■1.新型ウイルスH5pdm19の脅威。
全世界推定死者数、約780万――中華人民共和国湖南省長沙市の感染爆発に端を発した新型インフルエンザの流行は、瞬く間に世界中を駆け巡り、人々の日常生活を蹂躙した。
2019年以前、新型インフルエンザと言えば2009年にパンデミックを引き起こし、2010年夏までに約1万8000名を殺害した豚由来のH1N1pdm09を指すことが一般的であったが、この2019年に姿を現した新型インフルエンザは、H1N1pdm09とは全く別種のものだった。
その名は、新型インフルエンザH5pdm19。
2009年に流行したH1N1pdm09が豚由来であったことは前述のとおりであるが、この新型インフルエンザH5pdm19は、所謂“鳥インフルエンザ”の突然変異型であり、鳥類から人類への感染のみならず、人類間の伝染もする――そして人類のほとんどが免疫を持っていない脅威であった。
感染したヒトの致死率は国・地域・流行の時期にもよるが、1%から5%程度。
鳥類から人類へ直接感染する従来の鳥インフルエンザの致死率は30%から70%にも上るため、それに比べればこのH5pdm19の致死率は控え目と言えよう。
しかしながら毎年流行する季節性インフルエンザよりも強毒であることには変わりなく、しかも人類の多くが免疫を有していない上に、有効な予防ワクチンがない(2020年当時は鳥用のワクチンしかなかった)ため、猛威を振るうこととなった。
このH5pdm19の来歴を振り返る。中華人民共和国湖南省長沙市の保健担当者からの報告を受け、強毒性の感染症が拡大しつつあることを中華人民共和国国家衛生健康委員会、中国疾病予防管理センター(中国疾病預防控制中心)が把握したのは2019年12月1日のことであった。
その後の彼らの対応は、後手に回った。
初動にあたった担当者らはすぐに件の感染症が、インフルエンザ――鳥由来の新型インフルエンザであることを突き止めた。
通常、鳥インフルエンザはヒトからヒトへ伝染しない。トリからヒトへ感染する。そのため地元当局はまず市中の野禽・家禽の大規模駆除、養鶏場の閉鎖、感染者の追跡調査をもとにした感染源の特定を早急に実施した。とにかく鳥インフルエンザに感染した鳥類を殺し尽くせば、それで人類への感染拡大は防げるのである。
だが同時に保健担当者らは最悪の可能性を考えた。
「食肉、食用卵を介した感染の疑いがある」
「そうでもなければ、郊外の農村部はともかく、鳥類と接触することが比較的少ない都市部の市民の間で、ここまで感染が広まることはないだろう」
鳥インフルエンザは前述の通り、鳥類と濃厚な接触をした人間が感染する恐れがあるのだが、その一方で適切な加工された鶏肉や食用卵を摂食しても感染する可能性はほぼない。しかし鳥類を駆除しても感染者が増大している。故に調査にあたった専門家が、
(これは市場に汚染された食材が都市部や周辺地域にまで出荷されたため、感染が拡大しているのではないか……)
と考えたのも無理はなかった。
……つまり保健担当者らは感染者の隔離、鳥類の駆除、そして食肉類の検査に忙殺され、ヒトからヒトへ伝染している可能性を考えなかったのである。
否、ヒトからヒトへの伝染に思い当たっていた者はいたのかもしれないが、“鳥インフルエンザはトリからヒトへ感染する。ヒトからヒトへの感染例は2007年の1例のみ”という常識、それに基づいた同調圧力、山積する業務、現実逃避、そして地方当局の監視が、ヒト・ヒト間感染の可能性を口外させなかった。
「鳥インフルエンザのヒトへの感染が中華人民共和国湖南省長沙市で確認されました。当局の発表によると、感染者は108名、死亡者は5名。WHOは……」
海外の報道も同様であった。
感染者が同時期に100名以上現れるのは明らかに異常であったが、世界保健機関は「中国政府の保健担当者は適切な対応を採っている」と発表。
世界各国首脳部も特に気に留めることもなく、日本国内でもまた鳥インフルエンザ感染確認の報道は特に注目されず、12月第1週の話題と言えば2020年東京オリンピック関連のことだとか、あるいは朱得華・国家主席が訪日する、しない、といった事柄ばかりであった。
ところが国際社会が安穏としている中、中国国内において地方当局は勿論のこと、中華人民共和国国家衛生健康委員会をはじめとする中央の国家機関が不都合な真実に気づき始めていた。
「今回の鳥インフルエンザは、ヒト・ヒト感染するぞ……!」
市内の鳥類ことごとく、またブタといった他の宿主となりそうな動物を駆除しても感染者数は増大の一途を辿ったことから、12月第1週の終わりに中国疾病預防控制中心の担当者らはそう結論を出した。
「まずいまずいまずいまずい」
「これは中国だけの問題ではない、この鳥インフルエンザの致死率が従来と同じく30%以上の強毒タイプであれば、文明社会が崩壊してもおかしくないぞ!」
中国疾病預防控制中心の担当者らが狂乱する中、中国共産党政府は政治的な思案に暮れ、12月第1週から第2週にかけては大々的な対策を採ることはなかった。
その一方、保健担当者らの予測は正しく、12月第1週から第2週の時点で新型インフルエンザH5pdm19は、中国国内だけの問題ではなくなりつつあった。
長沙市は湖南省の省都であり、中国各地は勿論のこと、日本国、大韓民国、アメリカを初めとした世界各国との間を結ぶ長沙黄花国際空港を有しているが、この国際空港から出国した人々の中に、新型インフルエンザH5pdm19の感染者が複数いたのである。
中国共産党政府が湖南省長沙市の封鎖を指示したのは、12月第3週のことで、その頃には長沙市だけでも1000名近い感染者が現れており、また他の省にも感染は広がっていた(地方の人民政府はこの事実を隠蔽し、中央への報告を怠って感染者の存在を公表することを遅らせたため、対処が遅れてしまったのである)。
ヒト・ヒト感染の疑いを国際社会に報告したのもほぼ同時期のことで、世界保健機関が「従来の鳥インフルエンザがヒト・ヒト感染したケースはほぼなく、今回もヒト・ヒト感染は確認されていない」と発表した矢先の出来事であった。
こうして人類社会全体の初動もまた、遅れていった。
米国では別の季節性インフルエンザが猛威を振るっていたために、この新型インフルエンザH5pdm19の拡大を察知するのが遅れた。
まったく想定外の出来事であるが、驚くべきことにヒトから北米の鳥類へ逆感染が起こり、養鶏場の鶏や公園の野鳥が大量死したことで、ようやく新型インフルエンザH5pdm19が侵入してきたことに気づいた有様であった(もともと鳥インフルエンザはアジアを中心とした鳥類の病疫であり、北米大陸ではほとんどみられない)。
日本国はと言えば、以前より鳥インフルエンザに対する警戒が高められており、危険度の高い二類感染症としてH5型が指定されていたため、入国拒否や強制隔離といった対策を12月中から採ることが可能であった。
ところが、H5pdm19は潜伏期間が7日以上と季節性インフルエンザと比較して長い上に、12月末には中国のみならず世界各国に拡大していたため、水際阻止には限界があり、1月に日本国内で最初の感染者が確認されて以降、感染拡大には歯止めがかからなかった。
2020年12月までの日本国内の累計患者数は、2009年パンデミックの約3倍――約2700万とされ、死者は約30万に至り、2021年初頭に一応の収束をみた。とはいえ、H5pdm19予防ワクチンの製造数は未だ少数であり、日本国をはじめとする先進国でさえ再流行に怯えざるをえないのが現実であった。2021年に延期となった東京オリンピックはまたもや開催延期となり、H5pdm19との戦争は未だ続いていることを人々に知らしめた。
目に見えない凶悪な敵と、彼らによってもたらされた経済危機に悪戦苦闘を続ける中、日本政府はまた新たな危機を迎えようとしていた。
……安全保障上の、危機である。