2 イン・アウア・ネイチャー (9)
彼女はテーブルに突っ伏したまま、片手の指を立てる。三本。
なんだろう。
「突き詰めて考えれば、与えられた環境に適応することと、適応が不可能な環境に置かれたときにその環境から脱出すること、或いは環境そのものの改変を試みること、この三つが人間を知的存在として存続させてきた資質だと言える。」
いきなりかよ。丹生と話していると脳がカロリーを消費する。えっと。
「自殺っていう選択をする人もいるよね」
「自殺は自身が置かれた環境からの離脱であると同時に、理不尽な環境を改善するために個人が取ることのできる最後の手段だ。まぁ実際には、環境からの脱出や環境の改善を行うための方法が残されていることが多いのだがな。理不尽な環境を与えられ、更に、その環境に対して不適切な対処行動を他者から強いられた場合に発生することも有る。」
「その『他者』から脅迫を受けているとか?」
「保護者や年長者といった立場が上の人物であるパターンも有る。なんにしろ、『周囲に不適切な行動を強要してくる人物が存在する』という状況を含めて『その個人が置かれた環境』だと言える。」
メタだなぁ。
「結局のところ、かつての学校っていうのは、組織に所属させて行動範囲を限定することによって犯罪を抑止する効果も期待されていたっていう話らしいけどね。被害と加害の両方の。」
俺は模範解答を引っ張り出して丹生を丸め込もうとした。
「実情としては各組織内もしくは家庭内での犯罪行為が明るみに出なかっただけかもしれないがな。一世紀前であっても現在であっても、実際の件数を把握することはできないから比較は困難だ。」
「家庭内での暴力は、義務教育が無くなれば更に深刻化するっていう懸念も有ったみたいだけど」
「各家庭への公的機関からの訪問調査は定期的に行われているし、その頻度や質は義務教育が実施されていた時代よりも向上しているというぞ。例えば、僕が置かれている状況が僕の意思に基づくものなのかどうかは再三に渡って報告が求められているから、そのたびに僕が自分でレポートを作成して提出しているし、年に一度は公務員が兄さんに連れられてリトルパールまで足を運んでくる。役所の調査員ではなくて概ねの事情を知っているそれなりの立場の人らしいが、それでも僕の生活スタイルを知って呆れて帰っていくぞ。」
まぁ特殊ではあるけれど虐待には該当しないよね。しかし、『それなりの立場の人』が潜水してここまで御足労くださっているのか。なんだか俺が申し訳無い気分になる。
「そうした訪問調査に充てられるだけの人員がいなかったんだろうな、昔は。」
「サービスの円滑化が不足していたんだろう。さて、話を戻そう。要するに、選択肢として『与えられた環境に適応する』以外の行動を禁止する行為は、個人を追い詰める要因の一つなんだ。環境に適応できる人間にならなければならないという教育方針に一概に賛成することは、僕にはできない。『そんな意見を押し付けてくる者が周囲に存在するという環境』に、自分なりに対処していく他ないのだろう。そういうわけで、お前が僕をリトルパールから連れ出そうとしたら、僕はお前の雇用契約を解消するからな、藍。」
「言いたいのはそれだったのか。」
俺は額を押さえた。いちいち面倒な娘だ。
「君は、誰かから理不尽な強要を受けたせいで、ここに引きこもっているのか?」
丹生は黙って自分のコップに手を伸ばした。手に取って、中の水を口に含む。
「今から僕の二つ目の要求を言うぞ。」
あからさまに話題を変えてきた。
俺は身構える。
「君の個人的な趣味に関する話題に付き合えっていう話だったら、俺は一応は仕事でここに来ている以上、職務上の不都合が有るから拒絶するよ、にゅー。」
「僕の名前はにゅーじゃなくて、にゅーだ。」
同じじゃないか。
俺と丹生は黙って見つめ合った。
もしかして噛んだのか。
何も言わないほうが面白そうだったので黙って笑いを堪えていると、丹生が一人でぱくぱくと口を開閉した。
「ちがっ……今のは!そうじゃなくて!僕は」
俺は堪えきれずに笑ってしまった。
「笑うな!」
「いいよ。今のが二つ目の要求っていうことで。丹生。」
「卑怯だぞ。そしてまだ笑っている。」
俺は笑うのをやめるために、真面目なことを考えることにした。
「そうすると、人類が発祥してから『環境からの脱出』を選択して移動を繰り返してきた人たちの子孫がアジア人の、とりわけ大陸ではなく島に定住する人種っていうことになるのかな。」
丹生は気を取り直したように、すました顔をした。
「そうだな。自己を基準にして環境の改変を行うよりも、環境に適応するか脱出するかという選択を行う傾向が強い人種なのではないか。侵略という選択を繰り返してきた民族には勝てないのが道理だろう。」
「そこから更に東へ移動した人たちの子孫がアメリカ原住民で、不幸にしてヨーロッパからの侵略者と邂逅してしまったっていう話だね。」
「祖父もそういう話をしていた。適応戦略として破壊しか選べなければ滅亡するから、生き残るのは脱出、つまり逃亡を選ぶ人間なのだという。」
まさに裏柳理論の提唱者である。