ひっど~い! 私、馬鹿じゃないですもん
俺は荒瀬先輩が窓から1階の廊下に入り込むのを確認すると、そのまま壁にもたれかかり、床に腰をつけてしまった。さすがに気が抜けてしまったのだ。
「せーんぱい♪ 無事でよかったです」
遠野は笑顔で俺を出迎えてくれた。それとは正反対の怒り顔が横にある。
聖だ。
聖は、右手を振り上げると、座っている俺の頬を張った。
「……なにすんだよ」
「あんまり心配させないでくれ。いくら私でも見ていないところで勝手なことをされたら手の施しようがない」
今度は泣きそうな顔になって俺を見下ろす聖。
俺は苦笑してしまった。こいつなりに俺のことを心配してくれていたのだろう。
俺は、右手を差し出した。
「悪かったな。だけど、俺には俺なりの勝算があってやってるんだよ」
聖は一度腕で顔を拭うと、いつもの不敵な表情になり、俺の手を取った。
「それが客観的正確さを持っているかはまるっきり別問題だがね」
俺は聖に引き上げられ、立ち上がった。
「あのう~」
展開についていけなかった遠野は少し腰を屈めて俺を見上げてくる。俺は遠野の小さい頭に手を置いた。
「さっきは助かったよ。おまえが合図送ってくれなかったらめちゃくちゃ遠回りすることなっていたからな。さんきゅー」
「あ、はい♪」
俺は遠野の頭を撫でた。遠野は髪が乱れるのもかまわず、くすぐったそうに俺のされるがままになっていた。
職員室はどこから集まったのかさらに人数が増えて賑やかだった。
50人近い人間が各々の集団を作っている。
これだけの人数がいると、職員室だけでは少々手狭に思えた。
その集団のひとつひとつを回っているのは大地だ。
「まったく、彼は抜け目ないな。自分のシンパを作るのに余念がない」
「大地自身にはそこまでの裏はないだろ。それに今はみんな不安だからな。あいつの社交性でみんな助かってるはずだよ」
「弱っているときに甘い言葉を囁くか。ふむ、これは判断を誤ったかな? 私も先ほどビンタではなくキスで出迎えるべきだったか」
「煙草臭いキスじゃ逆効果だろ」
俺は手近にある空いているイスに座った。と、そのとき遠野が2年らしき集団に呼ばれた。
「すいません、直以先輩。ちょっと行ってきますね。すぐ戻ってくるから勝手にどこか行ったりしないでくださいよ!」
遠野はそれだけ言うと小走りに2年の集団のところに向かった。足取りがどことなくおぼつかない。けっこうな疲労が溜まっているみたいだった。
「あいつら遠野の知り合いか?」
「……いや、彼女はよく働くからね。小間使いみたいに都合よく使役されているんだよ」
俺の嫌いなやつらだな。遠野は周りに気を使って奉仕しているのだろう。それを当然として顎で使っているわけだ。とにかく、遠野がそんなやつらの言う事を聞く必要はない。俺は、遠野を止めることにした。
俺は一度下を向いて大きく息を吐くと、勢いよく立ち上がろうとした。その肩を聖が押さえつける。
「梨子くん自身が好きでやっていることだ。私たちがとやかく言うことじゃないぞ。それより今は直以自身が休んでおけ」
俺は、少し考えて立ち上がるのをやめた。聖の俺の肩を抑える力が弱まった。
「なーおい♪」
その声の主は伊草だった。
伊草は俺に500ミリのペットボトルを放ってきた。俺はそれを片手で受け取る。それは、スポーツ飲料だった。おそらく購買から持ってきた大地たちの戦果だろう。
「お疲れ様。なんとか助かったわねん♪」
「ああ、お疲れ」
俺は伊草の持っているペットボトルに今渡されたペットボトルをぶつけた。
「……なあ直以」
聖がくぐもった声を放つ。
「別に大したことじゃないんだが……、いや本当にどうでもいい、取るに足らないことなんだぞ」
「なんだよ? いつになく歯切れが悪いな」
「……なにかあったのか?」
? 意味がわからない。
「なんで伊草麻里は君を名前で呼んでいる?」
「あ~、それは本人に聞いてみろ」
俺と聖は同時に伊草を見た。伊草はたじろいだが、開き直って大声を出した。
「べ、別にいいでしょ! 菅田より直以のほうが濁点がないぶん呼びやすいってだけよ!」
それだけ吐き捨てるように言うと、伊草は肩を怒らせて去っていた。なんだったんだ、いったい?
「ツンデレってやつか?」
その声は雄太だ。俺と雄太はハイタッチをしてそのまま手を握り合う。
「生き延びやがったか。相変わらずしぶといな」
「当たり前だ。この程度で死んでたまるかよ」
「しかし、俺はひどい目に遭ったぜ。聖のやつがおまえを見捨てたってんで俺を責めんだよ」
「それはご愁傷さま」
「まるっきり他人事じゃねえか!」
俺と雄太は笑いあった。やっと一息つけた感じだ。
「それで、そっちの首尾は?」
「ん、ああ。2階と3階の防火扉は閉めたんだけど、4階は無理だった。美術室と工作室で授業があったらしく、特別棟内のゾンビの数が多くてさ」
ちなみに、1階の教室棟は購買と学食で、そこは防火扉を閉める必要はなかった。
俺は、聖を見た。
「……まだ及第点には遠いな。とりあえず日没までになにかしらの対策を講じないと」
「日没?」
「うちの学校の電気はソーラーパネルによる太陽光発電だ。夜の電気供給は望めない」
「俺、軽音部で普通に日没後も学校残ってたけど電気ついてたぞ」
「そういうときは電力会社から電気を買っていたんだ。電話も通じない状態では発電所は稼動していないと考えたほうがいい。ああ、それと……」
聖は一度話を切った。
「太陽光発電の弱点はなんだと思う?」
「雲でっす!」
「おお、びっくりした!」
いつ来たのか遠野が聖に飛びついていた。遠野は聖にまとわり着いたまま俺に袋を差し出した。
「直以先輩お昼食べてないでしょ? これ食べてください」
袋の中には3つのパンが入っていた。そら豆パン、クリームパン、ハバネロカレーパンだ。
遠野は俺を上目遣いで見た。
「ごめんなさい。人気のあるやきそばパンとかはすぐなくなっちゃって……」
自分のせいではないだろうに心底申し訳なさそうにする遠野に俺は言った。
「いや、助かったよ。食いっぱぐれるところだった」
俺はそら豆パンを食べた。遠野は安心したように聖から離れた。
「それで、なんの話です?」
「ああ、そうだった。太陽光発電の弱点は雲だって話だ」
「雲が厚いと太陽光が届きませんからねえ」
「それじゃあ、明日雨が降ったら電気は使えないってことか?」
「いや。必ずしもそうとは限らんのだ」
聖は、俺の肩に置いていた手をどけ、肘を置いてきた。ウェーブのかかった髪が俺の頬をくすぐる。こいつ、髪まで煙草臭いな。
「実は、うちの学校は太陽光ともうひとつの発電で動いている。それは、水力発電だ」
「水力? 裏の川ですか?」
鈴宮学園の裏手には川が流れている。2級河川で土手もあるそこそこの大きさの川だ。
「昼間の太陽光発電で得た余剰電力を使って、川の水を屋上の給水塔までポンプで引き上げているんだよ。雨や曇りの日にその水を川に放流することで電気を得ているんだ。私に言わせれば大した電力を得られない、ないよりマシ程度の失敗作だがね」
「なんでそんなものを作ったんだ?」
「市の政策だよ。国に環境都市と認められれば予算を獲得できるからね。今ある自然を維持するだけで環境都市を標榜する他の都市よりは頑張っているといえるかもしれないが」
俺はイスの背もたれに寄りかかった。俺の後頭部に聖の胸が当たった。慌てて俺は前のめりになった。
「どおりで屋上に給水塔がいっぱいあったわけですねえ。それじゃああそこにあるのは川の水で飲料水にはならないってことですか?」
「トイレの浄水や洗濯には使えるから生活用水として無駄というわけではないがね」
俺と雄太、遠野は腕を組んで唸った。そんなものがあったとは……。
そこで気づく。
「んで、結局なんなんだ?」
「……ああ、そうだったな。君たちには説明が必要だったよな」
聖はわざとらしく俺の頭頂部にため息を吐きかけた。むかつく。
「だから! 夜に電気を使えないこともないが、それは電力も弱いし非常用だから使えないということだ!」
「結局使えないんじゃねえか」
「こいつ、回りくどいんだよな」
「なんか変な臭いしますしね」
「梨子くん……きみまで」
遠野はさっと雄太の影に隠れると舌を出した。
と、そこに遠野を呼ぶ声がした。今度は3年の連中だ。
「は~い、今いきマース! すみません、ちょっと行ってきますね」
遠野は疲れのため息をひとつ吐くと、小走りに3年の連中のところに向かった。
「ったく使えねえなあ。さっさとペットボトルもってこいよ!」
下劣たその声を聞いた瞬間俺は切れた。
「自分でやれ!!」
俺の大声で職員室中が黙った。遠野は大きな瞳をさらに大きく見開いて俺を見ている。聖と雄太は、やっちまったって顔で俺を見ていた。
俺は聖を突き飛ばすように立ち上がり、3年のところに歩いていった。
色々と溜まっていたってのも否定できない、なにに切れたのかもわからない、だが、こうなると俺は止まれない。
それを知っている雄太も聖も、そして大地も俺を止めなかった。
だが、遠野だけは慌てて俺に抱きついて止めた。
「直以先輩! 私はいいんです! 大丈夫ですから!」
「よくねえんだよ! なにがいいんだよ!」
「みんなひどい目にあって大変だったんです! 仕方ないんです!」
「そのみんなの中におまえだって入ってんだろうが!!」
「私は慣れてますから!」
俺の足は、止まった。遠野は荒い息を吐いて続けた。
「私は慣れてますから……大丈夫なんです」
俺は遠野が両親を失っていることを思い出した。
俺はそのとき初めて遠野の内面に触れた気がした。
友人の死に涙していた遠野。
その後すぐに明るく振舞おうとしていた遠野。
『慣れているから』と言って遠野は自分の感情を押し殺していた。
俺は、それに気づいてやれなかった……。
遠野は瞳に涙を浮かべて俺を見上げた。
「それに、みんなのためになにかできるって、すごいと思いませんか? 私はなんにもできないから、少しでもみんなの役に立てるのが嬉しいんです」
遠野は無理やり口元に笑みを浮かべてそう言った。俺も無理に笑みを浮かべて遠野の涙を拭ってやった。
「おまえ、馬鹿だろう」
「ひっど~い! 私、馬鹿じゃないですもん」
遠野は泣きながらくすくすと笑った。俺もつられて笑う。
ふと見ると、伊草が俺を見ていた。伊草は、俺と目が合うと慌てて視線を逸らした。
これで大団円といかないのが人間関係の面倒なところだ。
遠野は俺の怒りを納めてくれた。
だが、俺の怒りを向けられていた3年の連中は納まってくれなかった。
このままでは面子丸つぶれの三下だ。なにかしら自分たちをアピールできる行動を取らなければならない。そう考えているのが目に見えてわかった。
3年の連中は立ち上がろうとした。
そのときだった。
大きな影が立ち上がった。荒瀬先輩だ。
荒瀬先輩は面倒臭そうに言った。
「直以。ツラ貸せ」
それだけ言うと荒瀬先輩は職員室から出て行った。
職員室は、ようやくといった感じで雑音が戻ってきていた。3年の連中も荒瀬先輩には逆らえないのだろう、俺に嘲笑を浮かべるだけで俺に対してなんのリアクションもしてこなかった。
俺は、荒瀬先輩がゾンビを蹴散らすのを見ている。喧嘩になったら勝負にすらならないだろう。
せめて殺されないようにしよう、そう考えながら俺は職員室を出た。
「ったく、馬鹿野郎が。空気をぶち壊しやがって」
荒瀬先輩は職員室の出口で待っていた。なぜか苦笑を浮かべている。
「それで、どこ行くんですか?」
「……部活棟だ」
「部活棟?」
「使えるもんを調達に行くぞ」
俺は気の抜けかけた身体に気合を入れ直した。
「俺をしめるんじゃないんですか?」
「あん? なんで俺がそんなことしなけりゃなんないんだよ。それより、後ろの2人も来んのか?」
俺は、後ろを振り返った。そこには、雄太と遠野がいた。
「おまえら、なんでいるんだよ?」
雄太は小声で言った。
「おまえが荒瀬先輩に殺されたら俺が聖に殺されるだろ?」
遠野はやはり小声で言った。
「だって、直以先輩、殺されちゃうかと思ったんですもん」
俺も小声で言った。
「……腹の減っていない虎は大人しいんだよ」
「今はどうなんだ?」
「たぶん大丈夫だと思う」
「なにくっちゃべってんだ! 行くのか、行かないのか?」
「「行きます!」」
俺たち3人は声を揃えて言った。
と、ちょっと訂正させる必要がある。
「遠野はお留守番」
「なぜですか!?」
「部活棟にはゾンビがいるんだよ。危ないだろ」
遠野は眉間に皴を寄せてたこ口を作った。かわいいけどそんな顔しても駄目なものは駄目だ。
だが、荒瀬先輩は鶴の一声を発した。
「おめえ、遠野って言ったか?」
「はひいい!」
遠野は背筋を伸ばして答えた。
「おまえもついてこい」
「はひいいい♪」
「ちょっと、荒瀬先輩、なに勝手に決めてんですか!」
俺は荒瀬先輩の前に立った。
「なんだ、文句あんのか?」
「ありますよ。いくらあんたでも譲れないもんがこっちにはあるんだよ」
しばらく荒瀬先輩は俺を睨みつけた。俺は、突き飛ばされそうになる眼光を歯を食いしばって耐えた。
と、急に荒瀬先輩は無愛想な顔を崩し、俺に笑みを向けた。
そのまま俺と肩を組み、雄太や遠野に自分の表情が見えないように俺の額と自分の額をつけた。俺と荒瀬先輩は身長差がかなりあるので、ほぼ覆いかぶさられる感じだ。
「あいつはさっきの渦中にいたやつだぞ。職員室には居づらいだろうが」
「だけど……」
「それにあいつの顔を見ろ。疲労が浮かんでんだろ。職員室にいたら回りにこき使われて休まらねえんだよ。あいつはおまえの傍にいたほうが休めるんだ」
「だけど、部活棟にはゾンビがいます」
俺がそう言うと荒瀬先輩は俺の胸に大きな拳を当てた。
「おまえが守るんだよ」
荒瀬先輩は俺の胸を押して突き放した。
「本来だったらおまえが気付かなけりゃいけないことだからな」
荒瀬先輩は、話は終わりとばかりにひとり俺たちに背を向けて部活棟に向けて歩き出した。
「なに話してたんだ?」
「……いや、人生の教訓をちょっとな」
雄太は俺の言った意味がわからないようで頭の上に?を浮かべていた。
心地いい敗北感。
荒瀬宏。
年齢差でたったひとつ上なだけとは思えない人だ。
小癪なことに、この人は俺のことにも気を使い、職員室から連れ出してくれたのだろう。
俺は、どうやってこの人をへこましてやろうか考えて、頬を緩めた。
「あのう、直以先輩?」
遠野は、俺の袖をひっぱり、上目遣いで俺を窺っていた。俺は、遠野の腕を引いた。
「なにやってんだ、行くぞ、遠野、雄太!」
「! はい!」
「お、おう」
俺は、俺たちはひとり先を行く荒瀬先輩を急いで追いかけた。
タグに<環境>を追加しました。意味は環境思想や環境問題。それと、語源となった中国の城塞都市の、壁の内側です。