車窓
車内に色は無い。
窓の外を流れる景色だけが鮮やかだった。沢山の音に溢れているが、私にとって意味のあるものは無く、それらはただの騒音だった。
十年振りの帰郷だった。
働き詰めの毎日。父の訃報が無ければこれからもずっと帰ることは無かっただろう。
窓ガラスに映る自分を見る。いつの間にか老け込んだその姿は、ほかの乗客と同じ灰色をしていた。
外の風景を眺める。一定のリズムを刻む確かな振動を覚えながら、一瞬前の映像を忘れていく。
ふと、前髪を風が揺らした。
出処を探すと、向かいの席の親子が窓を開けて外を見ていた。小学生くらいの娘が、甲高い声で早口に喋っている。聞くつもりは無かったが、距離が近いこともあって、親子の会話はほとんど聞こえてしまっていた。
旅行、らしい。
「連休を使っておばあちゃんの家に遊びに行く」ということのようだ。
それを聞いて、その日が休日であると思い至る。突然の悲報は私を混乱させ、毎日着ているスーツは世間では今日が祝日だという事実を忘れさせていた。
「あ! 海だよ!」
窓の外に向かって少女が叫ぶ。カーブに差し掛かったのか、車体が傾く。排気ガスの匂いに混じって、微かに磯の香りが私の鼻にも届いた。
セピア色の記憶が蘇る。自分が少年だった頃、父親と一緒に旅行に出た時の想い出。私も同じように、座席に膝立ちになって海を呼んだのだった。
途端に、言いようのない熱が鼻の奥から湧き出した。呼吸が出来ない。上体をくの字に曲げて耐える。
「おじさん。大丈夫?」
顔を上げると、先刻の少女が心配そうに覗き込んでいた。
大丈夫だ。と、言おうとして、私は自分が泣いている事に気付いた。私は羞恥に目を逸らし、何ともないと手を振った。しかし、その手には優しい温もりと共に一枚のハンカチを握らされていた。
私は声を殺して泣いた。
次の駅で降りる。
車内には沢山の音が溢れている。老夫婦の静かな会話。車体の軋む音。若者の騒がしくも瑞々しい笑い声。車内放送のアナウンス。旅行中の親子の歓声。
電車の中は鮮やかだった。
詩のような小説が書きたかったのです。