1 オーガニック・ジュエル (2)
そんなことを考えて煩悶としている間に丹生が両手に皿を持ってリビングに出てきた。
「残り物ばっかりだけど。」
言い訳をしつつテーブルの上に皿を置く。タオルで髪の毛を拭きながら覗き込むと、なんとも豪勢な料理だった。今日は俺が食料その他の補給に訪ねて来る日だから、残り物を有るだけ放り込んだということなのだろう。片方の皿はパエリア風のピラフ、もう片方はラフテーと茹で鶏と野菜の盛り合わせ。お腹が空いているから余計に美味しそうに見える。
丹生が取り皿と箸とスプーンを持ってきて、食事が始まった。彼女は手早くピラフを皿に取り分ける。俺はグラスに水を注ぎ入れる。
箸を手に取ってラフテー(豚肉の煮込み料理)を口に放り込むと、幸せな気分になった。
「相変わらず絶品だな、にゅー。」
「僕の名前はにゅーじゃなくて丹生だ。」
「言いにくいんだよ。」
口の中に食べ物が入っているから尚更だ。
丹生はスプーンでピラフを掬いながらぼやいた。
「まったく。こんな名前を付けた親を恨みたくなる。」
「そんなこと言っちゃいけない。いい名前じゃないか。」
「だったらちゃんと呼べ。」
「丹生。丹生って確か、銀のことじゃなかったっけ?」
「違う。銀じゃなくて水銀。」
成程、確かに毒が有るのも頷ける。じゃなくて。
「どっちにしても、折角つけてもらった名前に文句を言うのは良くないよ。」
大皿の野菜を小皿に移動させながら、丹生が険の有る眼差しを寄越した。
「お前だって、百年前に生まれていたら自分の名前を付けた人間を恨む羽目になっていたかもしれないんだぞ、藍。」
「俺が?」
「そうだ。お前の名前は昔は女性にしか付けられない名前だったらしい。その頃に生まれていたら、きっと集団教育機関内において揶揄の対象になっていたことだろう。ひょっとすると虐めの原因になっていたかもしれない。」
「藍が、ねぇ。実感が湧かないな。至って平凡な名前だと思うんだけど。」
それに加えて男性なのに名前が女性のようだというだけで集団から疎外される世界というのは想像の範疇を超えている。にわかには信じられない。また丹生の『自主学習』が暴走および迷走しているのではないだろうかと疑わしくなった俺は尋ねた。
「Einsは順調に熟してるのか?」
Eins――エデュケーショナル・インタラクティヴ・ネットワーク・システムは現在、個人の教育水準の世界的な共通指標となっているシステムである。丹生が使っているのは多分、日本語版だけれど。
かつて、ゲーム理論に集合論と統計学とを組み込むことによって『武力的威圧関係を破滅で終わらせないためには、そのパワーゲーム自体から離脱するという選択を行うのが最適解である』という数学的証明を完成させた人物が存在した。中国の故事成語で謂えば、『三十六計逃げるに如かず』というやつだろう。彼はそのコンピュータ・シミュレーティングを用いた純粋に理論的な証明を評価され、ノーベル平和賞の候補にまでなったらしい。
当然ながら、『そんなものは机上の空論だ』という反発は絶えなかった。反対したいだけの者は、自分にとって不都合な専門的見解を『理想に過ぎない』『現実を見ていない』という、『論』にもなっていない単なる中傷によって消し去ろうとする。そうしておいて『現実』の詳細を提示するのかというと、『機密事項だ』とか『説明するまでもない当然の常識だ』などと言ってはぐらかしてしまう。
実際のところは、『人間に完全な未来予測は不可能』なのである。ある程度の蓋然性を予測することは可能であっても、『未来』が訪れた時点で何が起こっているのかは、誰の想像も計算も超えたところに有る。(歴史的には、たまに『予言者』なるものが登場して誰も予想しえなかった事実を予め見通していたとかいう話になったりするが、その『予言者』は、突飛な持論を公言していた無数の人間のうち、たまたま想像と『訪れた未来』との間に共通点が有った者に過ぎないと云える。)
そのゲーム理論的平和主義を主張した数学者は、自分の理屈さえ理解できれば不毛な争いは回避できると考えた。そもそも、武力的戦闘による問題解決が悲劇しか生まず、世界全体としては物質的にマイナスであることなど、一定以上の学識を有する人間であれば感覚として当然の共通認識だったのだ。その『自明の理』が覆されうるのは、『目先の利益や自分自身の一時的な感情を優先させる人間』が存在するという事実に由来する。
ここで俺の個人的な見解を差し挟むなら、一時の感情による平和主張は『両刃の剣』になりかねない。緊急事態が切迫している時にこそ冷静になることが、問題解決の端緒を開くはずだ。
ともかく、その数学者は『世界中の可能な限り多くの人々が平等な教育の機会を与えられること』が平和の実現のための必須事項であると考えた。そして、Einsの開発を計画し実行したのである。
まぁ、彼は他にも色々な事業を行っていて、中には『銃やミサイルなどの兵器を使用するためには彼の自説を理解している必要が有る』なんていう目茶苦茶なシステムまで存在するのだけれど。その話は今は置いておこう。
差し当たって俺が説明したいのは、その人物こそが、他ならぬ丹生の祖父であるということだ。