3 ドロップ・オブ・ザ・ムーン (10)
「社会とはそういうものだとか知ったふうなことを言う連中が信用できるとは俺は思わんな。社会の全容を把握している人間なんて、理屈で考えて一人も存在しないはずだろ?まるで多数派を背後に従えているみたいにして自分の意見を個人に押し付けるのは、言うのは勝手だが実態としては、わがままをわめいているのと似たようなもんじゃないか?仮に本当に自分と同じ意見を持つ人間の数が多かったとして、それを理由に自分には好都合で相手には不都合な条件を呑ませることが正当な手続きなのか?個人と個人の関係として。」
苅安が愚痴っぽく言った。あまり聞いたことは無かったけれど、彼の周囲にはそんな発言をする大人が存在したということか。
「常識とかって、色々な人がいる中でスムーズに話を運ぶためのルールや建て前っていう側面が有ったらしいけどね。」
現在では各コミュニティの規模が小さくなっていることも有ってか、話に聞く前世紀ほどには常識というものが権勢を誇っているわけではない。
「言っとくけど、群崎が『こういう人は多い』とか言うときは、多いっても一割もいればいいほうだぞ。」
苅安は俺に人差し指を突き付けて柑子に言い放った。
「俺に矛先を向けるのか……」
価値観というものは細分化していて、特定の傾向を有している人ばかりを集めて全体の半数以上を占めるなんていうことは、厳密にはまず無い。それに、たとえ単一の性質が別々の人の間で共通していたとしても、他の何らかの特徴においては必ず隔たりが有るはずだ。例えば宗教の規模が大きくなれば、同一の宗教であっても宗派による違いが大きくなる現象が観察される。怖いのは信仰ではなくて盲信だ。
そういう意味では多数派というのは時として、立場を異にする人との力関係において有利な状況を形成するために持ち出される単なる都合になってしまう。問題は、少数派の人に何かをさせるための説得の材料になってしまう場合が有ることだ。
性別ゼロというのは、どうしたってマイノリティである。
医療機関を受診する場合でもなければ、自分の性別を嘘偽りなく開示することは特に誰からも求められないのだけれど。(性別情報が関与する種類の犯罪は同性同士であっても発生するし。)
「ごちそうさま。」
柑子は再び茶碗と箸をテーブルに置いて、お茶を飲んだ。
「ここに来る前に泊めてくれてた人っていうのは、どんな人なんだ?」
「水縹さん?あの人、私のこと『みかんちゃん』って呼ぶんだよ。変わってるよね」
「あ、お前、名前を出すなよな」
苅安が遅まきに釘を差す。
「君だって俺の名前を柑子に教えたんだろうに」
苗字はすぐに判るようにしてあるから知ってて当然だとしても。
「いや教えてないって。ただ、こいつを家に入れたら中に有るデータは見られるの前提だから。それが原因だよな。あの女から叱られて、うちに預けられたのは。」
「うん。」
「なんで苅安なんだ。他にいなかったのか?」
この男の面倒見がいいのは確かだけれど。
「言っただろ、どんなデータでも筒抜けになるんだよ。俺が一番ましだろうって白羽の矢が。」
「他の面子はどんな嗜好の持ち主なんだ……」
そもそも、その水縹という女性はどんな見られて困るデータを所有していたのだろうか。謎だ。
「まぁ俺も、必要の無いものは開けないって条件で預かったんだがな。たまたま視界に入ったんだろ、群崎が前に入力してたログとか。」
「えっと、ちょっと違うかな。必要な情報収集の一環だと判断したから。私が。」
解らなくもない。
しかし俺の個人情報は柑子に知られてしまっているということか。
「その人、近くに住んでるのか?」
「島内ではある。」
「色々と事情に詳しい人なのかな」
「俺やお前よりは。」
『何らかの教育機関』に関しては俺も苅安も離脱組の側だから、適切なアドバイスをするのは難しかった。公共組織、企業、宗教団体、もしくは個人が主催するその種の施設は多種多様で、そこが自分の性格に合った場所なのかどうかは行ってみるまでは判らない。
見ようによってはEinsもその一つで、今のところ俺にはそこが自分に合った居場所である。タイミングの問題でもあって、もうしばらくの時間が経過したら(性格とかの都合ではなく将来の目標を達成するための手段として)違う組織が『自分に合った居場所』になることが予定されている。
何をどうすればうまくいくのかは、結局のところ人によって違っている。自分がどういう状態であることを理想とするのかも人によるし、自身を特定の状態に置いておくために行うべき努力の方向性や方法も人それぞれだ。色々な経験をできる場が提供されたり、様々な方法を学ぶ場が有るのはいいことだけれど、細かい対処法や気の持ちようは、本人が自分なりに模索して工夫したほうがいい。その場に応じて柔軟に行動を選択できるようになることと、適応困難な状況にそのまま置かれ続けることとは違う。
そんな感じのことを丹生が言っていたような気がする。
まぁ俺はともかく柑子の場合は、行ってみて合わなければ通うのをやめるか別のところに行けばいいだけだ。水縹という人も、きっと一時的な対処法のつもりで提案したのだろう。
「じゃあ、どこの施設がいいのか具体的に相談すれば?その人と。」
「そうだな。」
柑子は異存は無いという様子をしている。
「今日は暗くなる前に自分の家に帰るか、それが嫌だったらあの女のところに戻れよ。どっちも駄目だったら、またここに来ればいい。群崎、途中まででいいから送って行ってやってくれないか?お前の家の近くまでで構わない。」
「ああ。」
「忘れてたけどお前、何の用で来たんだ?」
苅安に尋ねられて少し考えた。
「マフィアに拉致された腹いせかな。」
予定が急に変更になって、青磁さんを出し抜きたい気分になったのだと思う。苅安たちがEinsの不正攻略をしたくなるのと似たような気持ちなのだろう。
そういう息抜きみたいなのって必要だ。