せいぜい勝手に苦しめ
漆黒の宵闇にぽっかりと月が浮かんでいる。
その優しい光源の中に、想い人の美笑が現れては消えた。
「……ハア」
俺は熱いため息を吐いた。似合わないのはわかっている。だが、胸の高揚は抑えられなかった。
「……なあ直以。なにか、あったのか?」
その声に俺は振り返った。
そこに立っていたのは雄太だ。雄太のさらに後ろには聖と梨子がいる。
「あれ、雄太。戻ってきてたのか」
「朝倉小学校で合流しただろうが。おまえ、本当にどうしたんだ?」
「そうだなあ。言ってみれば、恋煩い……」
「どういうこと直以お兄ちゃん! 紅ちゃんなの!? ……ぎゃん!」
「まさか、あの女か!? 伊草麻里なのか、直以! ……いだだだ!」
俺が言い終わるより早く雄太を突き飛ばして俺の前に出た馬鹿娘2人の鼻を、俺は思い切り持ち上げた。
「なんなんだおまえらは」
梨子と聖を黙らせることに成功した俺は、それぞれの鼻を押さえている右手と左手を離した。聖と梨子は涙目で俺を睨んできた。
「ったく。深刻に思い悩むことすらできねえな」
俺は窓を全開にして低反発マットに寝転がった。
ここは、俺たちの部屋である図書室だ。湿った夜風が俺の頭上を吹き抜けた。
「それで、聖。そっちはどうだったんだ?」
俺が強引に話を変えると、聖は鼻をさすりながら俺の隣に座った。
「ああ、こちらは有意義な話し合いができたよ」
須藤先輩たちの間で話し合われた代表者会議は、大きく3つの議題に分かれた。
まず、最初の議題は、現状における情報交換だった。
お互いの生活環境と問題点。それに、ゾンビの特性など。
ゾンビは、今のところ人間だけがなり、犬や猫など他の動物には確認されていない。
多くのゾンビは視覚や痛覚がなく、音に反応する。だが、例外的に視覚のあるゾンビも存在し、そのゾンビには痛覚が存在する。
ゾンビに噛まれると、長くとも1時間以内にゾンビになる。
ゾンビは、頬、ノド、胸部、上腕、大腿、内臓、それに性器を好んで食うが、捕食段階においては部位に関わらず噛み付いてくる、云々。
「私としては目新しい情報は仕入れられなかったのだが、まあ、情報を整理できただけよしとしているよ」
「そういえば、聖。紅には聞いたか?」
「う……む。朝倉小学校の件か。実際に実験してみないことにはなんともいえないが、なかなかに興味深い話だった」
「もし本当にゾンビが電波に反応しているんなら、よくできてるよな。電波を使うのなんて人間くらいだから、ゾンビは人間のいるところ、すなわち食べ物のあるところに集まるってわけだ」
そう言って雄太は腰を摩りながら聖の隣に座った。どうやら先ほど梨子と聖に突き飛ばされて思い切り腰を打ちつけたらしい。
「電波か電磁波か、それとも周波数なのか。まだなんとも言えないが、ゾンビの行動にそのなんらかが影響しているのかもしれないな」
「胸糞悪い。ゾンビ発生初期に助けを求めて、外部と連絡を取ろうとして知らずに犠牲になった連中が大量にいるだろうな」
「なんか、すごく残酷だね。みんな必死で助かろうとしてるのに、それが逆効果になるなんて」
梨子は聖とは反対の俺の隣に座ると、俺に寄りかかってきた。
「……それで、次はなにを話し合ったんだ?」
「うむ、食料とエネルギー問題だ」
この先、どうやって食料を確保していくのか、どうやって必要最低限の電気を確保するのか。
現状を言うなら、非常食や保存食を食いつないでいる状態で、鈴宮高校を含む全ての場所で生産体制は整っていない。
当然非常食や保存食はいずれなくなる。なくなる前になんとか食い繋げるだけの生産体制を作らなければならない。そのためにどうすればいいのかが話し合われた。
他にも、この夏の酷暑をどうやって過ごすか、も話し合われた。ぶっちゃけるのなら、エアコンをどこまで使うか、だ。
今は、ガソリンを元にした発電機で動かしているが、ガソリンも無限にはない。今年の夏はなんとかなるかもしれないが、来年は、それに冬はどうするか。
実をいうと、環境問題は食料問題とエネルギー問題の2つに集約できる。
俺たちは、文明の崩壊した世界でまさに環境問題に直面してるってわけだ。
「以前、直以の言っていたバイオガスの話題も出たよ。実用化されれば大分助かるが、この電力不足の状況ではすぐには無理だろうな」
「そういえば、その、汚物って昔は肥料に使ってたよね」
俺は寝返りを打って梨子を落とした。こういう話は荒瀬先輩に仕込まれているために得意だ。
「肥えってのは、実は人糞じゃないんだよ。人糞を落ち葉とかと一緒に発酵させたもの。東京と埼玉の間にある武蔵野ってのは、幕府が増えすぎた江戸の人口を養うために、人糞を発酵させるための落ち葉を作るのに計画的に木を植えたってのが始まりらしい」
「発酵までには、2~3年かかるらしいし、現代人の食事には化学調味料が多く使われているため、肥料には使えないらしいな、いいったあ!」
俺は聖の足を蹴った。くそう、俺が言いたかったのに。
「それじゃあ、肥料に使うよりおならガスに使ったほうがいいのかな?」
梨子は、再び俺の身体によじ登ってくる。
「うむ。うまく精製できれば生活用ガスにも使えるし、設備が整えば火力発電の元になるかもしれない」
聖は寝転がり、煙草に火をつけた。
「でも、電気がないから施設は動かなくて精製できないんだよね」
「残念ながら、そうだ」
「なんだ、手詰まりじゃねえか、っとお」
聖が煙草の火を近づけてくるが俺はかわした。その動作で梨子は俺の上からずり落ちた。
「これについてはひとつ案が出た。私としては他力本願であまり好ましくないんだが」
「なんだよ」
雄太が聞くと、聖は一度大きく煙草の煙を吸った。
「……これは、水に関することでもあるんだが。雄太、水道の仕組みは知っているか?」
「まあ、だいたいは」
「私も知ってるよ。小学校のときに谷川村まで遠足に行ったもん。確か、浄水施設から圧力かけて水を押し出してるんだよね」
「へえ、そうなのか……、って、俺たちが水道を使えるってことはその浄水施設が動いてるってことか」
「そういうことだ」
「ぶっちゃけ、ダムから水が垂れ流されてるのかと思ってた」
「……直以の誤解が訂正できてよかったよ。まあ、とにかくここからしばらく上流に行った谷川村には浄水施設がある」
「浄水施設は動いている。動いているからには電気があって人がいる……」
「谷川村にはダムに併設した水力発電があったはずだ。おそらくそれが動いているのだろう」
「谷川村は田舎だからゾンビもあんまりいなかったのかなあ?」
梨子は3度俺の身体によじ登ってくる。
「それで、谷川村の人に水力発電で作った電気を分けてくれって頼むのか?」
「なにも電気だけではない。この酷暑だ。ダムの水位が下がれば今まで使えていた水道も止められるかもしれない。水は、食料以上に我々の命綱だ」
「……けっこう俺たち、やばくないか?」
俺と雄太と聖、あと俺の上にいる梨子は同時に唸った。
「まあ、そうならないためにも手は打つつもりだ。明日にでも我々の使節団を谷川村に派遣する」
「誰が行くんだ?」
「各地区からひとりずつ。鈴宮市第一地区からは、臼井海斗が行く手はずになっている」
さりげなく俺たちと同じ1班になっている臼井先輩か。外交に活躍を期待ってところか。
「谷川村かあ。機会があったら行ってみたいなあ」
「なんだ、梨子。谷川村に思い出でもあるのか? そういえば遠足で行ったんだっけ?」
「えっと、ね。谷川村には私の友達がいるんだ。もう何年も会っていないんだけどね。ほら、私が飛行機事故で親を亡くしたのは知ってるでしょ? そのときに生き残った子なんだよ。生存者のうち、ひとりは大人で、残りの3人は私も含めて子供だったんだけど、私だけ親戚に引き取られて、残りの2人は谷川村の児童養護施設に引き取られたんだ」
「それはまたなかなかの縁だな」
「あっと……、ごめんなさい、自分の話しちゃって。ほら、聖お姉ちゃん、次つぎ!」
梨子は(俺の上で)居住まいを正し、聖に先を促した。
「ああ、梨子くんの話にも興味はあるが、とりあえずは3つ目の議題だ。最後に話し合われたのは、安全保障の問題だ」
俺たちは、残念ながら完璧な安全を確保しているとは言えない状態にあった。図らずも今日朝倉小学校がゾンビの大群に襲われたように、だ。
そういうとき、どうするかが話し合われたのが3つ目の議題だった。
なにかしらの有事が起こった際の手順。各地区の提供義務兵力と指揮命令権の確認。交通、通信網の整備……。
「指揮命令権、ね。これはどうなったんだ?」
「うまくいったよ。指揮権は常に我々鈴宮市の第1地区に帰順することになっている」
俺たち、鈴宮市の第1地区は軍事的には一番優れていることになっている。理由は、朝倉市との戦争に勝利したことと、大量の銃器を所持しているからだ。
「その実態は銃もまともに撃ったこともない高校生の集まりなんだけどなあ」
「なに、運動不足の社会人よりはまだ若い高校生のほうが動けるし、銃を撃ったことがないのなら、日本人である以上、ほぼ同条件だ」
「ものは言い様だな」
「それより直以、きみは長戸市の連中と対峙したらしいな」
「……まあ、な」
俺は顔を伏せて霧島明俊に会ったときのことを話した。
「ほう、ここでこの名を聞くとは、な」
「馬鹿聖が。おまえ、いろんなところで敵作っているみたいだぞ」
「その霧島ってのは、どんな人なんだ?」
「なに、取るに足らない小人だよ。頭の回転はそれなりだが、あの男は精神的に弱い」
それは、俺にも理解できた。なにしろ自分に異を唱えただけで女を殴るようなやつだからだ。
俺は、顔を伏せたまま聖に聞いた。
「……原田美紀は知ってるか?」
「原田美紀? さて、誰だったかな」
「霧島の乳母兄妹とか言っていたな。実質的な指揮は彼女が執っていたみたいだった」
「ああ、そういえばいたな。私の印象としては霧島の指示を言葉どおりに実行するだけのイメージしかないな」
「……」
俺は、梨子が転げ落ちるのも構わずに無言で立ち上がった。そのまま無言でドアに向かう。
「……直以、なにか気に障ることでも私は言ったか?」
「別に、そんなんじゃねえよ。少し屋上で涼んでくる」
俺は振り返らないままドアを開けて図書室を出た。
川から吹き付けた風が俺の頬を撫でた。
鈴宮高校の裏手には川が流れている。これのおかげで、この辺りは都市部より大分涼しくなっていた。
俺は屋上で柵に寄りかかりながら天上を見上げた。
そこには、他を圧するでかい月が浮かんでいた。
「直以」
呼ばれて視線を下ろすと、そこには雄太がいた。
「ほら」
雄太は俺に缶コーヒーを渡してきた。今となってはなかなかの貴重品だ。
俺は礼を言って缶コーヒーを一口飲んだ。もはや、懐かしさを感じる人口甘味が口の中に広がった。
雄太は俺と同じよう柵に寄りかかって月を見上げた。俺も月を見上げる。
男2人で、しばらくの間無言で月を見上げた。
「……聞かないのか?」
雄太は俺の質問に逆に聞き返してくる。
「話せることなのか?」
「……わからん。理解してもらえるとは思わないけど」
「じゃあ話せよ。聞き役になってやるから」
「……最後まで聞けよ」
俺は、雄太に視線を向けないまま、独り言のように話した。
原田美紀に邂逅したこと、思ったこと、そして今、想っていること。
口にするには頭にあることを整理しなくてはならない。俺は、ひと言ひと言を選びならがら吐き出した。
「それは……なかなかの偏執狂だな」
「言うな。自分でもわかってるんだから」
俺はコーヒーを飲み干すと、缶を握りつぶした。指の先まで血液が行き渡るのを感じる。疼きが、抑えられない。
「まあ、俺としては変な色恋沙汰じゃなくて少しだけ安心したよ」
「なんでだよ?」
「おまえが変な女に引っかかったら聖と梨子が大変そうだ」
雄太は視線を俺に向けて苦笑を浮かべた。
「先月、おまえが朝倉市から帰ってこなくて、かなりきつい目にあったんだぜ。今回も同じ目に遭わないってだけで俺はいいや」
「なんだよ。なんかアドバイスみたいなのはないのか?」
「ないよ。せいぜい勝手に苦しめ」
「……俺はいい親友を持ったな」
「どっちにしても、長戸市とは揉めることになりそうか?」
「ああ、それも近いうちにな」
俺は、思い切り柵に寄りかかって空を見上げた。
そこには、威圧的な月が美笑を浮かべていた。
俺は、苦笑を浮かべて、月を睨み返した。
長戸市の行動は早かった。
翌日、朝倉市の地区から長戸市の連中に拠点が襲われていると援軍要請があったのだ。
こうして、長戸市との戦争は、宣戦布告もなく、静かに幕を開けた。
どうも、前話では失礼をしました。ええ、調子に乗りすぎたようです。
お気に入りがぱらぱらと減りました・・・。