あなたのそばで幸せに。
ほんわか幸せになるようなお話を書きたくてそしたら何故かこうなった。
私は、貧しい村の生まれだった。人一人が生きていくのもやっとの生活の中、子どもは村の働き手ではなく家畜同然で、ほとんどの子どもは生まれて間もなく死んだ。運良く生き残ったとしても口減しに人買いに売られていく。これを家畜と言わずになんというのか。
そして私も運良く生き残り、人買いに売られた子どもの一人だった。
人買いは仲介人だ。買われた人間はそこからさまざまな場所にいく。それは奴隷商であったり盗賊団であったり娼館であったり。時には何か複雑な事情を抱えた貴族に内密に売ったりもするらしい。その中で私は大半の人が売られていく奴隷商の元へ行くことになった。
奴隷商の元で私たちは割り振られた数字で呼ばれるようになる。私に与えられたのは「ひゃくにじゅういち」という番号だった。
ひゃくにじゅういち人も奴隷がいたのだろうか、定かではない。
奴隷の買い手は貴族だったり商家だったり見世物小屋だったりだ。ただの人である私たちが、何故こんな細分化されて売られていくのか疑問に思ったがこれも商売の一つならば客の要求に合わせて変化することはなんら不思議ではないのだろう。
そうして私は、ある貴族に売られていった。
その貴族の家には淡く光る金の髪と森の中の湖面のような美しいグリーンの瞳を持つ子どもがいた。私はその子どものためのモノだった。
何をしろとは言われなかった。ただ、何も話すなと言われた。だから私は黙って頷いた。そうしたら頬を叩かれた。「わかったなら返事をしろ」そう言われた。私は不思議に思いながらも「わかりました」と朧げに答えた。
私がその子どもとあわされるのはいつも決まった時間だった。日が傾き始めてから、日が沈むちょっと前まで。そのわずかな時間の時だけ、硬い石の上ではなく柔らかい絨毯の上にいられた。
座り込んで黙ったままの私を子どもはいつもその澄んだグリーンの瞳で見つめていた。何をするわけでもない、何の感情も浮かんでいない人形のような瞳で私を見ていた。
私はそれを見ながら、子どものくせにやけに物静かで不気味なやつだと思っていた。私だってその子どもと大した年の差もないというのに。
ある日のことだった。いつもただ人形のような瞳で見つめてくるその子どもが、私のバサバサの髪に触れた。それは赤子が無邪気に毟るという感じではなく、むしろ大人が恋人にするように優しく労わるように触れてきたのだ。
私はそれを無表情に見ながら内心非常に驚いていた。この子どもは一体何をしているのだろう。そう思った。
「どうして、君は何も話さないの」
子どもらしい高めの綺麗な声がそう言った。思わず言葉を発しそうになるけれど私の声は死んでいる。だからただ首を振って俯いた。話せないのだとわかってもらうために。
その意図は通じたようで「そう、話せないんだね」と子どもは僅かに悲しそうに言った。
「君の名前はなに?」
次の日も子どもは話しかけてきた。もちろん私は答えない。答えない私に彼は紙を差し出した。
ひゃくにじゅういち、私は紙にその数字を書いた。それが私の名前だ。
ただ数字を書いた私を最初不思議そうに眺めていた子どもは、それが私の名前だと気付いて少しだけ嬉しそうにした。
その頃には自分が何のためにあの子どもに与えられているのか正確に把握し始めていた。
私はあの子どものための人形だ。子ども自身人形のような見た目をしているくせに、私はあの子どもための人形なのだ。けれどあの子どもは私を人形のようには扱わなかった。始めは見つめるだけ、次は髪を撫でるだけ、その次は私が何も話せないのを知っていながら私のことを聞いてくる。紙で答えたのは一度きり。
それなのに、あの子どもにとって私は人形ではなく、友達かそれに準じる親しい何かなようだ。
けれども私は、人形だ。あの子どもための。
月日は流れ、私の短かった髪は腰まで伸びた。あの子どもももう人形などいらない年齢だろうに、未だに私はあの子どもの人形だった。子ども、もう子どもとは呼べないほど大きくなった。少年という時期も過ぎ、子どもは青年に足を掛けていた。
それでも、子どもは、私を手元に置いていた。
「今日はいい天気だよ。一緒に芝の上を歩いたら気持ちがいい」
子どもと会うための部屋には高い場所に小さな窓があった。そこから見える空は快晴で気持ちの良さそうな天気だというのは確かだった。
子どもは私の手を取ると立ち上がる。つられて私の体も起き上がった。そしてそのまま部屋を出て行こうとする。私は思わずその掴まれた手を引いた。
「どうしたの。行きたくない?」
行きたい。行きたいに決まってる。でも、許されていない。私には外へ出ることなど許されていないのだ。
そう言うことも出来ずただ首を横に振る私を子どもは悲しげに見つめた。
「外に行きたくない?」
首を振る。
「部屋を出るのが怖い?」
首を振る。
「僕が、いや?」
首を振る。
振って気がついた。子どもの、深みの増したグリーンの瞳が、湿り気を帯びて揺れているのに。
どうして、泣きそうな顔をしているのだろう。
尋ねてみたかったけれど、声にも口にもできなかった。
子どもは白く長い指で私の首元に触れた。
そこには奴隷の証がある。私が死ぬまで消えない証だ。
顎から下へ撫でるように親指が動く。喉仏に着くとその指がぐっと押された。
そこは人の急所だ。子どもは私を殺す気なのだ。苦しい。苦しいけれど、こんな終わりも悪くないと思った。
相変わらずグリーンの瞳が水を湛えて揺れている。森に吹く風のようで葉がかさかさと擦れる音が聞こえてくるようだ。
泣きそうなくせに手が緩むことはなかった。声も出せず息も漏らせず私の意識はふっと暗転した。
私は死んだのだ。
ユラユラと白い光が浮かんでいる。
あたたかくて、やさしい光だ。
私はこれを知っている。
これは、彼の色だ。
確かめたくて、目を開いた。
そうして私の目に映ったのは、日に照らされて白く見える金の髪と真っ青な空だった。
ああ。私は、死んだのではなかったのか。
「ごめんね、乱暴なことをして」
湖面の瞳はもう揺れていない。
「君をどうしても外に連れて行きたかったんだ」
覆い被さるように私の上に跨るその顔には影が出来ている。
「もう、何もないよ」
頬の上にひとつ、雫が落ちた。
「君を縛るものは、もう、何もない」
そうか、これは涙か。
綺麗だな。
私は思わずそれに手を伸ばした。
「綺麗なのは、君のほうだよ」
そう言って、嬉しそうに笑った。
そこではじめて自分が声を漏らしていたことに気がついた。耳元で芝が揺れる音がする。
ここは、どこだ。
小さい窓の毛足の長い絨毯が引かれたあの部屋ではない。ましてや石の床と古びたベットしかない薄暗い私の寝床でもない。
「外だよ。君の望んだ自由は、ここにある」
震える声がそう言った。
嬉しそうに笑っているくせに、さっきから私の顔には大粒の雨が降っている。空はこんなに晴れているのに。
私は自由を望んだことはない。
「じゃあ君の望みは何? 僕がなんでも叶えてあげる、僕ならなんでも叶えてあげられる」
木枯らしのような風がびゅうびゅうと吹いている。寒さはない。日差しが暖かいからだ。白金の髪が風と踊っている。綺麗な世界だ。
私はぼたぼたと雨を降らすそれを伸ばしたままだった腕で捕まえた。上に被さっていた体がそれに引き摺られるように落ちてくる。どくんどくんと鼓動が聞こえた。私は自由になった声でそっと囁いたのだ。
──幸せになりたい。あなたのそばで。
お読みくださりありがとうございました。