善意の押し付けほど迷惑なことはない
おかしな部屋だった。
床一面が柔らかいクッションで覆われており、壁は鏡張り。寝そべって戯れる下着姿の美男美女は酔っ払っているのか、あるいはおかしなクスリでもやっているのか、濁った瞳で俺を見てケタケタと笑い声を上げた。
「ぃよう、来たな」
アラブの王侯貴族のように美女を侍らせて俺に声をかけたのは男だった。
日野陽一、日光を自称する飛行機事故の生存者だ。
「ほら、こっちに来いよ」
日光がそう言うと、俺の側にいた美女がネグリジェ越しに透けた乳房を俺に押し付けて、腕を絡めてきた。俺はその腕を乱暴に払った。
待ち望んだピンクシチュエーション、今はその状況から逸脱していないはずなのに俺の心は自分でも驚くほど冷えていた。
「……なんだよ空気読めよ」
日光は自らに寄りかかる美女の大腿を撫でた。
「阿摩羅はどこだ? 俺、彼女に呼ばれて来たんだよ」
「いないよ。俺が阿摩羅を使っておまえをここに呼んだんだからな」
俺は回れ右をして部屋を出ようとした。が、できなかった。いつの間にか俺の背後にいたビキニパンツ一丁の角刈りマッチョが俺の肩を押さえていたからだ。
「男色が好みならそいつに相手させるぜ」
角刈りマッチョはその言葉に呼応するように俺の首筋を撫でてくる。全身を走る悪寒、俺は角刈りマッチョから離れるために一歩前に出た。結果、俺はその異様な部屋に入った。
床が柔らかいためバランスが取り辛い。俺は転んだが、痛みはなかった。この部屋自体がひとつのベッドになっているようだった。
俺は部屋を見渡した。電気はついていない。明かりは、小皿に盛られた香油に火をつけて各所に置かれているだけだ。鏡に反射した火の赤が部屋全体の退廃感を助長しているようだった。
……仕方ない。俺は胡坐をかき、日光に向かった。
「それで、なんだって? 俺に用があって呼んだんだろ?」
「ぃやあ、今日はご活躍だったみたいじゃないか。俺からも労ってやろうと思って」
「必要ないな。そんな義理もない」
「ぁのさあ。こっちはこれでも下手に出てやってるんだぜ。おまえもここで生きていくんなら俺と仲良くしておいたほうがいいんじゃないか?」
「? なんの話だ?」
「どうせ梨子をダシにしてここに居付こうとしているんだろ? そうできるように俺が協力してやるよ」
「随分勝手な話だな。そんな気はねえよ。俺も梨子も、な」
それを聞くと、日光はゲラゲラと笑い出した。どうでもいいことながら周りの追従笑いがうざい。
「マジで言ってるのか? ここを出て行って電気のない下等な生活に戻るって?」
「電気がないのを下等と言い切るのかよ」
「そうだろ? 電気が使えないなんて中世並みじゃないか」
「深い見識をお持ちで。確かに電気が使えなければ不便で下等な生活をすることになりますからね」
「そうだろう。原始人みたいな生活をしているのがいいわけがない」
「嫌味だよ、馬鹿」
俺のひと言で、部屋の空気が変わった。
学者気取りの教養人はえてして歴史を信奉し、そうでない人は現代を妄信する。昔から言われ続けている格言のひとつだ。
古きを温め新しきを知る。歴史を学ぶ大前提は、それが人の営みであるということだ。たとえ時代や文化が違おうとも、自分たち現代人と同じ人間のやったことを学ぼうというところに温故知新の意義がある。
だが、現代を妄信する連中は、生活水準の低かった昔は下等であり、見るべきところがないと一蹴する。
これは、そのまま歴史という時間軸から文化人類学という地域軸に当てはめることができる。
つまり、自分たちより生活水準の低い発展途上国や後進国の人間は下等であると言っているのだ。
酷い差別意識だ。特に、差別される側からしてみれば。
どんな生活を送っていようと、そこにいる人たちは必死に生きている。
鈴宮市で生活する俺たちは、ゾンビに囲まれて命を脅かされながらも、なんとか食べていけるように、生きていけるように必死になってやってきたのだ。
あるいは、日光はいいやつなのかもしれない。
自分が下手に出て、俺を労おうというのも本当だろう。今現在、俺なんかに政治的価値はなく、わざわざ気を使う必要はないからだ。
だから、こいつは100パーセントに近い善意で、自分がいいと思っている、正しいと思っていることを俺が喜ぶと思って提案しているのだろう。
だが、こいつは俺たちを、おそらくは差別意識と気付きもせずに、ひと言『下等である』と談じ切りやがった。
それは、俺を苛立たせるには十分のひと言だった。
「……おまえさあ。梨子の知り合いだからって調子に乗ってないか? そんなものが俺に通用すると思ってるのかよ?」
「生憎、ここに来てから劣等感を刺激されっ放しでさ。調子になんて乗ってる余裕はないよ。それも、梨子をダシにしてなんてさ」
「それじゃあなんでこの俺に舐めた口をきけるんだよ。他のやつらみたいに這い蹲って俺の関心を買うのが普通だろ?」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。苛立ちが頂点に達しつつある。これ以上の会話は無益であるばかりか有害だ。
「おいおい、これでも俺はおまえを立ててやってるんだぜ。梨子の知り合いだし、わざわざここにも招待している。これ以上俺を怒らせないほうがいいんじゃないか?」
「奇遇だな。俺もおまえを立ててやってるぜ。今すぐ殴りかかりたいのを必死で我慢しているんだから」
荒事には慣れていないのだろう、日光の瞳に怯えが走った。それとは逆に、後ろにいる角刈りマッチョが一歩俺に近づいてきた。
「お、俺になにかしてみろ。おまえを殺すだけじゃなくて、おまえの仲間も皆殺しにしてやるからな! こっちには自衛隊がいるんだ!」
……自衛隊?
こいつは、なにかあれば自衛隊に命令して俺たちを殺すだけの行動をさせることができる、またはできると信じ込んでいる。
こいつの自信は、なんなんだ?
俺は肩の力を抜き、純粋な疑問を口にした。
「おまえ、誰なんだ? 嫌味とかじゃなくてさ。そんなことができる権限があるとは思えないんだけど」
日光は、俺の質問に少しだけ気をよくしたのか、役に立たない舌をぺらぺらと動かした。
「そうか、俺が誰だか知らなかったんだな。それじゃあ仕方ないな。ただで許す気はないけど、寛大な心で……」
「うるせえよ。さっさと答えろ」
「……俺は日光、アマテラスだ。月読の兄だ!」
「兄? 月読、いや、高橋月子と、兄妹なのか?」
「ちょっと違うな。月子は、俺の女だよ」
そう言って日光は勝ち誇ったように鼻で笑った。
……なんだ、この敗北感は。
「月子は俺の命令には逆らえない。だから、俺がなにか言えば、おまえなんて明日には絞首刑だ!」
「なるほど、ね。虎の衣を借るってやつか」
温泉で尾崎1佐が言っていた、体制に亀裂を入れる可能性のある外的要因。それがこいつなんだろう。こいつのせいで、梨子は谷川村の一部で危険視されているってことか。
「て、てめえ!」
「なんだ、怒るってことは自覚はあるんだ」
俺は一歩日光に近づいた。が、半瞬後には真横に飛び退いた。背後から手を伸ばされたのだ。
振り返ると、そこには角刈りマッチョがいた。
角刈りマッチョは白い歯を輝かせて変なポージングを決めると、ぴくぴくと胸の筋肉を動かした。どこにどんな筋肉があるかを説明する、まるで図鑑だ。
ボディビルダーの筋肉は観賞用であり、大した力は出せないって話はよく聞く。それは、たぶん事実なんだろう。ただし、比較対照が速く走るスプリンターだったり、重いものを持ち上げる重量挙げの選手だった場合だ。
見せかけだろうがなんだろうが、その筋肉を得るためにトレーニングしている角刈りマッチョの力は、トレーニングをしていない俺より確実に強い。
捕まったら、それで終わりだ。
「死なない程度に叩きのめしたらこいつを好きにしていいぞ。褒美だ!」
偉そうにそうほざく日光は、すでに美男、そして美女の後ろに隠れてしまっていた。
角刈りマッチョは心なしか股間を膨らませて、俺に近づいてきた。俺は、それに合わせて後退した。
角刈りマッチョの足は一歩進む毎にソファに沈む。
その足が、深く沈んだとき、俺は跳ねた。
腰を落としてタックルしてくる角刈りマッチョを馬跳びの要領でかわす。瞬間、淫靡な部屋が急激に狭くなった。角刈りマッチョが壁の一面を覆っていた鏡に突っ込んで叩き割ったのだ。
鏡を割る破壊音、頭から血を流す角刈りマッチョ、悲鳴を上げる美男美女。
「……阿鼻叫喚、だな」
角刈りマッチョは頭から滴り落ちる血を拭きながら俺を睨んできた。とりあえず、頭頂部に刺さっている大きめの鏡片は抜いたほうがいいんじゃないか?
「お、おまえ。こんなことしてどうなるかわかってんだろうな!?」
「俺がなにしたって? 突っ込んでくる角刈りをかわしただけで、勝手に自滅したんだろ?」
まあ、実際はそんな言い訳が通るとも俺自身も思っていない。
意味を為さない咆哮をあげながら再びタックルしてくる角刈りマッチョをかわし、すれ違いざまに足をかける、が、さすがにゾンビを相手にするようにはいかない。角刈りマッチョはたたらを踏んでよろけたが倒れなかった。
振り返りざま、俺は足元にあった香油入りの皿を拾い、角刈りマッチョの顔面に叩き付けた。
熱いのか痛いのか、それともただ染みるだけなのかはわからないが、角刈りマッチョはその場にいる誰よりも甲高い悲鳴を上げて、目を押さえて悶え苦しんだ。
その隙に俺は退廃的な部屋を出た。それと前後して、館内にサイレンが鳴り響いた。間違いなく、俺に対してのものだろう。
「ったく、なんか大事になっちまったな」
さて、どうするかと考えていると、通路の先に女を見つけた。
月読、谷川神道教のトップだ。
自宅ゆえの安心か、サイレンが気になってひとりで部屋を出てしまったのだろう。俺にしてみれば千載一遇のチャンスだった。
俺は、こいつを人質にしてやろうと、月読に駆け寄った。
だが月読は、どこまで事情を知っているのか俺に臆することもなく、近づいた俺の手を握った。
「……こっちへ」
月読は軽い力で俺を引っ張っていった。
軽い混乱、俺は、月読の細くて意外にも少し荒れている手を払うことができずに、為すがまま誘導されていった。
月読と俺は小走りに廊下を駆け抜けた。
その先にあったものは、階段だ。先ほど上ってきたところとは違う。下り階段はなく、上にいく階段のみがあった。
おそらく衛兵だろう、その階段を守るように立っていた衛兵は月読を見ると、居住まいを正した。
「いいですね。私はこの先にひとりで行きました」
サイレンと、俺の手をしっかりと握っている月読に困惑している衛兵は、それでもしっかりと頷くと、俺たちを通してくれた。
他の場所とは違い、なにやら華美な装飾が施されている階段を上る。察するに、この階段とこの先は儀礼的ななにかがあるようだった。
「この先は?」
「屋上です」
月読は必要最低限のことのみを述べると、屋上へ続く扉を開いた。