ニプル=乳首です
俺たちが徒歩で向かった先は、鈴宮高校の隣にある運動公園だった。
そこのグラウンドに、大型の軍用ヘリがローターを回した状態で待機中だったのだ。
「これは、まいったね」
胸の中に去来するさまざまな思い。その中でも最大のものは、こいつで攻撃されたらどうするか? だった。
鈴宮高校では、対ゾンビ対策、対人対策を考えた防備をしているが、対空、対兵器対策は、まったくやっていない。
今回、谷川村は交渉という手段によって俺たちに接してきたが、もしこれが朝倉市のように、銃を突きつけて梨子を渡せと言ってきたら、俺たちは拒否できるのか?
そんな内心の冷や汗を察したのか、梨子は不安そうな顔で俺を見上げていた。
俺は、梨子の髪をそっと撫でた。
「……大丈夫だって。とりあえずは、知ることだ。その情を索むってな」
俺はそう言って梨子を安心させようとしたが、梨子は足を止めて俺の腕を両手で引きとめた。
「? どうしたんだよ。大丈夫だって」
「直以お兄ちゃん。愛について語りましょう」
「……は?」
「愛さえあればなにもいらない。そう思わない?」
「おまえがなにを言いたいのかまったく理解できんが、愛だけだと栄養が偏りそうだな。他のものも満遍なく食べたほうが健康にはいいぞ」
「ううん、私は愛さえあればそれで幸せ。直以お兄ちゃんがいればそれだけでいい。もうこの際、聖お姉ちゃんも雄太お兄ちゃんもいらない! さあ、直以お兄ちゃん! 私を連れて愛の逃避行を……痛!」
「とりあえず落ち着け。おまえ、なにテンパってるんだよ」
「うーうう~」
梨子は唸りながら俺を上目遣いで睨む。その顔は、なんでわかってくれないの? と問いかけていた。いや、悪いがまるっきり理解できないんだが。
「おい、直以。そいつ、どうかしたのか?」
「あ、いや、大丈夫です。ほら、梨子。行くぞ」
俺は梨子を半ば引きずるようにヘリの前まで移動した。
そこには、姿勢よく尾崎さんに敬礼する自衛官の人がいた。どうやら海上自衛隊ではなさそうだったが。
「なにか、問題は?」
「いえ、この辺りは治安もよく、暴徒もゾンビの襲撃もありませんでした」
尾崎さんはその報告を聞くと、俺たちに向き直った。
「どうぞ、お乗りください。短い空の旅ですが、安全はお約束します」
尾崎さんは笑顔でそう言ってくれたが、俺たちは動かなかった。梨子が俺の腕を強く引いて乗り込ませなかったのだ。
「梨子、本当にどうしたんだ?」
梨子はもう涙目で微かに震えている。まるで脅えているようで……、ああ、そういうことか。こいつ、高所恐怖症だったな。両親を失った飛行機事故が原因ならそれを責めるわけにもいかないが、少しまいったな。俺たちだけ陸路で行きます、とはいえないだろう。
俺は、少し考えて荒瀬先輩を見た。
「荒瀬先輩。ちょっと俺の荷物を頼みます」
「わかった」
渋るでもなく、荒瀬先輩は都合3人分の荷物を片手で持った。……相変わらずの馬鹿力だ。
俺は、梨子の前でしゃがんだ。
「ほら、梨子」
「? 直以お兄ちゃん?」
「おんぶだ」
「ふえぇ?」
「初めて会った日も屋上から非常階段におんぶで降りただろ?」
梨子は、しばらく無言だったが、やがてそっと俺の肩に手を置いて、だが、すぐに離した。
そして、我らが妹姫はぼそりとのたまった。
「……お姫様抱っこがいぃゃん!」
言い終わるのを待たず、俺は梨子を抱きかかえた。そのままじたばた暴れる梨子を肩で担ぎ、ヘリの中に放り込む。
「尾崎さん、お待たせ。くだらないことに時間とらせて悪かったね」
「いえ、仲がいいんですね」
ヘリ内にいる他の自衛官も、俺と梨子を見て笑いを噛み殺していた。
どこか、穏やかな空気の流れる中、ヘリはゆっくりと離陸する。
ヘリ内は、快適とまでは言えないまでも、そこそこのスペースがあった。
梨子は俺の胸に抱きついてガタガタと震えている。その様子を尾崎さんは心配そうに見ていた。
「あの、直以さん。梨子さまは大丈夫ですか?」
この人も俺の苗字を直以だと思ってやがるな。まあ、別に不都合でもないから訂正しないけど。
「大丈夫ですよ。こいつ、昔に飛行機事故に遭って高所恐怖症なんですよ」
「そうでしたか。飛行機事故のことは伺っていたのに、配慮が足りず、すいませんでした」
「だから、大丈夫だって。そうだよな、梨こぐぉ!」
梨子のやつ、シャツの上から俺の胸を噛みやがった。
「まあ、そんなに時間はかからないから。ほら、飲みな」
そう言って俺に缶コーヒーを差し出してくれたのは、迷彩服を着た、まだ若い男だった。
「ありがとう。でも、缶コーヒーは貴重品じゃないんですか?」
「まあ、流通が壊滅しているからね。ほら、あんたも」
そう言って男は荒瀬先輩にも缶コーヒーを渡した。
「三尉、こちらは月読さまのお客様です。言葉使いに気をつけなさい」
「うるせえなあ。俺たちはあんたの親父さんには従うけど、あんたにも、月読にも従う義理はないよ。谷川教の信者じゃないんだから」
なにやら空気を悪くしている2人を尻目に、俺は缶コーヒーのプルタブを引いた。
「梨子、コーヒー飲めるか?」
「……口移しなら」
俺はコーヒーを口の中に溜めた。コーヒーの香りとミルクの滑らかさが咥内に広がる。
梨子は驚いて俺の胸から離れた。
俺は、梨子の目の前で、コーヒーを飲み込んだ。
「もおう! どうしてそんな意地悪するの!?」
「馬鹿なこと言ってるからだろうが。ほら、飲め」
俺は牛娘に缶コーヒーを渡した。梨子は、再び俺の胸に抱きつきながら缶コーヒーをちびちびと飲んだ。
「えへへ、間接キス」
俺は梨子の言葉を聞こえなかったことにした。いつの間にか、梨子の震えは止まっていた。
「っち!」
と、突然荒瀬先輩は舌打ちした。その動作で全員の視線が荒瀬先輩に集まった。この人、威容があるからなあ。たぶん本人もそれがわかってるから普段は須藤先輩の影に隠れて目立たないようにしているんだろうけど。
「荒瀬先輩、どうかしましたか?」
「……外を見ろ」
俺は、さすがに軍用というべきなのだろう、小さな窓から外を見た。
そこで、俺は現実を見せつけられた。
見下ろすは鈴宮市と近隣の数市。外観だけならそれほどの変わりはないはずなのに、その都市群はすでに死んでいることがわかる。
灯らない信号。
生い茂る雑草。
割れたガラス。
放置された都市は、わずか半年で、廃墟の態を晒していた。それがパノラマ一面、視野の続く限り続く光景。
ひょっとしたらどこかに安全な場所があって、いつか救助隊が助けに来てくれるかもしれない。考えないようにしているそんな淡い希望は、完全に砕かれた。
ヘリのローター音を聞いたのだろう、ビルの屋上から女性が俺たちに両手を振っていた。
その女性は、自分の存在を気付かせようと必死に声を張り上げ、柵を乗り越え、そのまま落下して姿を消した。
他のビルの屋上では、ゾンビがまるでペンギンのように身体の向きと顔の角度を揃えて俺たちを見上げていた。
そこかしこで散見されるそんな光景に、ヘリ内の全員が苦渋の表情を浮かべていた。
空の旅は、本当にすぐに終わった。
直線距離にして100キロ以上ある道のりは、1時間もかからなかったのだ。
それでも俺たちに気を使って十分な時間を使ってくれたらしかった。
「ほら、梨子、降りるぞ」
「う、うん。なんかふらふらする……」
梨子は俺に寄り掛かりながらヘリを降りた。
「申し訳ありませんが、もし武器をお持ちでしたら提示していただけますか?」
尾崎さんにそう言われて、俺はポケットに手を突っ込み、裏返した。
昨日の段階で須藤先輩に拳銃を渡されたのだが、俺は返したのだ。自衛隊相手に拳銃一丁でなんとかなるとは思えないし、通用するとも思わないからだ。
武器を使う外交が戦争であり、武器を使わない戦争が外交である。
それならば、外交において役にも立たない武器を所持するのは無粋というものだろう。
俺たちは、手ぶらで敵地のど真ん中にいるのだ。
「そういったものはもってきてないんで安心してください」
「そうですか、失礼しました。それでは、これから神殿まで案内いたします」
神殿、ね。
俺たちが降り立ったのは、小型ながらもよく整備されている飛行機発着場みたいなところだった。そこからリムジンに乗り換える。
俺と梨子、荒瀬先輩に尾崎さんの4人はリムジンに向かい合わせに乗ると、リムジンは音もなく静かに走り出した。
しばらく林道を走る。すれ違う人も、すれ違う車も、ゾンビもいない。谷川村は現実として、山の中にある僻地のようだった。
にもかかわらず、ダムと水力発電所があって村の財政が豊かだったおかげなのだろう、道路の舗装はしっかりと整っていた。
「こういっちゃなんだけど、やっぱり田舎ですね」
「ええ、都心なら数市はまるまる入る敷地にたった3万人ほどの人口ですから」
「今はどれくらいなんです?」
「ゾンビ発生のときには、一部で被害も出ましたが、この地域ではそれほど大きな被害はありませんでした。立地のおかげかゾンビの流入も限定的ですし。今は避難民を受け入れて5万近くになっています」
谷川村は基本的に、下流に続く渓谷と山間を走る国道の2経路しか侵入方法はない。ヘリや飛行機を使った空路や山道を越えるという例外を除けば、その2箇所を監視しておけば、人やゾンビを含めた物流の行き来はチェックできるとのことだった。
「人口の倍近くを受け入れて大丈夫なんですか?」
「幸いにも、谷川村はもともと林業と酪農が盛んでしたので」
その言葉を証明するように林が途切れ、広大な牧場が目の前に現れた。
青い草原の上を雲の陰がゆっくりと横断し、牛と馬が草を食んでいた。
どこかのどかな、平和な風景だった。
「おお、梨子。見ろよ。牛だぞ」
「え? あ、うん……」
「? どうかしたか?」
「うん、ちょっと酔っちゃったみたい」
まあ、高所恐怖症の上に慣れないヘリ。次いで休む間もなく車で移動だもんなあ。
「気付かずに申し訳ありません。少し車を止めて休みましょうか?」
「え? ううん、大丈夫です! ほら、こうしていれば」
そう言って梨子はヘリの中と同じように俺の胸に顔を埋めた。
「……吐くときは先に言えよ、ぐわ!」
梨子は、返答の代わりに本日2度目のニプル齧りを炸裂させたのだった。