梨子ちゃんは、泣いてくれたの
生温かい夜風が頬を撫でた。
エアコンの利いた室内から水気を多量に含んだ屋上に俺と月読は出た。
そこには、この半年で慣れ親しんだ電気のない夜があった。
見上げれば満天の星とラウンドケーキを半分に切り分けたような月が浮かんでいる。
月読は俺の手を離すと、あやふやな闇の中を子鹿が跳ねるように進んだ。そのまま小さくなりかける背中を俺は慌てて小走りで追った。
月下、美女を追いかけるシチュエーションは残念ながら色気などはまったくなく、月読は見た目の憂いを払拭するように屋上を駆けた。
「そろそろ説明してくれませんかね。どこに行くんだよ」
俺が聞くと、月読は足を止めて俺に振り返った。
「どこにも行きませんよ。ここなら安全です。屋上は、月に一度観月の儀を執り行う場所なんで、私と、阿頼耶と阿摩羅しか入れないことになっているんです」
どこか愉悦を含んだ、鈴を転がすような声だった。
「……なんでそんなところに俺を連れてきたんですか?」
「あら、これでも私はあなたを助けたつもりだったのだけど? どうせまたなにかヤッカイゴトに巻き込まれたのでしょう?」
「またって……。ずいぶんと馴れ馴れしいね。初対面じゃないけど、言葉をかわすのは今が初めてだろ?」
俺が言葉を崩してそう言うと、月読はころころと笑った。なんかイメージが崩れるなあ。
「ごめんなさい、そんな気がしなかったから。だって、最近はずっとあなたの話ばっかり聞かされていたのよ?」
「梨子に、か? なにか悪口とか言ってないだろうな?」
「ええ。女の子から誘っているのにキスもしてくれないへタレだなんてことは聞いてないから」
「……あんた、存外腹黒いね。黙っていれば梨子の名誉は保たれたのに」
俺と月読、いや、今は月子だな、は顔を見合わせて笑った。
俺は籐を編んで作ったベンチに腰を下ろした。ベンチは俺の体重で少し軋んだ。
月子は、俺の正面に立ち、優雅に俺に頭を下げた。
「親友、遠野梨子を命がけで助けていただき感謝します。どうもありがとうございました」
「別に、礼を言われることじゃない」
月子は頭を上げると、堅苦しい挨拶は終わりとばかりに俺の隣に座った。
「でも、本当にありがとう。梨子ちゃんの傍にあなたがいてくれて、すごく安心したわ。今の梨子ちゃんはよく笑うようになった。昔はどこか無理して笑っているようなところがあったけど、今は本当に自然に笑ってくれるの。それは、きっとあなたのおかげ」
「それじゃあ俺も礼を言っておくよ。ありがとう」
「きっと、こんな機会がなければ、あなたとふたりだけで話すことなんてなかったでしょうね?」
「? なにが?」
「?? 今のお礼、ここに連れて来たことにでしょう?」
「……、ああ、そういえばそのことも礼を言うべきだったか」
「??? それじゃあ今私はなにに感謝されたの?」
「え~っと、くそ、言葉にすると恥ずかしいな。えっと、だから、梨子を思ってくれて、ありがとうってことだ」
それを聞くと、月子は目を細めて微笑を浮かべた。
「それこそ礼を言われることじゃないわ。私にとって、きっとあなたにとっても、梨子ちゃんは大切な人なんだから」
月子は、俺の大腿を枕にしてだらしなくベンチに寝そべった。
「ったく、イメージ崩れるなあ。初めて見たときは上品なお姫様って感じだったのに、台無しだ」
「本当は育ちが悪いのよ。だって、半年前まで養護施設で何10人もの子供の面倒を見てたのよ? 上品になんて気取ってられますか」
月子はため息をひとつ吐くと、寝返りを打ち、黒絹の髪で表情を隠した。
「それが、なんの間違いか信仰もしていない宗教の教祖様なんてやらされてるし……」
「お疲れ。大変だってのは理解できるけどな」
事実、月子はプライベートでも気の抜けない生活をしているのだろう。利害関係が絡まないとはいえ見ず知らずの俺に地を見せて愚痴るほどに。
唯一気の許せるはずの日光は悪いやつではないんだろうが、あいつは周りに気配りのできるやつではない。
そういう意味でも、気を許せて、かつ、周りを優先して行動する梨子は月子にとって貴重な存在なのかもしれない。
「……聞いていいかな。なんでそんなに梨子に拘るんだ? いくら親友だからとはいえ梨子への厚遇ぶりは普通じゃないだろ?」
月子は仰向けに寝転がり、切れ長の瞳で俺を見上げてきた。
「梨子ちゃんは……、恩人なのよ。彼女に言ったら否定するだろうけど」
「恩人? 飛行機事故の?」
「そう、物理的に命を助けてくれた、とかじゃないんだけど。彼女は……」
月子は、目を細め微笑を浮かべて、言った。
「梨子ちゃんは、泣いてくれたの」
「泣いた?」
「ええ。あの飛行機事故は誰にとっても悲劇だったわ。私も梨子ちゃんも、陽一も一度に両親を亡くして世界は一変してしまった。あまりに非現実的な現実に、私は、どうすればいいのかわからなかった」
月子はゆっくりと身体を起こした。
「頭では現状を理解できても心では理解できない。ううん、理解を拒否していた。どんどん胸の中をどす黒いなにかが浸食してきて、でも、どうすればいいのかわからなくて、心が壊れそうになったとき、梨子ちゃんが泣いてくれたの」
月子は俺に背中を向け、寄りかかってきた。表情を俺に見せないまま、月子は語り続けた。
「梨子ちゃんは涙を流して大声を上げて、私にしがみついてきたの。どうすればいいかわからない私の代わりに、泣いてくれたの。それで私は梨子ちゃんを慰める役を演じることができた。なんとか壊れないでいられたのよ」
俺は、苦笑してしまった。
「たぶん、梨子本人が聞いたら赤面して穴に隠れるだろうな」
「ええ。でも、きっと全部は隠れなくてお尻は見えているのよ」
俺と月子の笑い声が涼風に流され宵闇の中に消えていった。
「でも不思議。このことを誰かに話したのって初めてなのよ。陽一にすら話したことないのに。梨子ちゃん自身の思惑はどうあれ、私が彼女に助けられたのは事実、私が常に彼女の味方であるのは、私だけが知っていればいい。そう思っていたのに」
月子は俺に体重を預けてきた。それに合わせるように俺も月子に体重をかける。
月子は、半円の月を見上げて、言った。
「ねえ、直以さん。やっぱり、駄目?」
目的語の省略された言葉。だが、俺には、月子がなにを聞いているのかがはっきりわかった。
「……梨子はなんて言っているんだ?」
「『直以お兄ちゃんのいるところが私のいるところ。直以お兄ちゃんがここを出て行くのなら、私もそれに従う』。これを聞いたとき、正直、あなたに嫉妬したのよ。梨子ちゃんは、外よりも安全でいい暮らしのできる私のところより、あなたの傍にいたいといったのだから」
梨子は俺の傍にいる。それならどうすれば梨子は谷川村に留まるか。月子は、俺に谷川村にとどまってくれと言っているのだ。
「悪いけど、俺は鈴宮市に戻るよ。梨子も連れていく」
俺の返答を想像していたのか、月子はたいしたショックも見せず、俺から離れた。
「そう。なら、ひとつだけ約束して。梨子ちゃんを必ず守るって」
俺はベンチから立ち上がった。俺に続いて月子も立ち上がる。
安易な口約束。守れるかどうかもわからないことならば、簡単に誓うべきではない。
それでも俺は、月子に向き合って答えた。
「わかった、約束するよ。梨子のことは心配しなくていい。俺が守るから」
それを聞くと、月子は安心したように目を細めて微笑を浮かべた。
「私も、梨子ちゃんのために鈴宮市に電気を送れるように努力するから」
「いや、それはいい」
「? なぜ? あなたはそのために来たんじゃないの?」
「いや、そうなんだけど、さ。お節介承知で言わせてもらうけど、あまりでしゃばらないほうがいいよ。月読ってのは飾りなんだからさ」
月子は、少しだけ切れ長の瞳を見開いて、麗らかな笑い声をあげた。
「変な気の使い方するのね。でも大丈夫。私は自分が飾り物だってわかっているから」
「だけど、それをわかっていないやつもいる」
月子は笑いを収めて苦い顔を作った。
これこそが、谷川村にある亀裂だろう。悪い言い方をするなら、唯一つけ込める、隙だ。
月読という立場は谷川神道教において権威だ。だが、実際に谷川村を執行する機関に、月読の入り込む余地はない。
実質的な力のない月読が、権威によって干渉できる、そのダブルバインドが谷川村の亀裂なのだ。
そして、不幸にもその権威を利用しようというやつは存在するわけで、その最たる人物が月子の彼氏である日野陽一であるのは皮肉な話だった。
と、勢い良く扉が開かれた。屋上に来たのは阿頼耶と阿摩羅の美熟女コンビだった。
「月子、直以くん! こんなところにいたのね」
阿頼耶は俺たちに駆け寄って、目を細めて微笑を作った。……この人今、月子って言わなかったか?
阿摩羅は、姿勢を崩さずに楚々と俺たちに歩み寄り、言った。
「菅田さんは期待を裏切るのが得意のようですね。まさかここまで大事にしてくれるとは思いませんでしたよ」
「俺としては身にかかる火の粉を払っただけだけど。それにしてもあんたも酷いよね。期待させておいて行ってみたら別人が待ってるなんてさ」
阿摩羅は、苦笑を浮かべると俺に宣告した。
「ことここに至っては、あなたたちには谷川村からの退去を命じます。依存はありませんね」
「ああ。いい頃合だ。このまま居続けても話は進まなかったし、これからは日光に命を狙われかねないから」
阿摩羅は、ひとつ頷くと、付いてくるように俺に言った。
そして、たどり着いたのは、なんの変哲もない屋上の一角だった。
「ここになにが?」
「これを、開けてください」
言われて初めて気がついたそこには、少しだけ出っ張った筒丈の箱があった。上部には鉄網が張られていている。使われていないようだが、どうやら煙突のようだ。
俺は、言われた通り鉄網を持ち上げて外した。
「これは、緊急避難用の脱出口になります。この煙突を辿って行けば地下のボイラー室まで通じています。そこからは一本道で神殿の外まで出られます」
そういうところがあるから屋上は最高幹部意外は立ち入り禁止なんだろうけど、それにしても、そんな大切なところを俺なんかに教えちゃって大丈夫なのか?
「わかりました。えっと、梨子たちは?」
「すでに神殿から脱出させています。外に出てからしばらく行ったところに小川がありますから、そこから舟に乗ってください」
「……用意のいいことで。それじゃあ行きますよ。短い間ですがお世話になりました」
「あ、直以さん」
名前を呼ばれて、俺は月子に振り返った。
「ちょっとだけだけど、あなたとお話できてよかったわ。梨子ちゃんをよろしくお願いします」
「ああ。あんた、けっこうタイプだったよ。時間があったら口説いたんだけどね」
「なるほど、できないことを承知で言うなんて、梨子ちゃんが言うとおりヘタレね」
俺たちは、顔を見合わせて笑った。
と、月子の隣にいる阿頼耶を見た。目を細めて微笑を浮かべている。
ある疑念、俺は突拍子もないその考えを口に出すのはやめた。
月子と阿頼耶。どこが、というわけではないが、この2人は、似てるのだ。
ひょっとしたら血縁があるのかもしれない。
それならば、なんの縁もないはずの月子が月読を演じさせられているわけがわかるのだが。
だが、もしそうだとしても、今この場で答えてはくれないだろう。
だから、俺はその疑問を胸の内にしまった。
こうして、俺たちの谷川村バカンスは、大した利もないまま為し崩し的に終わったのだった。




