優しさと甘さ
去年の一学期、それは平凡で退屈で、平和だった頃の話。
同じクラスだった俺と聖は、教室内ではつるむでもなく話すことも少なかった。
当時の俺は教室では部活に備えて寝て過ごすことが多かったし、起きているときもバスケ部の仲間と過ごすことが多かったからだ。
聖にしても、すでに変人ぶりが定着し始めていた頃で、ふらっと教室を抜け出しては授業をサボって屋上にいることが多かった。
そんな俺たちには、話す時間というものがあった。
水曜の放課後だ。
理由は、水曜日はバレー部が先に体育館を使うため、交代の時間までバスケ部員は暇だったからだ。
水曜最後の授業が終わると、一足先に聖は教室を出て、俺は一通りの用事を済ませて待ち合わせの場所に向かう。
そこは、図書室だった。
司書のおばさんを入れても片手の数ほどしかいない閑散とした図書室で、聖は本を読むでもなく窓際の席でたそがれていた。
俺は、聖に声をかけるでもなく向かいの席に腰を下ろすと本を読み始める。だが、読書は5分とかからずに邪魔されるのが常だった。
わざとらしい咳払い、俺が視線をあげると、煙草臭い女はわざとらしくこうのたまう。
「やあ、直以じゃないか。いたのか? まるで気付かなかったよ」
「……そうか。今、読書中だから邪魔すんな」
「ふ……ん、まあ、読書に熱中するのは悪いことではないが。それよりほら、なにか気付かないか?」
聖はそう言ってウェーブのかかった髪をさらりと流して見せた。
俺はその変化に気付いていたが、わざととぼけてみせた。
「なんだよ。なんかあったのか?」
「まったく、きみは本当に見る目がないな。実は、シャンプーを変えてみたんだ。気付かなかったか?」
いや、気付いていたって。だって、いつも付いているゴミが今日はないし、ご丁寧にも、いつもは絡まっている髪が櫛入れされて絡まってないし。
こいつ、煙草臭さが台無しにしているところはあるが、こうやっていつも身嗜みに気を使えるなら、それなりに悪くない外見してるんだよなあ。
「それで、おまえがシャンプーを変えたことと俺の読書の邪魔をすることに関連性はあるのか?」
「……いや、ないが」
俺は落ち込んで視線を落としている聖を見て苦笑すると、本を閉じた。
「それで、どういう心境の変化なんだ? 今までシャンプーのことなんてまるっきり興味なかっただろ」
聖は顔を輝かせて机から身を乗り出した。
「それがな! 実は母さんが……」
聖は喜々として話し始める。最初の頃は注意していた司書さんも最近では諦めて俺たちを放置するようになっていた。
「それで、直以。今週末に予定はあるかい?」
「あるに決まってるだろ。練習試合だよ」
「ああ、そうなのか……」
「先に言うけどおまえは来るなよ」
聖は言葉を詰まらせた。
以前、なんのつもりかは知らないが聖は試合中の体育館にふらっと訪れたことがあった。その途端、うちのチームは大崩れしたのだ。
牧原聖がなんでいるんだ?
ひょっとして、なんかやらかすんじゃないのか?
聖は問題児ではあったが、特段なにか大事をやらかすようなやつではない。それは、理論専攻で自分で行動するのは苦手としているという性格だからでもあるのだが。
だが、周りからはそうは思われていなかった。こいつがいるというだけでバスケ部の仲間は簡単に動揺してしまったのだ。
今回も、こいつが来ればおそらくそうなる。だから俺は釘を刺しておいたのだ。
「きみは本当にバスケバスケだな。プロになれるわけでもなし。しかもその身長だ。とても向いているとは思えないがね」
「うるせえよ」
俺は話は終わりとばかりに本を開いた。が、聖の話は終わらなかった。
「それで、どうなんだい? 練習試合には勝てそうかい?」
俺は、しばらく無言でいたが再び本を閉じて、机に突っ伏した。
「……周りが指示通りに動かないんだよ」
理由はいくつかある。その最たるものは、俺が1年だからだ。
中学3年から高校1年へ。
それは最高学年から最低学年へ戻ったということだ。
中学のときは学年という立場によって仲間や後輩を指示できた。それが、高校1年ではその権威がなくなったのだ。
たとえ正しかろうとも生意気な後輩の意見など聞いてやるものか。
周りはそう思い、当時の俺はそういった齟齬に悩んでいた。
だが、聖は俺の悩みを一刀両断した。
「周りが動かない? そんなことは当たり前だろう?」
「……言ってくれるじゃねえか」
「直以、井陘の戦いは知っているね?」
「あ~っと、楚漢戦争だっけか?」
「そう、韓信の背水の陣だ」
本来、背水の陣は退却が困難で不利になるとされている。だが、韓信はあえてそれをやり、大勝利した戦いが井陘の戦いだ。
「韓信はあえて背水の陣立てをすることで兵を死地に追いやり、勝利を得たのだよ」
「だからなんだ?」
「わからないかい? 人を動かすということは古今の名将が知恵を絞って命がけで達成することなのだよ。たかだか一学生が思い通りにいかないからって落ち込んだふりをするなど、まったくおこがましいと思わないかい?」
聖とのこの会話以来、俺は人は思い通りにならないものであり、その上で少しでも思い通りにできるように思慮してきた。
だが、その考えが根底から覆るような指揮を、俺は目前で見せられることになった。
「誘導員の指示に従って避難しなさい。落ち着いて対処すれば問題ない」
ゾンビ接近の一方が入ってから谷川神道教の動きは早かった。
ただちに関係部署に連絡、想定される戦場内での非戦闘員の誘導、自衛隊は即座に迎撃体制を整えて展開する。
マニュアルがあり、それに従っているのだろうが、それにしても素早い。よく訓練されている動きだ。
俺は、その様子を阿頼耶の傍らで見渡していた。
「夏海さん、ひょっとして、ゾンビが押し寄せてくるのってこれが初めてじゃないの?」
「ええ。実は月に一度、とは言わないまでも今までに何度もあることなの」
それで、か。俺は移動中のリムジンの中から大した混乱もなく列をなして歩く非戦闘員の姿を見た。 動揺が見られないのはすでに何度も経験しているから、ということなのだろう。
後部座席の対面に座り、なにやら無線機で連絡していた阿頼耶は、急に顔を上げた。
「……夏海、非戦闘員の退避はあとどれくらいかかる?」
「あと一時間ほどで完了予定です」
「遅い。誘導を急がせろ」
阿頼耶はそれだけ言うと、再び無線機に話し始める。
俺は夏海さんに聞いた。
「それで、ゾンビはどっから湧いてきたの?」
「渓谷を登ってきたみたい。山間の国道には要塞化した関があるけど、渓谷にはそれがないから」
「なんで? 渓谷にも関を作れば入ってこれないだろ?」
「10人単位なら迎撃できるだけの施設はあるんだけど。なんで関を作らないのか、すぐにわかると思うわ」
俺の疑問は答えられないまま、リムジンは走り続けた。
そして、行き着いたのは大きなアンテナのあるコンクリートの施設だった。なんでも普段は教団の放送局として使われているとのこと。ゾンビが大量に侵入した場合は指揮統率も兼ねてここから電波を飛ばし、ゾンビをここに集めるとのことだった。
「おや、菅田くんじゃないか。どうしたんだね?」
放送局で俺を出迎えてくれたのは、尾崎さん(親父のほう)だった。
「阿頼耶に無理いって連れてきてもらったんですよ。後学のためにね。それで、大丈夫なんですか?」
「なに、大した問題じゃない。非戦闘員の避難が完了次第自衛隊は反撃に移る。阿頼耶、『あれ』のほうはどうだね?」
「ああ。大丈夫だ。いつでもいける」
部外者には意味の理解できない話を聞きながら、俺は阿頼耶と尾崎1佐を観察した。
よく訓練された民衆に兵士。作りこまれたシステム。
そして、それを指揮するのは体系的な経験を積んだベテラン。
お山の大将レベルの俺のやり方とは成り立ちから違う完成された統率。
優秀な部隊は優秀な指揮官によって一糸乱れぬ部隊運動を展開していく。
「全部隊、目標地点までの後退を終えました」
「非戦闘員の避難誘導、完了しました」
いみじくもそんな報告が同時に聞こえてくる。
尾崎1佐と阿頼耶が顔を見合わせる。
まさに反撃を命じようとしたそのとき、2人に割って入るような報告が入った。
「……報告します。子供がひとり、戦場予定地に戻ったそうです」
水を刺すとはこのことだろう、阿頼耶は露骨に舌打ちし、尾崎1佐も表情にこそ出さなかったが拳を握りしめていた。
「親はなにをやっていたんだ」
「子供の後を追おうとしているところを我々が止めました。子供は、上流の川原を目指しているようです」
阿頼耶は苛立たしげに机を指で叩いた。
ゾンビの流入は刻一刻と続いている。反撃の時期を逃せばそれだけ対処が難しくなる。
組織としての決断を下すなら、子供は見捨ててこのまま反撃を開始するべきだろう。
美笑を浮かべる、あの人ならば躊躇うこともなく決断するはずだ。
それをできないところに阿頼耶の優しさと甘さがあった。
時間にすれば10秒にも満たない間だろうが、言葉を無くしたように黙っている阿頼耶に尾崎1佐が口を開いた。
「自衛隊から一部隊を割こう。すぐに救助に向かわせる」
「……いや、それは駄目だ。我々の目的はゾンビを撃退することであり、そのためには最善を尽くすべきだ」
「それでは子供は見捨てますかな?」
阿頼耶は眉間に皺を寄せて瞳を閉じた。
苦渋の決断。それを下そうとするのを、俺は遮った。
「俺が行くよ」
その場にいる全員の視線が俺に集まった。
「あんたらがシステムに組み込まれているから動けないんなら、その外にいる俺が行く」
「部外者が口を出すんじゃない!」
「そんなことを言っている余裕、ないでしょ?」
阿頼耶は再び黙った。
「……菅田くん。お願いしよう」
「尾崎1佐!?」
「用兵には機と間というものがある。機とは今すぐ戦うか、間とは十分準備して戦うか、だが、ここで決断できねばその両方を逃すことになるぞ」
俺は阿頼耶を見た。阿頼耶は決断を半秒ほど躊躇ったが、やがて大きく頷いた。
「わかった。ここは菅田くんにまかせよう。夏海、地理に不案内な菅田くんのサポートを」
「はい!」
夏海さんは、俺が見る限りでは初めて阿頼耶に敬礼をした。
「待ってください、俺も行きます!」
そんな声が教団内の人間からぽつりぽつりと上がるが、阿頼耶は一蹴した。
「おまえたちにはおまえたちの仕事がある。ここは彼にまかせろ」
妥当な判断だ。目的が戦闘ではない以上、あまり大人数でも目立ってかえって効率が悪くなる。
「自衛隊は30分後、反撃に入る。それまでに子供を見つけ、確保し、戦場を離れる。できるかね?」
「なんとかやってみますよ」
俺と夏海さんは小走りに放送局を出て、リムジンに乗り込んだ。夏海さんが運転席、俺が助手席だ。
多少がたつきながらもリムジンは出発した。……夏海さん、どうやら運転は得意じゃないらしい。
「直以くん、ありがとう。私たちのためにわざわざ危険な役を買って出てくれて」
「あんた、あんまり頭よくないよね」
「……どういう意味?」
「困ってる人を助けるのに人種も宗教も関係ないってこと。別に俺は谷川村に媚を売るためにこんなことやってるわけじゃないから」
「ひょっとして、照れてるの?」
「そんなんじゃないって!」
俺は視線を窓に移した。
大人の女性である夏海さんは、そんな俺を見てくすりと笑みを零した。
出したいけど出せないお友達ファイル
聖ママ
家の事情で高校進学は断念、が、その先に進んだ水商売で大成したお方。銀座辺りじゃ女帝とか呼ばれているとかいないとか。
40を目前に控えた頃、金も名声も手に入れた彼女は今までの人生とこれからの人生を思い直し、商売からは一切手を引いてデザイナーズチャイルドの聖をシングルマザーとして生む。
以後は『超』子煩悩として「ひじりちゃん」の教育に全てを捧げる人生を送ってきたが、聖が反抗期に入った頃から少々齟齬が生まれ、困惑気味。
でも、高校に入ってからは聖ちゃんにもボーイフレンドができたみたいです。
家でも彼、「直以くん」の話をしてくれるようになりました♪
余談ながら、聖が身嗜みに気を使わないのは、煌びやかな夜の世界で生きてきた聖ママに対する反感(10代特有)から。
個人的には出したいキャラなんですが、ストーリーの展開上に必要というわけではないので、出そうか出すまいか迷っているおばさま。