「世界の終わりに」:彼の場合
短編小説「世界の終わりに」の物語の、「彼」の視点で書いた作品です。
本編で不足していた部分を補完する意味で書き上げました。
そのため、本作品をお読みになる場合は、先に「世界の終わりに」を読了されていることを推奨致します。
彼女は、世界を救うために、存在する。
でも、彼女は、その『扉』でしかない。
『鍵』である、僕がいなければ、世界は救済されない。
この世界に、彼女が生まれた時、同時に、彼女は不完全になった。
人間の器に入ったから。
だから、彼女の不足している機能を補うのが、僕の役割。
でも、僕は、単独では、世界に存在出来ない。
なぜなら。
僕は、彼女の、いや、『扉』のコピー。
不完全なクローン。
だから。
僕は、『彼』の中に、封じ込められた。
その時が来るまで。
***
救済因子。
これを発見し、彼女が生み出された時、研究者たちは、驚喜した。
世界の因果律を、自らの手で変える事が出来る、大発見だからだ。
神様という概念を、証明できた訳だ。
可能性の数だけ存在する、数多ある未来の世界。
それをコントロール出来る。
素晴らしい。
でも、僕には関係ない。
僕は、人間である『彼』の中に封じ込められた存在だ。
基本的に、僕が、積極的に世界や『彼』や、『扉』である彼女の行動に、干渉する事はない。
出来ない、と言った方が正しい。
僕は、『彼』と言う器に封じられ、『彼』を通してしか、世界を視る事が出来ない。
たまに、『彼』が僕の『力』の一部を使う事があったが、それくらいは、赦す。
何も分かっていない『彼』は、初めのうちは、面白がって、その『力』を使っていたが、ある時以来、自ら、その『力』の行使を拒否した。
僕が、暴走したから。
常人には理解しがたいその『力』は、何人たりとも、抑える事が出来ない。
破壊的な、力。
全てを、砕く、力。
僕の、ほんの一部に過ぎないが、それでも、人間社会への適用の妨げになるのは、明白だ。
人間は、いつだって、自分たちの理解が及ばない未知の能力を持つもの──異質なモノ──を排除して来た。
宗教だってそう。
政治も、そう。
いじめだって、そうだ。
自分たちと違うから、排除する。
多数が、少数を排斥する。
シンプルだ。
でも、救いがたい。
でも、救わなければならない。
それが、僕の、存在理由だからだ。
***
僕の宿主である『彼』が、小学四年生の時だ。
一緒にいた『扉』である彼女は、クラスメイトから、ひどいいじめを受けていた。
クラスメイトたちは、直観的に自分たちと違う存在なんだ、と本能で気付いていたのだろう。
上履きに画鋲を入れられたり。
机の上に、落書きがしてあったり。
とにかく、ここからいなくなって欲しい。
そうとしか思えない行動だった。
僕から見ても、それは幼稚で、ひどい事だった。
『扉』である事以外、何の能力も持たない彼女は、それをはね返す事は出来なかった。
僕は、『力』があるので、自分を、宿主を守る事は容易だった。
『彼』は、研究所で創り出された時に、『鍵』である僕を内包する事と同時に、彼女を守る、という行動を、刷り込まれている。
だから、その後に取った『彼』の行動は、正しい。
その日の放課後、彼女は、クラスの女子から呼び出された。
僕──『彼』は、こっそりと、後をつけた。
彼女を守らなくてはいけないからだ。
「あんた、なんで学校に来てんのよ」
リーダ格らしい、大柄な女子が、ずい、と前に出る。
どうやら、昨日「もう、あんたは学校に来ないでよね」と言った事を引きずっているようだ。
彼女は、学校を、決して休まない。
まるで、それが義務(小学校は義務教育なのだから、別に変な事ではない)であるかのように、頑なに、休みたがらない。
その理由は、僕は知っている──『彼』は分かっていないが。
彼女には、居場所がなかった。
帰れば、施設の監視の目に晒され、気を休める暇もなく検査される。
唯一心を許せるのが、『彼』だった。
だから、できる限り、『彼』と一緒に行動する事を、つまり学校に通う事を、彼女は選択したに過ぎない。
シンプルだ。
選択肢が、一つしかない。
それに、さすがに施設の人間も、学校までは監視しきれない。
毎日が授業参観、と言う訳にはいかないし。
「あたしが昨日言った事、忘れたの?」
その問いに、彼女は、平静を保ったまま、答えた。
「忘れてない」
「なら、なんで、今日学校に来たの? 迷惑なのよ、あなたがいると」
なんでここまで言い切れるのか、隠れて聞いている僕には、理解出来ない。
気にしなければ良いじゃないか。
知らないふりをすれば、何の問題もない。
答えは、シンプルだ。
なのに、その答えが、目の前にあるのに、わざわざ、突っかかって来るのだ。
「ムカつくわ、その態度」
どうも、呼び出されてからずっと、平静を保っている彼女の態度、言動が、癪に触ったようだ。
「学校に来ても、何も出来ないくせに。そのくせに、テストはいつも満点。優等生気取り?」
濡れ衣だ。
彼女がテストで満点だろうが、クラスの皆には関係ない。
たとえ0点でも、関係ない。
「何か言ったらどうなの!」
とうとう、キレた。
どうして、この世代の子供たちは、キレやすいのだろうか。
それでも、彼女は、黙って、平静を保っている。
後ろに控えていた男子の一人が、石を彼女に投げつける。
一発目は、外れ。
二発目も、外れ。
それでも、彼女は、微動だにしない。
逃げようとしない。
彼女は知っているのだろうか?
この世界の、あらゆる事象は、彼女を守る方向に働く──『扉』を守るために。
だから、少なくとも物理的に、彼女を傷つける事は出来ない。
でも、厄介な事に、人間の感情は、その想いは、時に、その力を押しのける事がある。
三発目が、彼女の頭に当たった。
人間の感情が、世界の防御を、砕いた。
その後は、もう、誰も、世界も、抑えられない。
次々と石つぶてが、彼女に命中する。
世界は、もう、彼女を守ってくれない。
そう思った瞬間。
『彼』の感情が、僕に流れ込む。
──止めろ!
──ぶつけるな僕にぶつけろ!
──彼女を傷つけるな!
それは、どす黒い感情。
怒りだ。
僕は、その凶暴な感情に逆らえなかった。
『鍵』である僕が、『彼』の感情に、飲み込まれた。
目の前が赤く染まり、何も考えられなくなった。
ただ、目に付いた物を掴んで投げた。
それが、ブランコだろうが、ジャングルジムだろうが、関係なかった。
次に僕が目にした光景は、何もかもがめちゃくちゃになった、校庭だった。
周りには、遊具の破片が散らばっている。
鉄製のジャングルジムのパイプがひしゃげていたり、ブランコのチェーンがばらばらに弾け散っていたり。
まるで、爆弾か何かが落ちたようだった。
『彼』は、ぼう然として、ただ、突っ立っていた。
僕の呼びかけは、届かない。
意識をなくしているかのようだ。
彼女が駆け寄ってくる。
その顔は、先ほどの平静な表情ではない。
焦り。
心配。
それらが綯い交ぜになったような表情だ。
「大丈夫?」
僕は、僕と『彼』は、大丈夫。
問題なのは、僕たち以外。
彼女は、僕の顔についた泥をハンカチで拭いながら、泣いていた。
『彼』は、まだ、自分を見失っている。
感情にまかせて暴走したその直後だ。脳のリミッタが外れても仕方がない。
彼女は、一呼吸つき、意を決したように、はっきりと、こう言った。
「約束して」
何を?
「もう、人前でその『力』を使わないで。お願い」
そうか、彼女は、『力』──僕を知っているのか。
彼女は、全てを知っていて、僕と『彼』の前以外では、世界を切り離しているのか。
彼女は、知っていて、僕を、『彼』を受け入れていたのか。
かけがいのない存在。
そう、なのか。
そう思った瞬間、彼女の中の『彼女』──『扉』が僕に干渉して来た。
──そうだ、彼女は、『私』を認識している。
──それなら、なぜ、平静でいられるんだ?
──理由は、シンプルだ。彼女は、君の宿主を好いている。
なるほど、確かにシンプルだ。
だから、平静でいられたんだ。
──ただ……
──ただ、何?
──君の宿主、『彼』の気持ちが分かっていないようだ。
──そう。
──教えて欲しい。今なら、君が表に出ている今なら、聞ける。今以外にない。
なんだ、そんな事か。
──『彼』は、彼女を好きだよ。
──そうか。
ありがとう。
『彼女』との対話は、それで終わった。
なんてシンプルな世界。
僕たちの関係は、全てシンプルだ。
これで僕の思考は、すっかり回復した。
でも『彼』は、まだ戻ってきていないようだ。
「約束だからね」
彼女は、泥だらけの僕を見て、そう言い放った。
「もう、人前で『力』を使わない。良いわね?」
彼女が、彼女なりの強面で、僕を、『彼』を睨む。
『彼』がやっと、戻ってきた。
目の前に彼女がいる事を、初めて気が付いたような、ぼやっとした感情が、僕に流れ込んでくる。
──ほら、プリンセスの言葉だぞ、しゃんとしろよ。
僕は、『彼』に、答えを促した。
現状を理解した『彼』は、うな垂れ、小さく、うん、と答えた。
「聞こえない」
「うん」
「本当に約束よ?」
「うん」
彼女は、大きくため息をついた。
「本当に、あなたは、私がいないとダメなんだから」
さっきの、平静さがない。年相応の子供そのものだ。
「そんな事はないよ」
「いいえ!」
彼女はきっぱりと言いきった。
「もう……お願いだから、心配させないで。そのかわり、私も、約束する」
「何を?」
「私たちは、何かを約束したら、絶対、それを守る。どちらかが約束をしたら、それを破らない」
「うん」
「私も約束するから、あなたも約束して」
「うん、分かったよ」
彼女は、ここでやっと、笑顔になった。
「じゃ、帰りましょ」
「うん」
約束か。
彼女とその中にいる『彼女』が出した、僕たちを世界から守る術。
それなら、僕も、その約束を守ろう。
でも。
僕の中の──『彼』の中の僕の中の──何かが、うずく。
──でも、その約束は。
──君に危険が及んだ時は、保障しないよ。
僕は、君を守るためにいるんだから。
『彼』が約束した事は、僕には、関係ない。
僕の存在理由には影響しない。
それ以来、『彼』は僕に、蓋をした。
僕も、それを受け入れた。
彼女を守るために。
***
その日。
中学生になり、『彼』が彼女の誕生日だと思っている、その日。
彼女は、こっそりと、寮を抜け出した。
僕が気付かないと思っているのだろうか?
『彼女』も案外、抜けている。
──さて。
当の本人は、寝ている。
知らせないと。
このままでは、世界の救済が、発動しない。
だが。
──え?
『彼』が起きた。
──なぜだ?
『彼』は、彼女が施設の門を出たと同時に目を覚まし、あたふたと着替えながら、部屋を出た。
僕は、今、『彼』に干渉していない。
蓋は、開いていない。
何も、知らせていない。
なのに、『彼』は自力で、彼女の行動に気が付いた。
僕には理解出来ない。信じられない。
何が、『彼』に働きかけたのだろう?
僕が、力を貸さなければ、『彼』は、ただの中学生男子だ。
人間の空間認識、探知、何でも良いが、それは、たかが知れている。
目で見たもの。
耳で聞いたもの。
人間は、これらの感覚でしか、事象を感知出来ない。
分からなかった。
でも。
とにかく、シナリオ通りには進んでいる。
──考えたって分からないなら、それで良いさ。
その時が来れば、分かる。
僕は、思考を閉じた。
***
学校の屋上は、僕たち以外、誰もいなかった。
雲一つない、満月の夜空。
誰もいない屋上で、僕と彼女は、向き合っていた。
「君は、戻れ」
『彼女』が表に出ている。
もう、時間がない。
なのに、戻れ?
そんなのは、シナリオにない。
「ここにいれば、死んでしまうより悲しい事になる。だから……戻れ」
『彼女』が何を考えているのか、僕には、理解出来ない。
僕──『鍵』。
そして『彼女』──『扉』。
この二つなくして、世界の救済はあり得ない。
死んでしまうより悲しい事、なんて、まるで人間の感情じゃないか。
僕は、強制的に、『彼』がした蓋を押しのけて、意識を開放した。
手遅れになる前に。
「今なんだね?」
「そうだ『今』だ。これから起こる事には、本当は君が必要だ。……だが私ともう一人の『私』は、君を巻き込みたくない。だから、ここから、離れろ」
そうか、『彼女』も、『彼』を、好きなんだ。
だから、色んな小細工をして、『彼』を遠ざけて。
救済因子同士の関係を希薄にして、自分たちの絆を強めて。
自力で『扉』を開けようとしているのか。
「世界の救済は、私たちだけで充分だ」
目の前で、『彼女』が言った。
『鍵』である、僕を、受け入れない。
自分たちだけで、『扉』を開けようとしている。
それが、彼女が下した決断。
何のために?
存在理由までねじ曲げて、何の得があるんだ?
──そんなのは、全然、シンプルじゃない。
「それじゃあ、救済は、発動しないよ」
『鍵』である、僕は、言ってやった。
「君たちだけじゃ、扉は開かない。君たちが世界から消滅するだけだ」
「分かっている」
「いや、分かっていない」
時間は、午前0時、一分前。
「数多ある可能性の数だけ存在する、一瞬先の世界を救えるのは、僕と君がいなければ、ダメなんだ」
そう。僕の言っている事は、僕らの存在理由に照らし合わせても、正しい。
間違っていない。
間違っているのは、『彼女』たちだ。
「……じゃあ、どうしたら良いの?」
彼女の目に、涙が浮かぶ。
『彼女』の宿主である彼女が、表に現れた。
途端──
──く、何をする!
僕は、『彼』が、表に浮上しようとするのを、止められない。
一度だけ、体感した事がある。
『彼』が怒りに任せて、暴走した時だ。
でも、あの時のどす黒い感情ではない。
柔らかい。
穏やかな。
そして静かな感情。
しかし、あの時より、強い。
──これが、人間の感情か。
存在理由が、『彼女』たちの積み上げてきた仕掛けにより、希薄になっているとは言え、人間の感情による、結びつきが、強すぎる……!
僕は、彼に無理やり、蓋を被せられた。
「やっと、出てきてくれたね」
「うん」
「もう、君と話せないと思ったよ」
「ごめんね」
「君は悪くないよ。悪いとすれば、僕を創って、君にそんな決断をさせるよう仕向けた彼らが悪いんだ」
「でも、私とあなたは、世界を救済するためだけに、この世界に存在を許されたんだよ?」
「でも、彼らが世界の救済を試さなかったら、僕と君は、出会っていない。多分、存在すらしていない」
「でも、世界が書き換われば、私とあなたは、消滅する。そして、誰も、私たちを覚えていない」
「うん」
「だから、ここ──学校は、嫌いだった。クラスメイトとの関係も、いくら仲良くなっても、消えてしまうから」
「うん」
「それに気付いてからは、出来るだけ、関係を築かないように、振る舞って来たの。私が、いくら逆らっても、決められた事は、覆せない……それでも、出来るだけ、頑張った。学校では、あなたとの関係を、少しでも薄めようとした」
今この瞬間だけは、認めよう。
その仕掛けは、大成功だ。
でも、もう時間の問題だ。
僕が表層に出ていようがいまいが、『彼』と『彼女』たちが、この場にいて、その時が来れば、救済は発動する。
人間の感情が僕を封じたけれど、『彼』が彼女の行動に気付いて追ってきたその理由も、人間の感情だ。
──無駄な事だよ。
「そうすれば、あなたがいなくても、世界の救済が可能だと思った。『彼女』も、可能性の一つとして、それは可能だと思ってた」
──それは、今この瞬間の状況を見ても、可能だと言えるかい?
「でも、ダメだった。やっぱり、救済には、世界の救済には、あなたが必要だったの」
そう。それは、前提条件。
この時間、彼女が、十四歳になるこのその瞬間。
その時に、僕たちと『彼女』たちがいて、それで初めて救済が可能になる。
それが、彼らが作り上げた、シナリオ。
誰も逆らえない、世界が決めた事。
僕の、存在理由。
とても、シンプルな、理由。
「約束して欲しいの」
彼女は、泣きながら、そう言った。
約束?
「絶対、あなただけは、生きて。そして、私たちがいた事を、その証として、忘れないで」
──そんな!
僕から『彼』を切り離そうとしている。
約束と言う名の呪縛をかけて。
僕と『彼女』たちだけが消える?
『彼』は、生き残る?
そんな、それなら、僕は、何のためにここにいる?
今まで、全てを受け入れ、従ってきた僕を、本当の意味での『鍵』としてしか見ていない?
急に、思考が、狭まるのを感じた。
これは何だ?
──恐怖さ。
何?
なぜ、『彼』が、僕に干渉出来る?
『彼』の本質たる僕に対して、なぜ優位に立てる?
──知らないとでも、思っていたのか? あの時、暴走したあの時、君に蓋をしたのは、僕だ。ただ──
ただ、何だ?
──僕は、僕自身にも蓋をしたんだ。だから、今の今まで、何も出来なかった。
人間の感情が、世界を凌駕したとでも言うのか?
──きっかけは、そうさ。彼女が出てこなかったら、僕は君に、封殺されたままだったよ。
思考が、止まる。
何も、言葉が浮かんで来ない。
僕は『彼』に、負けたのか? ただの人間の感情に?
──君も、彼女を好きだと言っただろう?
確かに言った。
そして、
──好き、と言う感情はシンプルだ、とも言ったね。
それが。
それがどうした。
──僕は、彼女を好きだ。君は、違うのか?
……違わない。僕は、間違いなく、彼女と『彼女』を好きだ。好きなはずだ。
──それなら、なぜ恐怖を感じる?
それは──
──君は、彼女たちに、ただの『鍵』としてしか見られていない事、そして、そのまま消えてしまう事に、恐怖している。
そんな──
──認めろよ。
そんな──
──僕たちは、同じ『想い』だ。違うか?
違わない。
そう、違わない。
僕は、彼女を、『彼女』を、好きだ。
──そう。君は僕。僕は君だ。
そう。
僕は『彼』。
『彼』は僕だ。
「分かった、約束する。忘れないよ。絶対」
『彼』は、約束を受け入れた。
それなら。
僕も、約束を受け入れる。
彼女は、言葉を続ける。
「私は、いえ、私たちは、あなたが好き」
「僕たちも同じだよ──君が、好きだ」
僕たちは、同じ。
だから、僕が消えても、『彼』は生き残る。
どこか、心の端っこが、消えつつある。
柔らかい、静かな、暖かい何かに、融かされていく。
──ああ、これで。
世界の、救済が。
──始まるんだ。
世界の救済が、始まった。
***
僕が消えつつあるその時、『彼女』の思考が、飛び込んできた。
──君は、良いのか?
何が?
──生き残るのは、『彼』だけ。『私』たちは消える。それは、一体何を救う?
決まっている。
世界だ。
数多ある可能性の数だけ存在する未来の世界。
それを、救う。
──でも、『彼』と彼女は、救われない。
そう。救われない。
──おかしいだろう? 世界に人間として存在している彼らが救われない。
そう。おかしい。
──対して、『私』たちは、世界から独立している。救済の範疇にない。
そう。
『扉』と『鍵』でしかない。
救済因子なんて名前で縛られた、形のない存在。
──でも、こうして、会話している。
そうか。
そういう事か。
──そうだ。『私』たちは、この世界に、存在、している。
***
僕たちは、世界から消えつつある。
残された時間は、ほんのわずかだ。
でも。
僕と『彼女』なら、出来る。
『救済因子。この存在は、この世界から独立し、個別に存在している』
『僕と彼女の中にしか存在しない、世界を救う為の仕掛け』
『元々は、この世界に──いや、誰も認識出来ない存在だった』
僕と『彼女』は、それぞれの器から抜け出し、人間の形を取る。
そして、お互いが。
それぞれが。
手を握り合い、宙に浮かぶ。
『彼らは、救済因子を、人間の形に押し込めて、それで世界を救済しようとした』
『そう。でも、僕と彼女、つまり救済因子は、この世界では異質な、独立した存在』
『そして、私と君、つまり救済因子は、人間の感情や、この世界の都合で、宿主である人間と、融合出来ていない』
『それが、何を意味するか、分かるか?』
これから行う救済は、連中が作り上げたシナリオではない。
世界が決めた事ではない。
僕たちが、決めた事だ。
僕と『彼女』──つまり、『扉』と『鍵』──。
世界の救済には、これだけで充分だ。
シンプルだ。
これ以上のシンプルな答えはない。
『彼』らは、すぐに、理解したようだ。
『彼』が耐えきれず、口を開いた。
「それは、君たちだけが」
──そう。消えてしまうんだ。だけど、それが『扉』と『鍵』の存在理由だよ。
だから、僕たちだけが消える。
『彼』らの半身である、僕たちだけで救済を行う。
彼女の言った約束──生きる事、そして忘れない事──は、半分になる。
だが、『彼』らは、思いがけない可能性を見いだした。
「約束は、半分じゃだめなんだ」
「そう。半分だけ守るなんて、私たちが交わした約束じゃない」
『……なら、どうすれば良い』
僕と『彼女』は、戸惑った。
これ以上ないシンプルなやり方の他に、何がある?
「新しい、約束をする」
『新しい、約束』
「世界は救済されるけど、僕たちは、『君たち』の事を、絶対忘れない。僕と彼女は、それを背負って、生きていく。それが、新しい、約束だ」
「私たちは、私たちの半分を失う事になる。でも、それは、私たちがあなたたちを好きであることを、無くす事ではないと思う」
「そうでなければ、この気持ちを、失う事は、この気持ちが失われた世界なんて、僕らの世界じゃない。そうだろ?」
──世界は救済されるが、それは、僕たちも救われなければならない。
──なぜなら、
「僕たちも、この世界にいるのだから」
『ああ……そうだな、そうだ』
『君の言う通りだ。この世界に、私たちは、確かに存在していた』
そう。
僕たちは、この世界に存在していた。
世界の救済をするのなら、僕たちも、救われなければならない。
──『彼』らは、僕たちの半身。
そして、気持ちは、皆同じだ。
だから。
『彼』ら、約束を守る。
生きて。
そして、忘れない。
光が溢れ、そして、何もかもが、消えた。
***
世界は、救済された。
僕と『彼女』は、そろそろ、世界から消えなければならない。
だけど。
──顛末は、見届けないといけない。
そう。
書き換わったこの世界で、『彼』と彼女が、約束を守るかどうかを、見届けなければならない。
新しい世界では、彼女には、両親がいた。
そして、『彼』のいる学校へ転入する事になっていた。
これが、世界が出した答え。
『彼』と彼女は、そこで出会わなければならない。
──……多少の事は、世界も、目をつぶるだろう。
そうだね。
世界は、自分と、数多ある可能性の数だけ存在する世界の、全てを書き換えなければならない。
大忙しだ。
僕たちにかまっている暇はない。
***
彼女は、教室の前にいた。
始業五分前。
予鈴がなって、教室の中が、賑やかになる。
先生から、HRの初めに紹介するから、ちょっと廊下で待っているように、と言われていたのを、僕たちは、見ていた。
彼女は、忘れている?
──いや、忘れてはいない。ただ、きっかけが必要だ。
そうだね。
彼女は、どこか緊張している様子だ。
君から声を掛けてやってもらえるかな?
──分かった。
『彼女』は、そっと彼女に近づいた。
『大丈夫だ。君ならうまくやれる』
彼女が、驚いて振り返る。
今の彼女に、僕たちは見えない。
彼女は、ちょっと戸惑い、教室に向き直った。
そう。気のせいだって事にしておいて。
本令が鳴って、HRが始まった。
「ほらー席につけー」
先生の声が響く。
出欠が取られ、彼女の名前が呼ばれた。
彼女の体が、びくっと震える。
緊張が高まっているのが良く分かる。
分かり易い。
シンプルだ。
──そうだ、彼女は、本質はシンプルだ。
だから、僕は、彼女が好きだったんだ。
彼女は、ゆっくりと、緊張気味に、教室へ足を踏み入れた。
そして教壇に立つ。
ここだ。
──分かっている。
『彼女』は、もう、ほんの僅かにしか残っていない意識を、彼女に降り注ぐ。
そうだ、『彼』を見ろ。
そして、思い出せ。
『約束だ。思い出せ、その想いを』
『私たちは、何かを約束したら、絶対、それを守る。どちらかが約束をしたら、破らない』
彼女は、思い出した。
約束を。
忘れない事を。
僕たちがいた事を。
彼女は、僕たちに、目を向けた。
もう、僕たちは、消える。
だけど、彼女、いや──彼らの中に、ずっと、いつづける。
彼女の目は、こう言っていた。
世界は書き換わって、救われた。
そして、私たちも、救われた。
全ては、これから。
真新しい世界が、始まるんだ。
そうでしょ?
僕たちは、静かに、答えを返した。
『ああ、そうだ』
『うん、それで良い』
これで、良い?
──ああ、これで良い。
僕たちは、消える。
『彼』らは、消えない。
なんて、シンプルなんだ。
僕は、消え行く中で、そっと、呟いた。
~ 「世界の終わりに」:彼の場合 Fin ~