3 ドロップ・オブ・ザ・ムーン (9)
しかし殆ど喋らないな、この子。
食事が始まる前は、どちらかというと口数が多かったように思うのだが。
柑子は天かす麺つゆごはんを夢中で食べているのかというと、そういうわけでもなく、俺と苅安の様子を窺いつつも行儀よく一口ずつ咀嚼している。
質問してみることにした。
「もしかして、あんまり美味しくなかったりする?」
見た目としては絵にならない食事だが。
柑子は咀嚼を一旦中止して首を振った。
「こいつ、いっつもこうなんだよ。食事中は喋るなとでも言われたのか?」
苅安の言葉に頷く。
俺と苅安は顔を見合わせた。
「誰から?」
今のところ女の子に見える少年(女の子でも男の子でもないが、まぁ少年にはカテゴライズできるだろう)は、茶碗と箸をテーブルの上に置いた。
「お母さんに。」
「……もしかして、自分のことを『私』って言うようにって言われてる?」
「うん。只でさえ戸惑われたり気味悪がられたりするんだから、なるべく人から嫌われないようにしていなさいって。私は性別ゼロだから。」
「そんなこと言われてたら家出したくもなるな。」
呆れたように言う苅安を、俺は取り成す。
「まぁ、どの性別でも、そう教えてる保護者は多いみたいだけどね。合理的だからって。どうせ誰だって仕事とかでは『私』って言うことになるんだし。」
丹生くらいに特殊な身の上なら別なのだろうけれど。
「いや、理由がそれだっていうんなら解るけどさぁ……」
そもそも柑子は他人と頻繁に顔を合わせて会話をする職業を希望しているのだろうか。いや、まだ将来の目標なんて決まってないか。
「でも、家出って、お母さんが心配して探したりしてないの?」
「まだ平気。四日経つと心配し始めるかな、これまでの経験則では。」
十三歳の経験則が当てになるのか否かはともかく。
「四日も泊めてたことが有るのか?」
俺は柑子ではなく苅安に尋ねた。
この男が未成年を誘拐したとかいう嫌疑を掛けられたら、苅安本人は自己責任としても、俺が困ることになるかもしれない。いや、苅安だって、そんな危ない橋を渡る人物ではないはずだ。
「違うって。前まではここに来てたわけじゃなくって、えっと……別の知り合いの家に泊めてもらってたらしいぞ。」
どこまで俺が首を突っ込んでいい話なのか不明である。
「今までは心配されてなくても、今回は三日で心配して捜索願いを出したりするかもしれないだろう?」
「捜索願いを出したことは無いみたいだよ、今のところ。」
自分の保護者の話なのに、やけに淡泊な返答をする。
十三歳が三日も帰宅していないのを保護者が放置している。その現状を役所に報告したほうがいいのだろうけれど、そうすると苅安が面倒な立場になりそうだった。
そもそも、自身も未成年である俺が他人の家庭環境にとやかく言う筋合いは無い。
こういうのって、周囲の人間が口出しをするべきでないとか口出しするべきだとか、いずれかに決定できるものではないらしいが。何が功を奏するかは状況によって異なるし、結果を事前に予測することはできないから。
何かいい対処法は無いのだろうか。
「あ、思いついた。」
唐突に苅安が呟いて、服から携帯端末を取り出して入力を始めた。
苅安の端末は以前に会ったときに持っていたものとは違っているように見えたが、形状は同じで、手の平サイズの極めて薄いものだった。彼はこのタイプの端末が気に入っていて、昔のクレジットカードや運転免許証と同じ大きさなのだと説明してくれたことが有る。耐久性に難が有るというのが多くの人の評価だけれど、壊れたら新調すればいいだけだと苅安は言っていた。価値観というのは様々だと思う。
数秒で苅安は端末をしまう。
「誰かに連絡したのか?」
俺の質問に対して、きょとんとしたように目を丸くして瞬きをする。
「ん?いや。計算方法を思いついたからメモを取っただけだ。」
「ずっとそんなことを考えてたのか」
「お前だって似たようなもんだろ」
それは確かにそうだけれど。
「早く答えないと設問の鮮度が落ちるだろうが。」
そういう種類の問題に取り組むのを苅安が好んでいるのは知っている。Einsでの設問公開後に正解者などが解答を拡散して、正答をネット上で入手しさえすれば点数を稼げるようになるまでの時間、獲得できる点数の最大値は公開からの経過時間に応じて減少し続ける。これは『時間が経過すれば減点対象になる』というよりも、『早く正解できればボーナスポイントを獲得できる』という感覚に近い。焦ってミスしたら勿体無い(時間を気にせず慎重に答えたほうが効率がいい)から俺はあまり好きではないが。
「ずっとモニターに張り付いてるわけにもいかないけどな。そういう意味では焦ったぜ、この前の七歳児のデータ。端末の前に座りっぱなしでトイレにも行かないのかと思った。」
「科挙受験者かよ」
ここは大昔の中国じゃないから、いくら成績優秀でもそれだけで一族の繁栄に繋がったりはしないのだが。
「そういえば、お前の『知ってる奴』に相談してアイデアを出してもらえないのか?」
苅安が裏柳丹生という人物のことを具体的に知っているわけではない。個人的には丹生と柑子を引き合わせたら互いに学ぶところが多いだろうとは思う。
「心当たりは無いよ。その、前まで泊めてくれてた知り合いっていう人に相談したら?」
「相談したら、何らかの教育機関に所属させればいいだろうってさ。」
真っ当な意見である。
「うーん、それは本人の意向次第になるな。」
柑子を見やる。もう会話に参加しなくていいと判断したのか、食事の続きに取り組んで、食べ終えようとしているところだった。
俺と苅安は既に食事を終えている。