スコップにいちゃんと爆弾ねえちゃん
突然最奥にある教室の扉が開いた。そこから黒い影が躍り、俺は伊草を抱き上げたまま抵抗することもできず、教室内に引き入れられた。
俺は床に投げ出され、背後で扉の閉まる音を聞いた。
ずっと走りっぱなしで疲れも溜まっていたのだろう、俺はすぐには立ち上がることができなかった。伊草の甘酸っぱい体臭を嗅ぎながら荒い息を吐く。
「直以、重い……」
「ああ、悪い」
俺は伊草の上に倒れていたらしい。俺は重い身体を動かして伊草から離れた。そういえばこいつ、いつの間にか俺のことを名前で呼んでやがるな。
「直以……」
伊草は立ち上がると、ゆっくりと俺の後ろに回った。そのまま俺の首に抱きついてくる。こいつも不安だったんだろう。俺はそう思った。
が、俺の想像は大はずれだった。
首に回った伊草の細い腕は、俺の頚動脈を締め上げたのだ。
慌てて俺は伊草の腕を叩く。だが、伊草は腕を緩めなかった。
「よくも殴ってくれたわねえ!」
伊草の腕はさらに力を増す。後頭部に胸が当たっているがその感触を楽しむ余裕は俺にはなかった。
「いい! 今度勝手に死のうとしたら私が殺すわよ!」
なにを言ってるのかまるっきり理解できない。俺は必死に首を縦に振った。
ようやく伊草は俺の首を絞めるのをやめた。俺は、伏して咳き込んだ。
「うふふ。仲がいいのね」
その透き通るような声は教室内から聞こえた。
俺は、のどを擦りながら立ち上がり、教室内を見渡した。
机の並びが乱れている以外はなんの変哲もない教室。そこには2人の有名人がいた。
ひとりは生徒会副会長で鈴宮高校のアイドル、須藤清良先輩だ。制服ごしにもわかる抜群のプロポーション、わずかに垂れた瞳に右唇の下にあるほくろが色っぽい人だ。
もうひとりは学校1の不良と言われる荒瀬宏先輩。蓬髪の髪、190を超える長身、細身ながら良質の筋肉を蓄えている身体で机に座り、鋭い眼光で俺たちを睨んでいる。この人が俺たちを教室に引き入れてくれたのだろう。
俺は立ち上がり、2人に言った。
「さっきはありがとうございます。助かりました」
「直以くんですね。放送は聴きました。待っていたんですよ」
「ったく、ミイラ取りがミイラになるなんて笑えねえ、洒落にもならねえぞ」
俺は改めて教室を見渡した。よく見てみれば、やはりおかしいところも多々見つかる。具体的に言うのなら、壁や床にこびりついた乾いた血だ。
「先輩たちは、ずっとここにいたんですか?」
伊草は須藤先輩に聞いた。
「ええ。周りが騒ぎ出したとき、宏がこういうときは落ち着いて状況を見たほうがいいっていうから」
「ひょっとして、須藤先輩と荒瀬先輩ってお付き合いされてるんですか?」
目を輝かせて聞く伊草。須藤先輩は困ったように荒瀬先輩を見た。荒瀬先輩は、舌打ちをして答えた。
「そんなんじゃねえよ。こいつとは、腐れ縁だ」
「母親同士が同じ産婦人科だったこともあって、本当に長い付き合いなのよ。なにしろ生まれる前からだから」
そう言って嬉しそうに笑う須藤先輩。荒瀬先輩は不愉快そうに視線を逸らした。
軽く一息つくと、俺は荒瀬先輩に聞いた。
「それで、ゾンビはどうしたんですか?」
「あん? なにがだよ」
「この血糊、先輩方のじゃないですよね」
「ああ、そういうことか。捨てた」
そう言って荒瀬先輩は窓の外を親指で示した。
俺と伊草は窓の外を見た。直前にあるのはベランダだ。そこから先は中庭が見える。
その中庭、教室の直下には、10を超えるゾンビが山積みになっていた。この教室から、荒瀬先輩に投げ捨てられたってことか。
「直以くん、それで、今の状況はどうなっているの? 未だに携帯もネットも通じないのだけれど」
「……正直わかりません。テレビニュースを見る限りではゾンビは世界中で発生しているようです」
「同時多発的に発生?」
「まあ、その辺のことは聖に聞いてください。牧原聖。職員室にはあいつがいますから」
「職員室は?」
「今、30人ほどの学生が集まっています。特別棟と部活棟はゾンビが少ないんで一応安全だと思いますよ」
「それで、おまえらはこれからどうするつもりだったんだ? 助けに来ておいてなにも考えてなかったってわけじゃないんだろ?」
教室内にいる3人の視線が俺に集まる。俺は、頭を掻いた。
「最初の予定じゃ非常階段を使って外に出て、下駄箱まで回ろうと思っていたんですが……」
「それは無理だな。倒壊しているのをおまえらも見ただろ?」
「ええ……」
「それじゃあ策なしか?」
「いえ。ベランダから中庭に出ようと思います」
そう言って俺は教室の端で垂れ下がっているカーテンを掴んだ。
俺たち4人はベランダに出た。命綱にカーテンを2枚はずし、より合わせて2重にして柵に縛り付ける。
ふと見ると隣の教室には敷居があるだけで、案外簡単に行き来ができるようだった。
俺は、隣の教室を覗いてみた。
そこには、3人の生存者がいた。生存者は俺の姿を見つけると、ベランダまで出てきた。
「おい、おまえたちどうするんだ? 俺たちも助けてくれ!」
「……調子がいいわね。私たちが廊下から叫んでも扉を開けてくれなかったくせに」
俺は愚痴る伊草を止め、隣の教室のやつにカーテンで中庭に下り、回り込んで特別棟に非難することを説明した。
「最初に言っておくけど、ベランダ伝って他の奴らも助けに行くなんてのは却下だかんね」
「わかってるよ」
なおも愚痴る伊草を遮り、俺は中庭を見た。
そこそこの広さのある中庭にはゾンビがいた。だが、目視で数えられる程度、10を少し超える程度だ。これなら静かにしていればやり過ごせるだろう。
「おい、直以。わりいが先に下りてくれ」
荒瀬先輩に言われて俺は頷いた。と、そこで俺は手ぶらなことに気付いた。消火器は廊下に落としてきてしまっていた。
「なにか武器になるものはありませんか?」
「あん、武器? ちょっと待ってろ」
そう言うと荒瀬先輩は教室に戻っていった。代わりに伊草は俺にボールペンを差し出してきた。
「……なんだよ」
「武器よ」
「……」
俺は、無言でボールペンを受け取り、そのまま外へ投げ飛ばした。
「あにすんのよ!」
「こんなの使えるか! っててて、ぎぶ、ぎぶぎぶ!」
俺の言葉が終わらないうちに伊草は俺の肩を極めてきた。俺は早々に降参するが、伊草は俺を解放しなかった。
「……なにやってんだてめえらは」
荒瀬先輩が戻ってきてようやく伊草は俺を解放した。
「ほらよ。これなら武器に使えんだろ」
荒瀬先輩は俺に長大な鉄を放ってきた。軽々と荒瀬先輩が放ったので、俺は油断していた。それを受け取ったとき、あまりの重さに俺は思わず取り落としそうになった。
それは、シャベルだった。ホームセンターでも見たことのない大きさのシャベルは、5キロはありそうだった。
「……荒瀬先輩。なんでこんなもの持ってるんですか?」
それに答えたのは、須藤先輩だった。
「宏は私と同じ園芸部なのよ。このシャベルでロータリーのお花畑を作ったのよね♪」
ロータリーは校門と下駄箱の間にある30メートルほどの広場だ。その左右は季節の花が彩る花壇になっているのだが、それを荒瀬先輩が作ったとは……。なんか、イメージが変わりそうだ。
「っち! そんなことはいいからさっさと行け!」
俺は荒瀬先輩に即され、シャベルを担いでカーテンを伝って降りた。シャベルは重いが遠野のほうがはるかに重い。
俺は、危なげなく中庭に降り立った。
上を見ると伊草が降りてくるところだった。
ここで、問題が起こった。
1、俺は下にいる。
2、伊草は上にいる。
3、伊草はスカートを履いている。
4、 伊草の水色のパンツは丸見えである……。
伊草はこの状況に気付いていないようでゆっくりと降りてくる。形のいい臀部が揺れた。
俺は、伊草の尻から視線を逸らすことができなかった。
「ふう、到着っと。って、直以、どうしたの? 鼻息荒いわよ?」
「い、いや。なんでもない」
俺は顔面に手を当て、伸びた鼻先を隠した。
ふと横を見ると、隣の教室に隠れていたやつらもカーテンを使って降りてきているようだった。なにやら危なっかしい。大きく揺れているし、カーテンも1枚だけだ。
「お~い、麻里ちゃーん、直以くーん!」
俺は、声の方向を見た。そこには、須藤先輩と荒瀬先輩がいた。残念ながらパンツは見えなかった。
荒瀬先輩は片手で須藤先輩を抱き上げ、片手でカーテンを掴んで、消防団員がすべり棒を降りるようにスムーズに中庭に降り立った。
須藤先輩は荒瀬先輩の腕から飛び降りた。
「もう、直以くん! 男子高校生が性欲を持て余しているのは仕方ないにしても、あんまり露骨だと嫌われちゃうぞ♪」
「あの……、その話やめません?」
「? なんのこと?」
「直以くんが麻里ちゃんのお股を見てたこと~♪」
満面の笑みを浮かべる須藤先輩。最初意味がわからず、後に慌ててスカートを押さえる伊草。
須藤清良、この女、雄太並みの爆弾魔だとは知らなかったぜ……。
「……ねえ、直以」
伊草は、感情を押し殺した声で言った。
この数時間で俺の伊草に対する印象はまるで変わっている。もちろん悪い意味でだ。以前ならなにかされるにしても適当な嫌がらせ程度だったろうが今は違う。俺は今、如実に命の危機を感じているのだ。
「あなたってほら、自殺願望があるわよね」
こきんと、小気味のいい音が伊草の指から鳴った。
俺は、助けを求めるために同性の荒瀬先輩を見た。荒瀬先輩は露骨に俺から目を逸らした。
「その腐った性根叩き直してやるからそこになおれ~~~!」
反論する暇もなく伊草は俺の腕を取り捻り上げようとした。だが、伊草の動きは止まった。
嫌らしい悲鳴が聞こえたのだ。俺たち4人は悲鳴の方を向いた。
そこには、足を押さえて転げまわる男子学生がいた。隣の教室にいたやつだ。地面にカーテンの切れ端が落ちていることから鑑みるに、カーテンが切れて途中から落下したってところか。
荒瀬先輩は舌打ちした。男子学生の悲鳴に呼応するように、ゾンビどもが俺たちに向かって集まってきたのだ。他の場所からも集まってきているのか、時を追うごとにゾンビどもはその数を増していく。
「……どうするのよ」
伊草は俺の腕を離して言った。俺がなにか言おうとした、その時だった。
俺の顔に光が当たる。俺は眩しさに耐えながら光の元を探った。
それは、鏡だった。遠野が特別棟の1階から鏡で合図を送っていたのだ。
遠野は俺の視線に気づくと鏡を置き、飛び上がりながら両手を振った。
「……あそこまで走るぞ」
俺は特別棟を指差した。直線距離にして100メートル足らずだ。校舎を半周するよりもかなりショートカットになる。
俺は、倒れている男子学生に寄った。押さえている足を見ると、おかしな方向に曲がっていた。素人判断でも、骨折しているのは明らかだった。
「手伝ってくれ!」
俺はただ突っ立っているだけの隣の教室にいたやつらに言った。ひとりは気弱そうな男子学生でひとりは色黒の女子学生だ。2人は、俺の声にも反応せず、ただおろおろするだけだった。
俺は、骨折している男子学生に肩を貸して立たせた。
「いてえよお、いてえよお」
骨折している男子学生は涙と鼻水を垂らして俺に寄りかかってきた。さすがに遠野やスコップとは重さが違う。俺は、踏ん張って骨折している男子学生を支えた。
「伊草、先導してくれ!」
伊草は無言で頷くと、駆け出そうとした。だが、その前にゾンビが立ちはだかった。
伊草はボールペンを取り出すと、ゾンビの目に刺した。ゾンビには視覚も痛覚もない、目潰しはまったく効果がない。俺はそう思った。
だが、伊草はボールペンをゾンビの眼球に突き立てると、ボールペンの尻に右手の平を当て、一気に押し込んだ。ボールペンは眼窩を突き破りそのまま脳に突き刺さる。
ゾンビはそのまま後ろに倒れて、動かなくなった。……俺、本気でこいつとの付き合い方考えよう。
今度こそ伊草は走り出した。隣の教室にいた2人は伊草について走っていく。
「あらあら、君、置いてかれちゃったわね」
呑気に苦しんでいる男子学生の頬を突付く須藤先輩。
「少しは手伝ってくださいよ!」
俺がそういうと、須藤先輩は当然のように視線を荒瀬先輩に流した。
荒瀬先輩は舌打ちすると、だが、骨折した男子学生を担ぐでもなく、俺からシャベルを奪った。
荒瀬先輩はシャベルを肩に担ぐと、ゾンビの群れに向かって歩き出した。
そのまま、片手で5キロはあるシャベルを軽々と振り回した。シャベルは一撃でゾンビの首を跳ね飛ばす。
荒瀬先輩は飛び散る血飛沫を飛び退いてかわし、今度はシャベルを突き刺した。
シャベルはゾンビの胸骨を砕き、心臓に突き刺さる。ゾンビをぶら下げたままスコップを振るい、近づくゾンビを殴り倒す。
「……すっげ」
強くて、速い。圧倒的だ。
荒瀬先輩は神話に出てくる英雄のようにゾンビを蹴散らしていく。俺たちに近づくゾンビは、全て荒瀬先輩に倒されていった。
「さ、私たちも行こ」
須藤先輩に声をかけられ、俺は我に帰った。
そのまま男子学生の片足ケンケンの速度で、俺たちは特別棟に向かった。途中で戻ってきた伊草の手伝いでなんとか特別棟に辿り着くと、須藤先輩、男子学生、伊草の順に窓から中に入れ、俺は大声で叫んだ。
「荒瀬先輩! もう大丈夫です。引いてください!」
「ああ、そうか」
荒瀬先輩は気負うでもなくシャベルを肩に担いで俺たちのところに歩いてきた。
周りにはもうゾンビがいないため、警戒する必要がなかったのだ。
中庭には、30近いゾンビの肉片が、荒瀬先輩ひとりによって乱造されていた。