放流
川原へと続くのどかな田舎道、散見されるゾンビは次第にその数を増やしていく。
「直以くん、見つけたらすぐに言ってね」
「わかってるよ」
俺は、リムジンの助手席から窓の外を見た。が、子供の姿はない。見えるのは、血色の悪いゾンビどもだった。
渓流を登ってきたゾンビは、どうやら2手に分かれているようだった。
1手は電波に導かれるように川原を抜けて放送局へ。もう1手は、そのまま川の上流へ。
川原に到着したリムジンは土手の上をゾンビに並行するように川を上流に向けて走っていく。
「夏海さん、この川の上流にはなにがあるの?」
「上流? ダムくらいしか思い浮かばないけど……」
「ゾンビは、ダムを目指している?」
放送局を目指すのはわかる。そうなるように電波で誘導しているからだ。だが、なぜダムを目指すのかはわからない。ダムには、ゾンビを誘うなにかがあるのか?
「直以くん!」
夏海さんに呼ばれて俺の思考は中断した。窓の外を見ると、ゾンビは激減していた。先頭集団を追い抜いたのだ。そして、視線の先にはビニールシートで作られた日避けのテントがあった。
「情報では子供とその家族はここで水遊びをしていたらしいの。子供が戻るとしたらここで、もしいないのなら私たちが見逃したか、どこか横道に逸れたのか、あるいは……」
すでにゾンビに喰われたか。
夏海さんは最後の言葉を飲み込み、リムジンを止めた。
ドアを開けると、むせるような暑気と耳を劈く蝉の鳴き声が周囲を包んだ。
「俺が行ってくるから夏海さんはここで待ってて。すぐに出発できるように」
「わかったわ。いてもいなくても、すぐに戻ってくるのよ。もう自衛隊が活動を開始する時間だし、ゾンビも迫ってる。それに、『あれ』がもうすぐ来る……」
後半の言葉を聞き逃して俺は無断で頷くと、土手を駆け下り、歩き辛い砂利道を小走りにテントに向かった。
そのテントに、子供はいた。
歳の頃は10歳くらいだろう子供は、汗を掻きながら蹲っていた。
「おい、大丈夫か?」
俺の呼びかけに子供はなんの反応もしなかった。
俺は、警戒しながら子供の肩に手をかけた。
子供が俺に反応しない理由はすぐにわかった。ヘッドホンをしていて気付かなかったのだ。そして、抱えるように持っていたのは、携帯ゲーム機だった。
このガキ、ゲームに夢中で俺に気付かなかったのだ。
俺は汗だくになっているガキの服を掴み、強引に立ち上がらせた。その段階になって初めてガキは俺の存在に気付いたらしく、ヘッドホンを取って俺を見上げた。
「なんだよ、兄ちゃん。いきなりなにすんだよ!」
「……ここは危険だ。すぐに退避するぞ」
俺は、吐き出したい100万言を押さえ込み、それだけを言った。だが、ガキは状況を理解していないのか、いや、していないのだろう、こんなことをほざいた。
「駄目だよ。今いいところなんだ」
ガキは再び座り込んで携帯ゲーム機に視線を落とした。
こんな季節のこんな場所のこんな状況で、だ。
「おまえ、ひょっとしてゲームしにここに戻ってきたのか?」
「うん。パパたち、酷いんだぜ。急にどこかに連れ出そうとしてさあ。でも、ゲーム機をここに忘れてきたからおれひとりだけここに戻ってきたんだ」
話は終わりとばかりに、ガキはヘッドホンを耳に当てようとした。俺は、それを取り上げる。
「いい加減にしろ。今はゲームどころじゃないんだよ」
ガキは、小馬鹿にしたような視線を俺に向けてきた。
「なんだよ、大人がカリカリしてさあ。カルシウムが足りてないんじゃない?」
俺は、ガキから携帯ゲーム機を取り上げた。
「なにすんだよ! 返せよ! パパに言いつけるぞ!」
ガキは俺に掴みかかってくるが、俺は携帯ゲーム機を返さなかった。ていうか、このまま叩き壊してやろうか、そんなことを考えていると、サイレンがなった。
― なんで関を作らないのか、すぐにわかると思うわ
川原で遊ぶときには注意事項がある。
― 阿頼耶、『あれ』のほうはどうだね?
ごみを持ち帰る? そんなことは最低限のマナーだ。
― 自衛隊は30分後、反撃に入る
それは、サイレンがなったら川から離れることだ。
― 『あれ』がもうすぐ来る……
そして、サイレンの意味するところ、それはひとつだった。
俺はサイレンの意味を悟り、戦慄した。
「ふっざけんなよ! ぼくのパパは高学歴のエリートなんだぞ!」
「そんなこと言ってる場合じゃ、っ痛え!」
俺は携帯ゲーム機を取り落とした。ガキが俺の腕に噛み付いたのだ。
ガキは即座に携帯ゲーム機を拾い上げると、テントを出た。が、そこで固まった。
ゾンビと鉢合わせしたのだ。
「っち!」
俺はガキの襟首を掴んで引っ張った。半瞬の差でガキの鼻はゾンビに齧られずに済んだ。
目前の危機にガキはようやく状況を理解したようで、震えながら携帯ゲーム機を落とした。
だが、こんなのはまだ序の口だ。本当の危機は、まさに今、迫ってきていた。
俺は、ゾンビの伸ばしてくる手を掴んで、引きながら足払いをした。
バランスの悪いゾンビはそれだけで顔から砂利に突っ込んだ。そのまま倒れたゾンビは放置し、落ちている携帯ゲーム機を拾い、ガキの胸元に押し付けた。
「しっかり持ってろ!」
ガキの反応はない。俺は、ガキを半ば抱えるようにしてテントを出た。
テントの周辺は、すでにゾンビで溢れていた。
……大丈夫だ。ゾンビはサイレンに気を取られて俺たちに気付いていない。音を立てないように、かつ迅速にここを離れるんだ。
そう心の中で自分に言い聞かせていると、俺の腕の中でガキの絶叫が響き渡った。
パニック状態になったのか、ガキは俺の腕の中で暴れた。近くにいたゾンビはその声に反応して俺たちに向かってきた。
さすがにこれ以上は付き合えない。俺は、空いている手でガキの頬を殴った。
「死にたくなかったら黙ってろ。これ以上騒ぐようなら置いてくぞ」
ガキは、嗚咽を漏らしながらも黙った。うん、それでいい。多少手遅れ感はあるけど。
俺は、ガキを両手に抱えると、ゾンビの脇を目掛けて駆けた。
走り辛い砂利道を、ゾンビを跳ね飛ばし、突き飛ばし、土手の上目指して走り抜ける。
ガキは、さすがに梨子よりは軽いがそれでも20~30キロはある。多少、息が切れはじめたところで、俺は転んだ。
振り返ると、ゾンビが俺の足首を掴んでいた。顎間接を外しまさに噛み付こうとしているゾンビの口に、俺は掴まれていない足を、革靴の踵から突っ込んだ。
前歯を叩き折る感触の後、万力で締め付けられるような痛みが走った。
「ッ痛えなあ!」
俺は、靴を咥え込んで離さないゾンビのこめかみに、落ちていた石を叩き付けた。一瞬緩んだ隙に足を引き抜き、さらにもう一発殴りつけることでゾンビは動かなくなった。
足を確認してみる。革靴はゾンビの唾液に塗れて変形していたが、なんとか破損はなかった。
ふと見ると、ガキはひとりで土手の上まで走っていた。夏海さんはガキを保護し、俺に手を振っている。
そこで、ついに鳴動が始まった。
サイレン、蝉の声、夏の日差し。
俺は、焼けた石に手を着くのもかまわず、四つん這いになって土手の上を目指した。
恥も外聞もない。もはや、一刻の猶予もない。
『あれ』が来る。
『水』が来る!
「邪魔だどけ!」
俺は近くにいるゾンビをぞんざいに押し退け、必死になって土手を目指した。数人のゾンビは俺を目掛けて向かってきたが、そんなものにかまってはいられなかった。
だが、ゾンビにしてみても俺の焦りなどはまるで関係ないのだろう。前から後から次々に湧き出してくる。
塞がれる道。
俺の足は、止まった。
ちょろりと、革靴が濡れた。いつの間にか増水した川の水が、俺の足元まで迫っていたのだ。
兆候は一瞬、上流からは怒涛の勢いで大水が迫ってきていた。
ダムの放流だ。
圧倒的水量、おそらくはフルゲートの放流だろう。
俺を無視して上流に向かって先行していたゾンビは、大水に一瞬で胸元まで浸かり、そのまま頭上まで呑まれて二度と浮上してこなかった。
なぜ渓谷に関を設けないのか?
上流にダムがあるから、これが明確な答えだろう。
もし堅牢な関を設けても大雨などでダムの放流を迫られたときに倒壊の危険がある。
また、わざわざそんなものを気付く必要もない。
一見防備の手薄な渓谷、今にして思えばそう見えるようにしているのだろう、そこから谷川村に攻め込んだとしても、ダムの放流による水計で押し流してしまえばいいのだ。
そう、今回のように。
「くそおお!」
俺は水を蹴って駆け出した。泳げないわけではないが、激流と大量のゾンビという障害物の中で助かる自信はない。水に呑まれたら終わりだ。
俺は目の前のゾンビを蹴り飛ばし、道を作った。だが、その後方から新たなゾンビが現れて土手の上への道を塞ぐ。
先に、進めない。
もたついている間に、後ろからのゾンビとの距離もだんだんと縮まっている。
いつの間にか、俺は囲まれていた。
意識してかしないでか、ゾンビは息を揃えて俺への包囲の輪を縮めていく。
耳もとで、ゾンビの生温かい吐息を感じた、そのときだった。
耳を劈く蝉の声も、危険を知らせるサイレンの音をも圧倒する爆音と共に、俺の前方のゾンビが弾け飛んだ。
まるで榴弾砲の着弾。
だが、着弾点のその場所にいたのは、煙を上げた砲弾ではなく、荒瀬先輩だった。
白馬に跨る王子さま、もとい、大型バイク(ナナハン)に跨る荒瀬先輩がそこにはいた。
荒瀬先輩は大きな弧を描く軌道でスピンしながら俺の背後のゾンビを跳ね飛ばした。
「早く乗れ」
俺はタンデムに飛び乗った。タイヤは川の水を巻き上げ、バイクは即座に走り出す。
「格好よすぎるでしょう。梨子はどうしたんです?」
「この、馬鹿が。俺の仕事の中にはおまえを守ることも入っているんだよ」
眼前のゾンビを轢き跳ね、バイクは土手を駆け上る。荒瀬先輩の蓬髪が、馬の鬣よろしく風に踊った。
そのままの勢いで土手の上部にたどり着いたとき、先ほどまで俺のいた場所は2メートル以上の水深に埋まってた。
……間一髪だった。正直、助かった。
荒瀬先輩はバイクを止めて降りると、スラックスのポケットに手を突っ込んだまま、今までは土手だった川縁に近づいた。
その先にいるのは、運良く水に呑まれなかったゾンビだ。
ゾンビは、威嚇のつもりなのか荒瀬先輩に黄ばんだ歯を剥き出した。が、荒瀬先輩は動じることもなく、ゾンビを蹴り上げた。ゾンビは、空中で後回りに3回転ほどして、水飛沫を上げて川の中に消えていった。 ……相変わらず滅茶苦茶な人だ。
「直以くん、大丈夫だった!?」
俺もバイクを降りると、夏海さんと携帯ゲーム機を両手に抱えたクソガキが俺の前に来た。ガキは夏海さんに背中を押されて1歩前に出た。
「ほら、お兄ちゃんに言うこと、あるでしょう?」
夏海さんに優しく諭されるも、ガキは不貞腐れ気味に俺から視線を逸らした。
俺は、苦笑してしまった。
「いいよ、別に。このガキに説教するのは俺の役目じゃないしね」
「よくわかってんじゃねえか」
そう言ったのは、目下数人のゾンビを(素手で)片付けた荒瀬先輩だった。
「荒瀬先輩、助かりましたよ。ありがとうございます」
荒瀬先輩は、俺の感謝の言葉にはなにも答えず、なぜか指をぼきぼきと鳴らした。
「おまえに説教する役が俺だってことは理解しているんだろうな?」
「……は? ガッ!?」
荒瀬先輩は、俺が反応する間もなく、俺の頭頂部に拳骨を落とした。
「ったく、俺の仕事を増やしやがって」
脳天を押さえて蹲る俺は、荒瀬先輩の言葉に反応できなかった。
……あと、荒瀬先輩を見る夏海さんの目が、ハートになっている件に関しては、気付かないことにしておいた。