35:エルフさんと歯磨き粉
パッと目が覚めて枕元に置いたスマホを手に取る。
まだ朝の五時、日はまだ昇っておらず暗い。
年寄りの癖なのか、一度目が覚めると二度根が出来ない。
横を見ると事故で向こうの世界の娘であるヘルッタが気持ち良さそうに寝ている。
慣れない家だと思うけど、しっかりと寝ているので少し安心した。
寂しがりやで意外と気が弱い所があるので心配だったのだ。
私はヘルッタを起こさない様に静かに布団を出る。
さっと顔を洗って朝食と孫達のお弁当作りを始める。
私は冷蔵庫の中を眺めながら朝食のメニューを考える。
しかし、これと言ってメニューが思い浮かばなかった。
これと言って何か食べたい物がある訳じゃ無いからそんな事もあるわよね。
ふとパンを置いてある籠を見ると刺さるように立っているフランスパンが目に入った。
それも四本。
私は買った覚えが無い。
そうすると都さんだろうか?
手に取って賞味期限を確認すると明日になっていた。
「全く……買ってくるならちゃんと使いなさいよ。朝ごはんはこれで何か作るしか無いわね」
賞味期限が切れるのは勿体無いので使ってしまおう。
フランスパンをそのまま焼いて出しても味気ないので一手間加えよう。
冷蔵庫から砂糖と牛乳を取り出す。
「食パンが定番だけどフランスパンでも充分、美味しいのよね」
卵と牛乳、砂糖を混ぜ、バニラエッセンスを少量垂らし、金属のパットに流し込む。
そこに厚めに切ったフランスパンをきゅっと摘まんでスポンジに水分を含ませる要領で卵液を染みこませる。
作り方で簡単に分かるだろう。
フランスパンでフレンチトーストを作っているのだ。
「これで後はフライパン焼くだけね」
これでフランスパン二本は終わり。
次に私はキャベツ、新玉葱、人参をみじん切りにしてツナと一緒にマヨネーズで和えて、軽く黒胡椒を振る。
それをスライスしたフランスパンに塗って、上からチーズ、パン粉、パセリの順で振り掛けていく。
これは少し焼けるまで時間が掛かるので鉄板に乗せてオーブンレンジへ投入。
これでフランスパン四本、無事に処理出来たわね。
「朝食がフランスパンにマーガリン塗るだけじゃ寂しいから手を加えたくなるのよね」
これだけだとバランスが悪いので冷蔵庫にある野菜でパッとサラダを作る。
彩りも良くなるしちょうど良いわ。
「後はお弁当の準備だけね」
合間に淹れたコーヒーを飲みながら孫達の弁当作りに取り掛かる。
行儀が悪いと言う無かれ。
朝のキッチンは戦場なのだ。
コーヒーぐらい飲んでいても問題は無いだろう。
私はさっと孫達の弁当を作ってしまう。
孫達のお弁当の準備が終わる頃、眠い目を擦りながらヘルッタが客室から出てきた。
「……母上、おはようございましゅ……」
まだ半分寝ぼけているのか少し舌足らずな口調の挨拶だった。
「おはよう、ヘルッタ。先に顔を洗う?」
「……」
ヘルッタは首を縦に振った。
まだ半分寝ぼけている感じだから顔を洗って目を覚まして貰った方が良さそうね。
「それじゃ、洗面所はこっちだから付いて来て」
ヘルッタは無言で私の後ろを付いて来る。
本当、この感じ昔みたいだわ。
「ここの蛇口をこっちに捻ると水が出るから。反対に捻るとお湯が出るから好きな方で洗って」
ヘルッタは無言で頷き、水を出して顔を洗う。
私はその間に戸棚から予備の歯ブラシを取り出す。
「はい、タオルよ」
「ありがとうございます」
しっかりと返事をしたヘルッタはタオルを手に取って顔をしっかり拭く。
顔を洗って目が覚めた様ね。
「これで歯を磨いて。向こうだと手でやるけど、こっちだとこの歯ブラシを使うの」
ヘルッタは渡した歯ブラシを不思議そうに触りながら物を確かめる。
「これは……動物の毛ですか?」
歯ブラシの毛は硬いから不思議な物に見えたのかしら?
「違うわ。一種の錬金術みたいなので作られた物よ。まずこれを歯ブラシに付けるの」
ヘルッタの歯ブラシに容赦無く歯磨き粉を付ける。
「ちょっと慣れない味がするかもしれないけど、それは後で口の中を濯いでしまうから我慢して」
私は少し真剣な表情で言うとヘルッタはゴクリ、と唾を飲む。
「は、母上、口に含んでも大丈夫な物なのですか?」
「大丈夫よ。私は毎日そうしてるから。後は負ブラシで鏡で自分の歯を見ながら磨くだけだから」
一応、健康に害は無い。
「わ、分かりました」
ヘルッタは鏡の前でいーっと歯を見せる様にして前歯から磨き始めた。
そして歯磨き粉が舌に乗った瞬間、ヘルッタの表情が変わる。
きっと未知の味で困惑しているのだろう・
「取り敢えず、我慢して続けなさい」
ここは厳しく行こう。
ヘルッタは私の言葉に少し涙目になりながら奥歯も磨いていく・
基本的に私の言う事はちゃんと聞く子なので我慢して頑張って磨く。
「一通り磨き終わったら水で口を濯いで」
ヘルッタは水を含み何度も口を濯ぐ。
本当は何回も濯ぐのは良くないんだけど、徐々に慣れて貰おう。
「……母上ぇ……何ですか?この味は?」
相当苦手な味だった様だ。
私の歯磨き粉は歯ぐきに良い薬草が入っている物なんだけど、味が相当酷い。
流石に最初から私と一緒のは厳しかったみたいね。
「歯茎に良い薬草が入っているのよ。まぁ、味は酷いけど」
私の言葉にヘルッタは少し恨みがましい視線を送ってくる。
最初から味が酷いと言ったら絶対やらない可能性もあったので慣れない味を言ったのだ。
「お、起きてたのか?」
声を掛けてきたのは輝だった。
「何でヘルッタが涙目なんだ?」
輝は涙目のヘルッタを見て不思議そうに聞いてくる。
「歯磨きを教えていたのよ」
「もしかして、母さんの歯磨き粉でやったのか!?」
「そうよ」
「それはヘルッタが気の毒だ。透也や華奈のを使えば良いだろう?それならこんな涙目になる事は無かったと思うぞ」
私はさっと目を逸らした。
言われてみればそうすれば良かったかもしれない。
余り勝手に人の物を使うと言う発想が無かった。
孫達もヘルッタが使っても文句を言う事は無いだろう。
「母さん、完全に失念していたな。ヘルッタ、歯磨き粉は母さんのじゃなくてこっちの透也と華奈が使っている奴を使うと良いぞ。俺でも母さんの奴は無理だ」
ヘルッタは輝の言葉に透也と華奈が使っている歯磨き粉を確認して首を縦に振る。
ごめんなさいね、気が付かなくて。
「口直しに美味しい朝ごはんを食べましょ。準備は出来ているから」
「そうした方が良いぞ。あんな酷い味、さっさと美味いメシで忘れてしまえ」
輝はヘルッタの頭をポンポンと軽く叩く。
本当に妹が出来たみたいに優しいわね。
もう四十過ぎのおっさんなんだけど。
私とヘルッタはリビングに戻る。
少し可哀想な事をしてしまったので、100%のオレンジジュースを口直しに出してあげる。
「果実のジュースよ。味が濃いからこれならスッキリするわよ」
ヘルッタは勢い良くオレンジジュースを飲む。
それ程辛かったのね。
私は平気なんどけどなぁ……。
「む、これは果実の味が濃厚に感じて美味しいです。それに爽やかな感じがサッパリしてあの味が何処か飛んで行った感じです」
それは良かったわね。
ヘルッタがオレンジジュースで癒されている間にフランスパンのフレンチトーストヲフライパンでさっと焼いて、オーブンレンジの中でこんがり焼きあがっているフランスパンを取り出して皿に盛り付ける。
うん、どっちも美味しそうね。
「はい。朝ごはんよ」
ヘルッタの前に朝食を盛った皿を並べていく。
「おぉ、久しぶりの母上の手料理。あ……」
ヘルッタは周りを見ながらリビングに自分しかいない事に気が付き、少し申し訳無さそうな顔をする。
「気にせずに食べて良いわよ。ウチの朝は起きてきた順に食べるから。輝が起きて来たから仁君と都さんもそろそろね」
大体、私の次に輝か旦那、そして都さんの順だ。
その後はリアと透也が起きて来て最後に華奈だ。
「それでは頂きます」
ヘルッタは見様見真似でパンを手に取って齧り付く。
やっぱおかず系が先よね。
「もぐ!?母上、朝からこんなご馳走を食べるのですか?」
どうやら私のご飯はお気に召してくれた様で何よりである。
ご馳走と言う程では無いんだけどね。
「毎日、こんなに手の込んだ朝ごはんは作らないけど、偶にかしら?でもそのぐらいならいつでも作れるわよ」
私からしたら手が込んでいる内にも入らない。
せめて以前に作ったクロックマダムぐらいじゃないと。
「本当ですか!?」
予想以上に好評らしい。
輝が新聞を手にリビングへやってきた。
新聞と取って来るのを忘れていたわ。
「輝、新聞ありがと」
「ん、あぁ、どうせ俺か父さんが読むんだから気にしないでいいよ。コーヒー貰って良い?」
「えぇ、分かったわ」
私は既にインスタントコーヒーと少量の砂糖が入ったカップにお湯を注いでカウンターへ置く。
「サンキュ。母さん、今日はどうするんだ?」
輝が熱々のコーヒー啜りながら聞いてきた。
「今日?私が来た時と一緒で買い物にかしら?ヘルッタの生活用品や服を買わないといけないし」
私の言葉にヘルッタは少し肩身が狭そうな雰囲気を出した。
意外と気にしいなのよね。
「確かにそうだな。部屋はどうするんだ?空き部屋はリアさんが使ってるだろ?」
彩奈は時々帰ってくるので二階に空いている部屋は一つも無い。
「それなら客間にするつもりよ。客間と言っても、照達が帰ってくる時以外は使ってないし、もし来たとしても和室の炬燵をずらかせば充分よ。翔太なら透也の部屋でも良いし」
照の息子の翔太は透也と仲が良いので問題は無い。
寧ろ部屋で二人で遊ばせておくと少し五月蝿いぐらいだ。
「確かに翔太なら問題無さそうだな。美希はどうせ彩奈の部屋だろ?」
「そう言う事」
この時は問題は無いと思っていたが、年末の来客の事をスコーンと忘れていて後で後悔する事になる。
「もしあれなら物置とかでも……」
ヘルッタが申し訳なさげに言ってくる。
はっきり言って却下である。
「ダメよ。華奈が聞いたら絶対、部屋に誘われるわよ」
「物置は無いな。華奈なら有り得そうだ」
華奈なら喜んで自分の部屋で寝させるだろう。
「でも……」
「気にし過ぎよ、仁君も言ったじゃない。自分の家だと思えって。だから今日寝た部屋はここにいる間は客間じゃなくてヘルッタの部屋だから」
「……はい」
ヘルッタは渋々了承した。
「それにしても母さんが帰ってきてから一気に賑やかになったな」
輝が何処か感慨深げに言った。
「そうね。私にリアにヘルッタだもんね。でも近所で噂になってるんでしょ?」
どうやら私とリアの事は近所で噂になっているらしい。
「耳が早い婆さん共だからな。それにこの付近で外人がいる家はウチぐらいだからな」
この付近は元々あった古い集落と新しい分譲地で構成されていてアパートやマンションみたいな集合住宅は滅法少ない。
そんな場所なので外人なんてほとんどいない。
そして地元の話に敏感なお婆ちゃん達には格好の話のネタなのだ。
まぁ、以前はそのお婆ちゃん達の一人だった私が言うのもあれなんだけど。
「病院の男連中は二人とも綺麗だから見掛ける度に余所見をしてたから喝を入れたな。特に微笑んでいるリアさんがヤバイ」
それはそうだろう。
本物の女神スマイルなんだから。
「まぁ、ウチに縁のある人間とは言ってあるから大丈夫だろ。そういや隣の佐藤さんとこの奥さんと前、喋ってなかったか?」
佐藤さんは以前に洗車している時に声を掛けてきたお隣さんだ。
「あれから何度かお話しているわよ。暇潰しに作ったジャムをお裾分けしたかしら?」
あれから外でバッタリ会うとちょこちょこ話す仲だ。
元々、ご近所付き合いはあったけお、佐藤さんの奥さんはまだ三十代半ばで私と比べたらかなり若い。
ここに引っ越してきた時は新婚だったのよね。
昔の私は怖いお婆ちゃんと言うイメージだったらしい。
眼鏡掛けて目付きが悪かったからね。
単純に寝不足だっただけだと思うけど。
「仲が良いんだな。今日は俺と父さんは昼から大学病院に行くからメシはいらないから」
「分かったわ」
私は話しながら焼いていたフレンチトーストを皿に盛って輝へ渡す。
そろそろ順番に下りて来る頃なので順番に焼き始める。
甘くて香ばしい匂いがリビングを包むと二階段から寝起きのゆったりとした足音が聞こえてきた。
今日も一日が始まった。




