ベッド、泥、蛍、公園
身体が上手く動かない。
金縛りにあった、というわけではない。
何かが上に乗っている重みや、圧迫感は感じない。
ただ、全身がぼんやりとしていて、動かすのが億劫で。
幸福と絶望がないまぜになったような感情で頭がしびれている。
焦点の合わない目で、仰向けの姿勢に促されるまま天井を見る。
変哲もない白い壁紙。電気の落ちた照明。
何を見るともなしに視線が揺れる。
カーテンレールから垂れ下がる飾りっ気のない紺色の布。
白いレース地の端が風に靡いた。
窓の外がちらりと覗き込む。
暗い夜。白い星が清かに光っている。
夢を見ていた。
真っ先に視界に飛び込んで来たのは、色だった。
白色。
痛みさえ感じさせる眩しさに慣れると、次第にそれが蛍光灯の灯りであると分かる。
寝転んでそれを見上げていることも。
肘をついて起き上がった。皮膚に触れる感覚はひやりと硬い。
半袖を着ていて、床の上で眠っていたようだ。剥き出しの手足が冷たく、背中が痛い。
半身を起こして、周囲を見回した。
病院。
パッと見て感じた印象はそれだった。
規則正しく、等間隔に並んだ無数の寝台。
その真ん中で、何故かベッドは使わずに眠っていたのだった。
ピンと張ったシーツ。
清潔そうな白い掛け布団。枕。
綺麗にメイキングされており、眠っていたものの痕跡が伺えない。
辺りには誰もいなかった。
見渡す限りただひたすら、ベッド、ベッド、ベッド。
どれもこれもぺったんこだった。
ぺたり、ぺたり。
裸足の足は床に張り付いて間抜けな音を立てる。
誰もおらず、音がしないせいで、やたらと大きく響くのだ。
視線はその間も忙しなくベッドの上を彷徨っている。
私は何かを探している。
それが何かは分からない。
ただ、見つからないという焦燥だけが、心を粟立たせた。
ぺたり、べちょり、べちょり。
足裏に感じていた感覚が、硬いものから柔らかなものに変わる。
奇妙な足音に俯けば、足首まで冷たい泥に浸かっていた。
振り向くと、辺りは薄暗くなっていた。
ただ、泥の中に点々と、足形が残っているのは分かる。
まるでずっと前から泥だったみたいに。
汚れない寝台が、船のように浮いていた。
あまりに真っ白なために、薄暗い空間の中だと、ぼんやり発光しているようにも見える。
それらの枕元から、無数の淡い光が飛び立つ。
ほんのりと色づいた、暖かな光。
私は逃げ出した。
前を向いて、泥に足を取られながら、走る。
けれど前方にも白い船は浮いていて、そこから蛍が飛び立って。
仕方がないので、目を瞑って走った。
どれだけ走っていたのだろう。
はっ、はっ、という自分の息遣いの音だけが聞こえるようになった。
目を開いた。
いつの間にか泥の平原を抜けていた。
リノリウムのひやりと硬い感触とも、泥の冷たく柔らかい感触とも違う。
ざらついた感覚に目を落とす。
アスファルトで舗装された道路の上に立っていた。
二本の白い足。
爪の間に泥が挟まったり、乾いた泥で汚れていたりはしていなかった。
振り向いた先には、白い月光が照らすアスファルトの黒い道。
うねうねと蛇行している。
あんな曲がりくねった道を、目をつぶりながら走り抜ける事ができたとはとても思えない。
気を取り直して前に向き直る。
街路樹に囲まれた四角い空間。
煉瓦で舗装された入り口。
銀の柵の向こうには砂地が広がっている。
公園。
やっぱり人はいない。
鉄棒も、滑り台も、ブランコも。
静かに眠っていた。
穏やかな気持ちで、公園に足を踏み入れた。
視界の隅でブランコが揺れる。
風の悪戯だろうと思うのに、思わずそちらに顔が向く。
ああ、私はあなたを探していたんだ。
ブランコを漕ぐ人影を見て唐突に悟る。
「———!」
私はあなたの名を呼んだ。
あなたは顔を上げてこちらを見た。
その顔を、表情を、もっと近くで、もっと確かに見たいのに——…
目の前は段々白くなっていくんだ。
「——! ——!」
何も見えない中で、私はあなたの名を呼び続けた。
頬にかかった髪がかきあげられる。
「——」
私はあなたの白くて細い指を視て、耳元で囁く声を聴いた。
背中に回された腕。
ぶつかる胸と胸。
ゆっくりと頭を撫でられる。
何かにすっぽりと包み込まれた感覚。
忘れていた安心感。
ずっと冷たかった手と足に温もりが戻ってくる。
身体が上手く動かない。
金縛りにあった、というわけではない。
何かが上に乗っている重みや、圧迫感は感じない。
ただ、全身がぼんやりとしていて、動かすのが億劫で。
幸福と絶望がないまぜになったような感情で頭がしびれている。
焦点の合わない目で、仰向けの姿勢に促されるまま天井を見る。
変哲もない白い壁紙。電気の落ちた照明。
何を見るともなしに視線が揺れる。
カーテンレールから垂れ下がる飾りっ気のない紺色の布。
白いレース地の端が風に靡いた。
窓の外がちらりと覗き込む。
暗い夜。白い星が清かに光っている。