聖夜に奇跡はおこらない
聖夜の奇跡なんてあるはずがない。
今の私は心の底からそう思っている。何があったのかというと、話はクリスマスイヴの一週間前、
「…別れよう。俺、好きな子ができたから」
初めてできた彼氏に近くの公園まで呼び出されて言われた第一声。彼は何事もないような顔で言った。一方私はさぞかしポカンとした表情になっていることだろう。
「じゃ」
彼はそれだけ言うと私に背を向けて去っていく。
「え? ちょ、ちょっと待って…。え? 何? え?」
彼は私の呼びかけに反応せずそのまま雑踏の中に消えてしまった。
「嘘…」
呆然としたまま私は呟き、その場にしばらく座り込んでしまう。
そして、そんなことがあってから私はほぼ惰性で一週間を過ごし、親友に誘われるがまま聖夜のバーで女子会のようなことをしている。
◇ ◇ ◇
美紗が失恋したことを知ったのは彼女がSNSで叫んでいたのを見たときだった。その書き込みも数時間後には削除されていたから、かなりのショックから勢いで書いたものだったのだが、恥ずかしくなって消したのだろう。私はすぐにでも美紗のそばに行って慰めてあげたい気持ちをグッとこらえ、一週間労働し、クリスマスイヴのこの日、美紗を飲みに誘った。
最初はただの女子会のつもりだったのだけれど…。
「何が、好きな子ができたよ。ふざけんなってのよ」
飲み始めてから小一時間、かなりピッチの早かった美紗はすでに泥酔状態だ。一方私はノンアルコールのみだ。ここまでになるとは予想していなかったけれど彼女を家まで送らないといけないので。
「だいたい、何が恋人たちの夜よ」
「美紗、飲みすぎ」
「いいのよ。こんなの飲まなきゃやってらんないわよ」
「まぁ美紗の初恋だったしね」
私と美紗は保育園の頃に知り合った。だけど、いわゆる幼馴染というのとは少し違う気がする。なぜなら、小学校低学年の時に別れ、高校入学とともに再会したためだ。でも、高校で再会してすぐ、私たちは会えなかった時のことを互いに話し、会えなかった期間を一気に埋め親友と呼び合える仲になった。
そして、美紗は私と別の時間を過ごしていた時も再会してからの時間も、恋人というものはできなかった。ちなみに私は美紗に好きな人ができたならば、そして、それで彼女が幸せになるというのであれば、見守ろうと決意していた。幼少期から抱いたこの想いは異常なことなのだと押しつぶして。
「本当だったら、今頃私もあそこのカップルみたいに聖夜を謳歌しているはずだったのに」
美紗はそう言うとテーブルに顔を突っ伏す。
そんな彼女を見ていたら、心の奥底に押しとどめ、奥深い場所に縛り付けていた想いがゆっくりと首を上げ、目を開けたような気がした。
「美紗ならきっといい人を見つけられるよ」
私は美紗の頭を優しく撫でながら言う。それこそ、昔泣き虫だった美紗を慰めていたときのように。
「…撫でるだけじゃなくて、昔みたいにしてよ」
美紗は顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを見ながら言う。たぶんそれは、それこそ昔慰めているときに抱きしめていたことを言っているのだろう。いくらなんでも酔い過ぎだ。
「ちょっと、美紗酔い過ぎだよ。いくらなんでもこんな公共の場でできるわけないでしょう」
「子供のときはしてくれたのに」
「いや、今ふたりとも大人だからね。社会人だから」
「梨絵ェー」
美紗は甘えるような声を出す。だけれど、さすがにこんなところでできるわけげない。
「甘えても駄目。とにかく、もう帰るよ」
「えぇー」
私は急いで会計を済ませ、少し強引に美紗を車に乗せ発進する。時間も遅いのとこの泥酔した美紗を放っておくことなんてできないので、私の家へと向かう。
家に着いた私はとにかく美紗をリビングの椅子に座らせ、水を入れたコップを手渡す。
「ありがと」
美紗はそう言ってそのコップを呷る。そして、その少し後、
「ごめん、吐きそう」
「え? あ、トイレこっちだから」
美紗が吐きそうになったので、急いでトイレへと連れて行く。ドアを閉めるとほぼすぐに、美紗が吐く音がドア越しに聞こえてくる。
◇ ◇ ◇
胃から喉にかけての範囲をヒリヒリするようなムカムカする感覚が襲っている。もうすでに、全てを便器に出し尽くしたのか、こみ上げてくる気持ち悪さは無い。だけれど、今度はそのムカムカで気怠さが体中に広がっていた。私はトイレの無機質な天井を眺め放心状態に近いものになっていた。
「美紗、大丈夫?」
ドア越しに心配そうな梨絵の声がする。それは物凄く心地よい音に聞こえた。
「…うん」
私は力なくそう答える。その声音と言葉をどう解釈したのか梨絵がドアを開ける。
「…」
梨絵は私の顔を見て、優しそうな笑顔を浮かべる。そうしてから、まず便座部分をトイレットペーパーで拭き、それを私が出した吐瀉物とともに流した。個室の中を水が流れる音だけが充満する。そして、それから梨絵は私の傍に腰を下ろし、ゆっくりと私を抱き寄せた。
「よく頑張ったね」
梨絵はそう言って私の頭を優しく撫でる。その声音は懐かしいほどに優しく、ぬくもりに満ちていた。そのせいか、私は子供だったころのことを思い出した。泣き虫で梨絵にいつも慰められていた時代を。そして、それと同時に幼少期に抱いた想いも蘇った。異常なことなのだと押さえつけて、見ないようにしていた想いを。
「そういえばね。私嬉しかったんだ。美紗が昔みたいに私を頼ってくれて、愚痴でもなんでも私に辛かったことを話してくれたのが」
梨絵は囁きよりも消え入りそうなほどの声で言う。でも、その言葉に私は微かに反論したくなった。だから、同じくらい小さな声で、
「なら、梨絵も全部話してよ。私には何も隠さなくていいんだよ」
と言った。なにかを隠している確証があるわけではないが、そう言いたくなった。
「…」
すると理沙は一拍ほど黙り込んでから、
「私、美紗のことが好き、大好き。恋人として、恋愛対象として美紗が好き」
「え?」
突然の告白だった。ただ、それは、
「たぶん、これは異常なことなんだって解っている。きっと私は特殊なんだって思う。だけどね、私は美紗を愛してるの。その想いだけはこの世界のどんな存在にすら負けるつもりはないの」
「…わ…、私も…梨絵が好き」
梨絵に導かれて言葉に出してしまう。もう後戻りはできない。もうすでに言霊となって外に出てしまったこの言葉を無かったことになんてできない。
「…ほん、と?」
梨絵は抱きしめていた私を離し、不安そうな瞳でこちらを向く。
「梨絵に嘘なんて言うわけないよ。それに、梨絵も私も特殊なんかじゃないよ。だって、人を好きになることに異常も正常も無いんだよ。たまたま、好きになったのがそういう人なだけ。理由も理屈も無いんだよ」
私は満面の笑みでそう言う。この想いが理解できずにしまいこんでしまった幼稚な私を諭すようなこの言葉を。
「美紗……、大好き」
梨絵はそう言って私の唇に自らのそれを重ねる。ほんの一瞬だけのキス。
「私も、梨絵が大好き」
そう言って、今度は私から唇を重ね、舌を梨絵の唇に当てる。梨絵は一瞬戸惑ったような表情をするもすぐに私の舌が唇を押しのけるのを許した。今度は舌と舌が絡み合う、大人なキス。
聖夜には奇跡は起きない。それは間違いだったのかもしれない。だって、これを奇跡という単語以外でどう表現すればいいのか私には解らないから。