1 オーガニック・ジュエル (14)
俺はバイク(細いタイヤとフレームのペダル付き電動式二輪車)にまたがって、家路に就く。中高年の人は、こういうバイクの電動タイプでなく人力のみのものを『自転車』と呼ぶことが多いのだが、聞くたびに首を傾げてしまう。あれのどこが自転なのだろうか。自分で運転するからか。それなら自分で運転操作を行う自動車は『自転車』には含まれないのか。謎は深まるばかりである。昔の人の感性が解らない。
丹生に言われるまでもなく、人によって価値観が違うことは俺だって知っている。百年前の人々となれば尚更だろう。ただ、『人によって価値観が違うことを許容されなかった世界』を想像するのは難しかった。
二十二世紀現在の日本では、医学的な知識は求めさえすれば誰でも得ることができる。医学における性的領域に関しても同様で、知りたいことが有れば調べれば済む場合が多い。ただし、身体的特性に関わる『平均値』だとか『望ましい一般的な数』だとかいったデータは可能な限り避けられていて、個別の具体例や対処法が専門家によって大量に開示されている(内容から個人を特定できない例に限られるが)。専門のシステムにアクセスして知りたい内容をキーワードとして検索すれば、そのキーワードに関する話題の件数と実際にどういう人がいるのかを調べることができる。検索した本人の個人情報が外部に漏れることは無い。無関係に生きていける人なんていないだろう領域の話だから、大抵の人は自主的に学習している。
そんなふうに誰でも知識は得られる状態だから、性的な関係を持っているパートナーがいるのなら、その相手である人物と話し合えば殆どの問題は解決に向かう。解決しない問題は医師などの専門家に相談すればいい。
丹生が話していた百年前の世界では、性的な領域に関する知識を得ることは難しかったのだろうか。そうでもなければ成立しない状況であるように思える。
携帯端末の着信音が鳴った。
俺は端末を取り出す。最低限の機能にしか対応していない手の平サイズの機械だが、青磁さんから貰った支給品で、リトルパールの深さ程度であれば水圧に耐えられるという大層に高価な代物である。(裏柳家の財力が一体どのくらいなのか、俺も全容は知らない。)
画面に表示された『苅安』という文字を確認する。
苅安は俺がリトルパールに通い始める前に、よく一緒に馬鹿なことをしていた友人というか仲間というか、知り合いの一人である。俺がここに来て、あの男は(当たり前だけど)都市に留まっているから、物理的な距離は遠くなったし顔を合わせる機会もまず無くなった。
彼は日本各地に未だ残っている原子力発電所のいずれかに勤務することを希望している。
原子力発電施設に勤務して実作業を行うことができるのは、優れた能力を有するエリート層である。宇宙飛行士ほど難関ではないが、労働環境にも労働内容にも共通する部分が有って、幼少期の子供などにとっては憧れの仕事の一つだ。
施設の重要なエリアに近付くほど作業着は宇宙服に似ていくし、繊細な機械を遠隔操作して施設の監視および管理を行うのは宇宙船内部での活動に似ている。
状況によっては自分がミスすれば多くの人の命に関わるという緊張感を仕事において好む者は多いし、自分たちの仕事が生み出すエネルギーが人々の豊かな生活を支えているという実感は、やり甲斐としては至上のものだろう。
巨大ロボットとは云わないまでも、防護服を兼用した強化スーツの中に入って高度な技術を要する作業に熱中できるなんてロマンに溢れている、と苅安は語っていた。
そんな夢を持っていても、能力不足のままに施設の書類仕事にしか携われずに退職を迎えるとか、施設外の『非居住地域』での一般的な生産業務(農業など。万一のことを考えて、基本的には非居住地域内で生産された農作物は非居住地域内で消費される)や流通業務で一生を終えるという人は数知れないけれど、苅安なら平気な顔でエリートコースを歩んでいきそうだ。
まるで蝉の声のように鳴り続ける電子音を聞きながら道沿いの木陰にバイクを停め、俺は通話に出た。
「苅安か」
「例の件は調べたか?群崎。」
苅安は俺のことを苗字で群崎と呼ぶ。
俺は丹生の言葉を思い出した。
これから話すことは誰にも他言しないでいてくれるか?藍。
彼女の声を心中で反芻して、俺は口を開いた。
「知り合いにその話をしたんだけど」
「話をしたって、どのくらいだ?」
「妙に成績優秀な七歳の子供がいるっていう世間話だよ。俺が概略を話している間、そいつはふむふむと聞いて、すぐさま、とんでもないことを言い出した。同じ遺伝情報を持つクローンが十人いて、Einsのアカウントを共有しているに違いない、と。」
喋っている俺が信じられないような話だけど。
「なんじゃそりゃ。突拍子も無いな。」
「だろう?まぁそんな感じで、これといった進展は無いよ。」
「ふうん。じゃあ、また何か有ったら連絡する。」
「ああ。」
俺と苅安は音声通話を終了した。
やっぱり信じないよなぁ、クローンなんて。
再び電動二輪車に乗って俺は自宅を目指した。
海外の大金持ちが自分の息子のクローンを九人も誕生させているという報道を俺が目にしたのは、三日後のことだった。