2 イン・アウア・ネイチャー (8)
コンピュータ・ネットワークを活用した自宅での学習と就労が選択できるようになった現在、幼児や小児が集団保育施設や集団教育機関に所属するかどうかは、本人の希望を踏まえた上で家族が判断するのが一般的である。保護者が基本的には自宅で仕事をしている場合であっても、必ずしも幼児を育てるのに適した家庭環境であるとは限らない。施設に所属登録をしたからといって必ず通わなければならないわけではないから、一度はそうした組織に登録したことが有る人が殆どだろう。
それでも、丹生が地元の保育施設に通う理由は特に無かったはずだ。裏柳家ほどの財力を有していれば、専属の養育係でも家庭教師でも何でも雇い入れることが可能だ。実際に何人かそういう人が存在したらしいことは彼女の発言の端々から窺い知れる。それらの人たちが丹生のわがままに手を焼いた末の苦肉の策というわけではなく、彼女の祖父である藤吉郎氏が『一度も行ったことが無いよりは経験が有ったほうがいい』と助言したのが理由らしい。
そんなわけで、田舎のことだから近辺には一つしか無かった公立の保育施設に、俺と丹生は同時期に通っていた。その保育施設は一歳から十二歳までの幼児や小児が在籍することを許されていたが、途中で他の私立の教育機関に移籍したり、並行して複数ヶ所に通うことを選んだり、もしくは自宅で個人学習に専念するようになる子供が多かったと記憶している。
丹生は割と早い段階で保育施設に姿を見せなくなっていた。俺は十歳まではそこに通っていたけれど、親と一緒に首都に引っ越してからは保育を目的とした施設には行っていない。学習に関しても、やがては一人で勉強する道を選ぶことになったのだが、それは今のところ余談だ。
ともかく、十年前に俺が丹生と会話か何かをしたのだとすれば、それは保育施設でのことなのだろう。
「君は、子供の頃に俺が味方になるって言ったから、こんなふうに俺を雇ったりしたのか?」
「そう言ってしまうとニュアンスが違うな。本当に憶えていないのか、あのときのことを。」
俺は丹生と特に仲が良かったわけではない。それはまぁ同年齢の子供は多くはなかったから一緒に活動することになる機会も多かったが、それ以上に親しかったとは云い難いと認識している。それとも丹生のほうは俺と仲良しだと思っていたのだろうか。十歳に満たない子供同士なんて、そんなものなのかもしれない。
いずれにせよ、彼女の言うようなエピソードは俺には思い出せなかった。
丹生はなにしろ丹生だから、他に強烈な記憶は色々と有るけれど。
「まるで俺以外には信用できる他人に出会ったことが無いみたいだな。君は集団保育とか集団教育に何かと苦言を呈し続けているけど、それなら、行っておいて損は無かったっていうことじゃないか?」
あそこで知り合った俺のことが、今でもそんなに大切だっていうのなら。
「僕は集団での保育や教育に反対しているわけではない。集団教育を強要する人間に腹を立てているんだ。病気で入院中でもない限り未成年は必ず集団教育機関に通うべきであるという考え方は、大義名分を背後に従えて自分と無関係な他者に対して期待通りの行動を強要しているという側面を暗に有している。」
「まぁ多かれ少なかれ、政策とかってそういうものなんじゃないかな」
「大勢の同年齢や同世代の子供と時間を共有するべきだという考え方を否定も肯定もする気は無いが、その主張者の意見が影響を及ぼすことのできる範囲は精々、その人物の知人や親族ぐらいが限界のはずだ。選択は各人の事情に照らし合わせて行われるべきだと思う。教育という名目で未成年の行動範囲を極端に限定することに正当性は有るのか?それを主張している人物はシステムから恩恵を得たのだろうが、誰もが同じ経験をできるわけではない。僕に言わせれば、単なるロマンティシズムだ。」
彼女の嫌うような主張をする人物は現在でも少数ながら存在するらしい。
「うーん、君だって、君の事情や都合で集団行動は苦手だったんだろうけれど、その経験則に基づいた主張なんだとしたら同じなんじゃないかな」
「同じじゃない。僕は全ての未成年がEinsでの自宅学習のみに集中しろなんて言うつもりは全く無い。」
それは流石に極端すぎるからな。
「えっと、かつての義務教育は元々、貧困などが原因で教育を受けられない子供がいたという事実に基づいて設けられたシステムなんだ。」
「お前より成績順位は低くても、僕もそれくらいは知っている。」
丹生は歴史の勉強は苦手みたいだけど。
「それに加えて、未成年者に安全な居場所を与えるとか、生活に必要な社会のルールを教えるという機能に徐々にウェイトが置かれるようになっていった。勉強を教えるという意味での教育の他に、社会に適応させるという意味での教育が重視されていた時期も有ったらしい。」
俺の考えでは勉強が充分なら同時に社会適応の方法も身に付くはずなのだが、その辺りは一体どうなっていたんだろうか。
「僕には、その名目で行われていた価値観の押し付けが気に入らない。」
「そうだろうね。でも、今とは就労形態も経済システムも微妙に違う世界の話だから、ある程度は仕方が無いんじゃないかな。ネットワークで誰でも自由に勉強できるわけじゃなかったんだし。当時の時点では最善の方法が選ばれていたんだと思うよ。」
「お前のように、環境が変われば最善策も変わると考えられるような柔軟な思考の持ち主ばかりなら、僕も文句は言わないんだが。」
「今はそのほうが多数派だよ。」
「そうだろうか。実感が湧かない。」
丹生はテーブルの上に両手を投げ出して、くたっと顔をモニターに押し付けた。