのアピールと、結論ありきの報道を繰り返すしか能がない。
であるから「家計が苦しいから火災保険を解約しよう、火災はいままで起きたことがないから大丈夫」といったことが平気な口で言えるのだった。
さて、石垣島駐屯地の開庁と部隊配置は万難を排し、異例の急ピッチで進められた。
石垣島駐屯地自体は、前述の通り2019年から工事が進められていたため、一部を除いて完成の見通しが立っていた。
あとは実戦部隊の編成完結である。
まず宮古警備隊と同様に西部方面隊第15旅団隷下部隊として、1個普通科中隊を主力とし、対戦車小隊や後方支援隊を備えた石垣警備隊を新設。
加えて西部方面特科隊第5地対艦ミサイル連隊・第303地対艦ミサイル中隊を配置した。
この第303地対艦ミサイル中隊は、他方面隊の地対艦ミサイル部隊を廃止して新編したものである(こうした戦力の転換は特別ではない。例えば2020年に新編された宮古島駐屯地の第302地対艦ミサイル中隊も、東北方面特科隊から改組されたものである)。
H5pdm19の再流入と、事故の発生を恐れる地元住民からは不安の声が上がったが、沖縄防衛局をはじめとした防衛省関係各所・関係者は、突貫工事を推し進め、なんとか弾薬庫の完成と12式地対艦誘導弾の配備まで漕ぎつけてしまった。
一方の中国人民解放軍側も、侵攻の準備を着々と進めていた。
尖閣諸島に最も近い福建省・浙江省の沿岸地域に、膨大な軍需物資を集積するための補給基地が設置され、それと同時に複数の航空基地が開設された。
表向きは“第81統合任務戦線”が10月に実施する大規模演習の準備、ということになっていたが、台湾や日本政府の関係者はそれを信じるほどお人よしではない。
米国も軍事衛星や電波情報から、新たな航空基地の工事が進んでいることを察知していたが、特に口出しはしなかった。台湾政府からの情報提供を受けたはずの東南アジア諸国も同様で、国際社会は軍拡と大規模演習を繰り返す中国人民解放軍の動向に無関心であった。
理由はある。
現在、東南アジアや南アジアの国々は、中華人民共和国から中国製H5pdm19予防ワクチンの供給を受けているためだった。
H5pdm19の予防ワクチンは世界全体で見ると、欧米諸国の製薬会社のシェアが高いが、東アジアにおいては中華人民共和国の製薬会社が国内需要を満たしてなお有り余る量のワクチンを製造し、東南アジアや南アジアの国々に安価で売り捌いていた。
もともと中華人民共和国はH5pdm19の予防ワクチン、その開発競争において有利な立場にいた。
H5pdm19が鳥由来であることは先に述べた通りである。
故に鳥インフルエンザの鳥類間の流行例すらない欧米と、複数回に亘る鳥類間の流行・鳥類からヒトへの感染・史上初とみられる2007年のヒト・ヒト間感染、これらの出来事を経験してきた中華人民共和国とでは、後者の鳥インフルエンザに対する理解の方が深いのは当然だと言えた。
さらに中華人民共和国はH5pdm19のサンプルを最初期から獲得出来たため、他国に先行してワクチンの研究と製造を始めることが可能だった。
大量製造された中国製予防ワクチンは、他国と同様に政府高官、医療従事者、治安維持関係者、軍関係者へ優先的に配給されたが、それと同時に中国共産党政府は東南アジアや南アジア、アフリカ諸国に予防ワクチン、また有効と考えられている治療薬の輸出を始めた。
これは人道支援によって国際社会における発言力を確保する、そのための戦略的な政策であった。
中国共産党政府はH5pdm19予防ワクチンと治療薬を国内の製薬会社を通して格安で中小国に供給を始め、これによって危機に瀕していた医療機関が息を吹き返し、H5pdm19に怯え、苦しむ人々を助けることが出来たのは事実である。
だが一方で、予防ワクチンや治療薬の供給を受けている国々が、中国共産党が打ち出す外交政策に異議を唱えることが出来なくなったのもまた事実であった。
中華人民共和国においては中国共産党の握る権力が極めて強大で、製薬会社もまた彼らの息がかかっていることは言うまでもなく分かっていること――つまり中国共産党政府の機嫌を損なうことは、製薬会社からの予防ワクチン供給を危うくすることと同義であった。
では、欧米諸国の政府と製薬会社が頼みになるかと言えばそうでもなく、欧米各国はむしろ政府が主導になってH5pdm19予防ワクチンと治療薬を買い漁り、再度の流行に備えて備蓄まで始めている始末で、東南アジア・南アジア・アフリカの中小国が輸入出来る量は僅少、そして単価も高額に過ぎた。
一方で中華人民共和国は多額の予算を製薬会社に投じ、その上中国人民解放軍を動員してまで医薬品を生産し、周辺国へ大量輸出している。
衣食足りて礼節を知るという言葉もあるが、中華人民共和国の周辺国が中国製医薬品に飛びつくのは当然と言えたし、それを責めることも誰にも出来ない。
この中国共産党政府の外交戦略は、周辺国の市民からある種の反感を買いつつも、成功を収めていた。
中国共産党政府・台湾政府・東南アジア諸国がしのぎを削る南沙諸島では、東南アジア諸国が中国共産党政府に遠慮して譲歩するようになり、中国共産党は実効支配の範囲を大きく広げたし、前述のとおり南シナ海・東シナ海で人民解放軍が軍事演習を行おうと、彼らが懸念を表明することもなくなった。
この状況を台湾政府と日本政府がひっくり返すのは難しい。
日中開戦となれば、周辺国の援助は得られないものと考えた方がよかった。




