3 ドロップ・オブ・ザ・ムーン (3)
青磁さんは片手を差し出して、部屋の奥を示した。
「あちらで話をしよう。」
示された先にはドアが有る。その向こうも部屋になっているということなのだろう。
この建物は分かりやすい通路や部屋番号が有るわけでもなく入り組んだ幾つもの小部屋で構成されていて、既に今どこに居てどうやったら元の場所に戻れるのか判らない。
首肯とも礼とも受け取れるくらいに頷いて、俺は開かれたドアをくぐる。
「ここは応接室というか会議室みたいなものなんだ。座っていて。食事は?」
「あ、移動中にいただきました。」
答えつつ、部屋の中央のシートに座る。見た目から想像されるよりも柔らかい感触に、驚く。
「じゃあ飲み物だけでいいかな。」
そう言いながら部屋の外に視線を送って、青磁さんは俺の斜め前に座った。
「そんなに畏まらないでほしいな。群崎くん、僕だって君とは子供の頃からの知り合いじゃないか。」
青磁さんは俺や丹生より六歳も歳上だけど、同じ時期に地元の公立の集団保育施設に通っていた。彼の場合、妹の丹生が通い始めてから保護者のような立場でたまに一緒に来ていたというのが真相らしいが。子供の頃から既に過保護だった。
「君の貴重な時間をこんなふうに浪費させてしまっていることに関しては申し訳無いと思っているよ。僕のほうが謝らなければならない。ただ、話しておかなければならないことが有ると判断したんだ。」
やっぱり丹生と喋り方が似ている。声は違っているけれど。
「ここでなければ話題にできないような内容の話なんですね?」
なんとなく俺は自分の周囲を眺めた。
シンプルな小さい部屋だけれど、防音設備が整っているのではないだろうか。部屋の隅に楽器が置いてある。何の楽器なのかは俺には判らない。和風もしくは中国風の琴に見えるが、弦が二本しか張られていない。汎用化されていないオリジナルの弦楽器なのかもしれないと思う。
「うん。」
青磁さんは部屋の入り口まで飲み物が運ばれてきたのを見て取って、立ち上がって受け取り、部屋の中央のテーブルの上に置いた。
「君にも見当が付いているだろう。妹の話だ。君は彼女のことを、どう思う?」
いきなりだなぁ。どうやら解雇通達ではなかったみたいだけど、のっぴきならないというか剣呑な状況には変わりない。完全に相手にとって有利な形勢が整えられているし。
「それは、俺の個人的な感想としてという意味でですか?」
「そうなるね。」
丹生のことは個人的には魅力的な女性だと思っているけれど、まさか青磁さんの前で口に出して発言するわけにはいかないだろう。本当に職を失う。
「とても優れた人物だと思います。殆ど外と関わりを持っていないのが勿体無いくらいに。」
「彼女は別に、社会的に隔離されている状態に有るとは言えないよ。ネットワークでのコミュニケーションは行っているし、そこにおいて社会的にも彼女なりの役割を果たしている。それに、ただ生きて食物やエネルギーを消費しているだけであったとしても、彼女以外の存在との相互作用は断たれていないと僕は考えている。」
その考え方は理解できた。俺のように、リトルパールまでメンテナンスその他のために出勤している人もいることだし。
「ただ、僕としては彼女をあの生活に追いやった周辺状況が気掛かりなんだ。気掛かりというか、後ろめたいのかな。今からでも僕にできることなら力になりたい。だから君に協力してもらっている。」
俺は緊張で喉が鳴りそうになって、ごまかすためにグラスを手に取って飲み物を飲んだ。柑橘類のジュースである。
「僕と丹生の祖父が亡くなったのは、今から二年前のことだ。」
身内であっても『亡くなった』という表現を用いるその口調には尊敬の念が滲んでいるように俺には聞こえた。
「知っています。」
裏柳藤吉郎氏が二年前に病死したことを知らない人は、よほど社会情勢に興味の無い人物だろう。様々な媒体で報道されていたし、Einsからも追悼文が公開されていた。
「祖父は法的効力を持つ遺言によって、親族に財産を分与することにしてあった。その中に、僕と丹生が祖父のネットワーク上の権利の一部を譲り受けるという内容が含まれていたんだ。」
Einsのアクセス権が云々という、丹生が話していた件だろう。
「生前にEins側とは話し合いが行われていたから、権利の譲渡そのものに問題視すべき点は無かった。勿論、その権利を行使して僕や丹生が何らかの犯罪行為を行えば、それは犯罪に該当するけれど。」
「確か、ご親戚のどなたかが反対なさったとか」
「うん、祖父の兄弟が反対した。僕らにとっては大叔父に当たる人たちだ。僕は既に成人していたから文句を言われなかったけど、丹生はまだ十四歳だった。仕方が無いとも言える。まぁ控え目に表現しても、大叔父たちは同じ権利を持つことはできないという不公平さに起因する意見だろう。」
よく分からない。
青磁さんは穏やかに目を細めた。
「僕の両親は能力や技術を持ち合わせた上で祖父の事業の一部を受け持っていたけれど、祖父の兄弟は違っていた。それで、資産運用におけるパワーバランスに偏りが生じると考えたんだろう。僕は、だからこそ祖父は僕と丹生の二人にだけそんなプレゼントをしたんだと想像している。将来への夢や希望を託す意味で。」
遺産相続争い。確かに他人に聞かれては困りそうな話だ。
「とにかく、その話し合いというか親戚からの圧力の弾みで、丹生は心を傷つけられてしまった。そして同じく祖父の遺言で彼女に相続されたリトルパールに閉じこもってしまったという経緯になる。」