1 オーガニック・ジュエル (13)
「君の気持ちは分かるよ、丹生。でも現在の日本では、たとえ医師であっても、性的領域に関する個人的見解を全ての人間に共通する普遍的なものとして絶対視する発言は禁止されている。」
誰にでもそれぞれ事情というのは有るものだ。そして医療従事者であっても、各個人が自分自身の先入観や固定観念から逃れるのは難しい。まさに丹生が言うような一世紀前の状態から人々が学習した結果であると云えるのだろう。
倫理学習過程にしても、定期的に医療関係者や各種の専門家で構成された機関によって精査され、必要に応じて改定が加えられている。
「その通りだ、藍。性的傾向は人によって違うし、相手によっても状況によっても変化する。関係の数だけ関係性が有る。別に僕だって、当事者の誰もが満足している状態に対して『暴力的だ』と目くじらを立てたいわけではない。例えば日本人は海苔は消化できるが牛乳で腹痛を起こす者が多いといったように、人種などの遺伝的要因によって体質が異なっているという可能性も有る。僕が言いたいのは、『関係の有り方はそれぞれだと公言することが許されなかった世界』がかつて存在したということだ。暴力的関係を正当化しようとしている場合は除くにしても、ちょっと信じられない話だとは思わないか?」
現在であっても、自分の性癖を普遍的で当たり前のものとして相手に暗黙裡に強要するほうが都合がいいという者はいるし、相手の性的傾向を寛大に受容することが愛だと考える者もいる。どうであれ基本的には本人もしくは本人同士の勝手だ。しかし、『本人たちの勝手だ』ということを公言できなかったというのか?
「確かにそれは信じられない。」
俺が答えると、丹生は椅子の背にもたれて腕を組んだ。
「まぁ、自分が幸福感を覚える瞬間に『自分以外の全ての人間も同じ状態において同じ幸福感を味わっているのだ』と錯覚する機能が脳には備わっているとも言われているから、案外それが原因だったのかもしれないな。さて、今の例から解っただろう。お前が理解できないような価値観の持ち主は存在するんだ。」
「今の話を例に出す必要性は無かったよな?」
丹生は俺の質問を無視した。
「そんなわけで、『七歳児』がEinsの設問に殆ど常に回答し続けているのは、世界各国に十人前後の『七歳児』のクローンが存在して、それぞれの異なる活動時間において学習を行っているからだというのが僕の見解だ。」
「俺は指の生体移植を支持するよ。」
「十人も移植適合者が見つかったとして、その事業だか活動だかに協力する人物ばかりとは限らないだろう」
「薬物投与で免疫力を下げて移植する。そうすれば適合者の割合が増加する。」
「発癌リスクが上昇するぞ。」
鼻で笑って腕組みを解いた丹生は、テーブルの上に身を乗り出した。
「じゃあ賭けよう。僕が言ったクローン説が正しければ、お前は僕の要求に従う。どうだ?」
「要求は一つ?」
「一つだ。」
「いいよ、乗った。でも俺が正しかったときには、丹生。」
俺は丹生の顔を覗き込んだ。
「君は俺の要求を一つ、実現させてくれなきゃいけないよ。」
丹生は瞬きをして、数秒の間を置いてから頷いた。
予定より随分と長くなってしまった(丹生の趣味話のせいだ。そんな会話はネット上で同性とすればいいのに)。俺は椅子から立ち上がって身支度を始める。ウエットスーツを着て酸素ボンベを背負って、ゴーグルを装着する。
玄関脇に纏めてあった少量の生活廃棄物を手に取って、ドアの把手を回した。
「じゃあ丹生、次は四日後に来るよ。」
「ああ。賭けの結果が楽しみだな」
出入り口の二重ドアから外(海中)に出て、俺はリトルパールを後にする。
この巨大真珠を『リトルパール』と名付けたのは丹生の祖父にして天才数学者の裏柳藤吉郎氏である。皮肉なのか冗談なのかは不明だが、名付け主の性格をよく表していると思う。
リトルパールには海水から酸素を取り出してシェルター内に新鮮な空気を送り込む換気装置だとか、予備の空気タンクだとか、温度調節用の空調に太陽光発電装置にと、ありとあらゆるライフラインが収蔵されている。ここだけの話、少量の有機ゴミ程度なら乾燥させて魚の餌になっている。
生活排水の処理に関しては随分と扱いが難しかったらしく(処理装置は作れるが下水処理の公的許可が下りない)、結局リトルパールは公式的には浄水施設として登録されることになったらしい。居住用のシェルターではなく。
丹生は施設の管理者ということになっている。さしずめ灯台守りといったところか。まぁ他にメンテナンス要員が頻繁にリトルパールを訪れているみたいだから、丹生には仕事なんて無いだろうけれど。
彼女が俺を見送ってくれているのかどうかは外からは確認できない。
リトルパールは海の底に、じっと白く佇んでいる。
俺は水中で身を翻して、海面に向かって泳ぎ始めた。