手に負えないだろ、色々と
悲鳴の方向に走る。
横には紅がぴたりとついてきていた。
角を曲がった先、そこにそいつはいた。
歳は俺たちと同じくらいだろう、乾いた血糊を身体中にこびりつけている男だった。
そいつが8班の女子を後ろから羽交い絞めにしていた。
俺は、大きく息を吸い込んで呼吸を整えると、男を囲む8班の連中の前に出た。
「よお、生存者だな。無事だったか?」
「こっちに来るな!」
男は割れた声を上げ、バタフライナイフを女子の首に当てた。女子は震えて涙を目に溜めている。
俺は小声で聞いた。
「紅、雄太は?」
「悲鳴は聞こえていると思うのですが」
「交渉は雄太のほうが得意なんだがなあ」
「相手は普通の心理状態ではないようです。気をつけてください」
「わかってるよ」
俺はさらに一歩前に出た。男はバタフライナイフを数ミリ女子の首に差し込んだ。女子の首から一筋赤い液体が垂れる。
「こっちに来るなって言ってるだろ!」
「……ああ。わかった。とりあえず落ち着け」
「武器を捨てろ!」
俺は、戈を前に放った。
「言うとおりにしたぞ。今度はおまえが俺の話を聞いてくれ」
「うるせえ!」
俺は、男を無視して話し出した。
「俺たちは今、鈴宮高校で救助を待っている。あそこなら食料も水もあるし安全だ。一緒にそこに行こう」
「そんなの信じられるか! 世界は滅んだんだ、誰も助からないんだ!」
男は口角から泡を飛ばしてそう言った。やばいな。こいつ、相当切羽詰ってる。
「わかった。それじゃあ俺たちは引き上げるから、女子を解放してくれ」
「駄目だ! この女はもう俺のもんだ!」
「……なんだとこら」
俺は一歩前に出た。勢いに押されて男は二歩下がった。
「な、直以くん、ちょっと待って!」
俺を引き止めたのは、内藤だった。両腕で俺の腕を取り、馬鹿でかい胸を押し付けてくる。
男は俺から視線を外し、内藤を見て激昂した。
「ちくしょう、馬鹿にしやがって! 俺は人を殺してるんだぞ! なめるんじゃねえぞ!」
「ま、まって! 私たち、そんなつもりはないの!」
内藤は俺の前に立った。止める間もなかった。
男は抱えていた女を突き飛ばすと、組し易いと見た内藤に斬りかかった。俺は内藤の襟首を引き、覆いかぶさるように押し倒した。
一瞬、体中の温度が下がった。その直後に失った温度が一箇所に集まったように、左肩を灼熱が襲った。
バタフライナイフは俺の肩骨にぶつかり、肉を削ぎながら横滑りする。
痛みに目が眩み、バランスを崩した内藤を抱えて身動きが取れない。
俺は、致命傷になるだろう2撃目を覚悟した。
次の瞬間、乾いた音がショッピングモールに響いた。
俺の視線の先には、拳銃を両手で構える紅がいた。
俺の後ろにいた男が倒れる音が聞こえる。
「直以先輩、大丈夫ですか?」
普段と変わらない声調で紅が聞いてくる。俺は斬られた肩を撫でた。粘着性のある、熱い液体が手に付着した。
「……せっかく調達したジャケットがもう傷ものだよ」
俺は立ち上がろうとした。わずかの動きでも肩に響いて痛みが走る。
そこを俺は突き飛ばされた。
「なんで撃ったの!」
俺を突き飛ばした内藤は紅に詰め寄った。紅は鉄面皮で内藤に応じる。
「直以先輩の、いいえ、あなたたちの危機でした」
「だからって殺すことなかったでしょう! あなたのやったことは殺人よ!」
内藤はヒステリックに紅を責める。紅は瞳を細めてそれを聞いていた。
「なにがあったんすか?」
今さら来た隆介は、俺を抱え起こしてくれた。
「おまえ、本当に役に立たねえな」
「そんなこと言わないでくださいよ。直以先輩たちが店を飛び出していって、俺、これでも必死で探したんすよ」
俺は隆介に手伝ってもらってジャケットを脱いだ。下に着ていたワイシャツは、赤い染みを大きく広げていた。
「な、直以お兄ちゃん!」
いつ来たのか、雄太と梨子がいた。梨子は手に持っていた大量の荷物を落とすと俺のところに駆けてきた。
俺は雄太に言った。
「遅いよ。ったく、肝心なときにいねえんだからな」
「……染みるけど我慢しろよ」
雄太は俺のワイシャツを裂くと、傷口の洗浄のために、調達してきたさっちゃん用の日本酒をかけた。
「っぐ!」
俺は歯を食いしばった。
「幸い医薬品はバスに積み込んである。車内に戻って止血だな。梨子、先に戻って用意して! ガーゼと消毒液! それとタオル!」
「は、はい!」
俺の手を取ってわたわたしていた梨子は、雄太に指示を出されると全速力でバスに向かって走っていった。
「隆介、梨子を頼む」
「ういっす!」
隆介は梨子を追って走り出す。
俺は、雄太に肩を借りながら、戈を杖にして立ち上がった。
辺りを見渡すと、銃声に反応したゾンビがちらほらと姿を現していた。
「内藤! その辺りにしておけ」
「で、でも直以くん! この子は人殺しを……」
「紅が動いてくれなかったら俺が殺されていたよ。紅、ありがとうな」
「直以くん! 他にもあるのよ、この子は銃を隠し持っていたの!」
「……それについては須藤先輩の指示だ」
「私たちには黙っていたの!」
「雄太、女子の様子を見てくれ」
「女子? ああ、わかった」
男に羽交い絞めされていた女子は、仲間の間で泣いていた。雄太は女子の傷付いた首を手当てする。
「直以くん! どういうことか説明してよ!」
内藤は胸を揺らしながら俺に詰め寄ろうとした。それを、紅は遮った。
「いい加減にしてください。私にはなにを言おうとかまいませんが、あなたをかばって怪我をしている直以先輩を責めるのは筋違いでしょう」
「せ、責めてるんじゃないわ! 私は、大事なことを隠していた直以くんが!」
内藤は支離滅裂に俺たちを批判し続けた。
目の前で人が死んだのだ。取り乱すのもわかるが、少し感情的すぎだ。なるほど、内藤は、紅の言うとおりイレギュラーに対応できない治世の人間だった。
俺は、内藤を無視してバスに向かって歩き出した。一歩一歩が傷口に響いた。内藤は紅を押し退け、俺の腕を掴んだ。
「待ってよ! 話は終わってないでしょ!」
「後にしろ!」
雄太は内藤を怒鳴りつけると、その頬を叩いた。内藤はその一発で黙った。
「直以、大丈夫か?」
「ああ。だけど雄太、やりすぎだ。女叩いたら評価はガタ落ちだぞ」
「今さら人気取りに精を出す気はないよ」
8班の女子は冷ややかな目で雄太を見ている。またこいつに貧乏くじを引かせてしまったなあ。
俺は、そこにいる全員に言った。
「みんな、バスに戻ってくれ。悪いがこんな状況だ。今日のところは大人しく引き上げよう」
8班の連中は、遅い動きながらもバスに向かって歩き出した。俺はひとり固まっている内藤に言った。
「内藤、戻るぞ」
「わたし……、私は悪くない!」
内藤は胸を揺らしながらバスに走っていった。後に残ったのは俺と雄太、それと紅だ。
「ったく、落ち込む暇すらないな」
「なんだ、落ち込みたかったのか? 浅い傷でもないけど、命に別状はないよ」
「本来ならな。この傷をつけた男には返り血が付いていた。刺した相手がゾンビだったんなら俺も感染だ」
「……最悪だ」
結果から言うなら俺も、バタフライナイフを首に突き立てられた女子も感染することはなかった。
こうして、バカンスであるはずの物資調達はグダグダな形で終わったのだった。
「ぃ痛ってえ! さっちゃん、関係ないところに刺さってるよ!」
「え~い、うるさい! うごかないでよ、縫いにくいんだから!」
鈴宮高校に戻ると、俺は保健室に直行した。さっちゃんは俺の傷を見て心から嫌そうな顔をして外科セット(詳しく聞くと、医大時代に使っていた外科縫い練習用のものらしい)を取り出した。
明らかに手際がいいとは言えない手付きでさっちゃんは俺の肩に針を突き刺す。ピンセットに持った外科針を俺の肌に突き刺すとき、3テイクまでならデフォルトでオーケーだった。
「まったく! なんできみは! 私の仕事をふやすのよ!」
「なあ、こういうときって麻酔とか使わないの?」
「もったいないから却下!」
さっちゃんは俺の肩を縫い終わると、一仕事終えた顔をして額の汗を拭った。俺は肩からはみ出した余った糸をつまんだ。
「……梨子。ちょっとこれ、鋏で切って」
「あ、はい」
梨子はバスの中からずっと俺の手を握っていた。その手をようやく離し、梨子は糸切り鋏で余った糸を切った。
「ほら、あとはこれでも飲んで」
さっちゃんは処理を途中で放り出したことなどなかったかのように、知らぬ顔で俺に錠剤を渡した。
「なにこれ?」
「抗生物質。ぶっちゃけるとこんなところでできる治療なんて大したことはないから。傷を縫って感染症防ぐくらいしかないから」
「痛み止めとかは?」
さっちゃんは少し考えて薬箱をひっくり返した。あ~あ、また散らかして。
「患者に言われて思いつく医師ってのはどうなんだ?」
「しょうがないじゃん! 私は薬剤師じゃないんだから」
そう言ってさっちゃんは俺に解熱剤を渡してきた。
と、そのとき大きな音を立てて保健室のドアが開かれた。勢いよく入ってきたのは聖だ。
走ってきたのだろう、聖は荒い息を吐きながら俺の頬を触った。
「……おい、聖」
聖は答えず、俺の下目蓋を下ろし、眼球を確認した。なんか、さっちゃんより聖のほうが医者みたいだ。
聖は一通り俺の状態を確認すると、ようやく一息ついた。
「どうやら感染の兆候はないようだな。雄太に聞かされてさすがに焦ったよ」
「気にしすぎだ」
聖は俺の肩に手を置き、そのまま顔を近づけて額と額をくっつけた。
「……頼むから脅かさないでくれ。肝が冷えた」
「大丈夫だって。俺のことを信用していないのか?」
「私は直以のことを信用している。だから心配しているんだ。今回だって間抜けな女をかばって傷ついたらしいじゃないか」
聖はそう言って肩に置いた手に力を入れた。目が眩むほどの激痛が走る。
「治療は終わったからはやくでていってね~」
さっちゃんはちっこい手を振った。俺は窓の外を見た。日は傾きかけ、茜色が学校中を包んでいた。
「これは、夕飯には間に合わないか?」
「大丈夫だ。雄太に言って人数分を図書室に持ってこさせている」
学校での夕食は日没前、言い換えれば電気の使えるうちに行うのがルールになっている。
班によるローテーションで食事を用意するようになってからは、時間にはかなりシビアになっていたのだ。
俺たちは保健室を出た。梨子は寄り添うように俺の傍に立っている。聖は落ち着いたのか、火をつけない煙草を咥えていた。
「梨子、聖。先に図書室に戻っていてくれ」
「え? 直以お兄ちゃんは?」
「俺は校長室。これ以上後回しにもできないし、須藤先輩に今日のことを報告してくるよ」
「私も一緒に行こうか?」
「いや、いいよ。おまえたちは先に戻っていてくれ」
そう言って俺はひとりで3階の校長室に向かった。
その前で、2人の女子に会った。どうやら同時に校長室から出てくるところだったらしい。
内藤と紅だ。
内藤は俺を睨むと、なにも言わずに(胸を揺らしながら)通り過ぎていった。
「直以先輩。怪我は大丈夫ですか?」
「ああ。さっちゃんに治療してもらったし、聖が言うには感染も大丈夫そうだ」
「そうですか、よかった……」
紅はいつもの鉄面皮を崩して柔らかい息を吐いた。
「今日のことは須藤先輩には報告済みです。直以先輩はもう休んでください」
「そうか。助かった」
紅は俺に頭を下げると、そのまま通り過ぎようとした。
俺は、それを止めた。
天井にはすでに星が溢れ、地平では赤と青の層が昼と夜を別っていた。
葉っぱの緑に混ざってわずかに桜のピンクが顔を覗かせている。
いつの間にか、春が終わろうとしていた。
俺と紅は屋上で沈む太陽を眺めていた。無言で肩を並べて、ただ、眺めていた。
紅にして見ればいきなり人気のないところに連れて来られて困惑していることだろう。
俺にしてみてもなにから切り出せばいいのかうまく整理できずにいた。
「……いい風ですね。私は屋上に出たのは初めてですが、悪くない場所です」
最初に口を開いたのは紅だった。紅の前髪は、涼やかな風に流されていた。
「ここは、ひとりになりたい時に来るんだよ。ソーラーパネルやら給水塔やらでごちゃごちゃしてるからな。人が集まらないんだ」
俺がそう言うと紅は軽く頷いた。
俺は、言葉を選びながら話した。
「その、紅。内藤の言ったことは気にするなよ。あいつも混乱していたみたいだしさ」
「ええ、大丈夫です。私は気にしていません」
「そう、か」
「あの人は平時の人です。私のやったことに彼女は日常が汚されたと感じたのでしょう。今の非常な中でなければ、日常であったならば私のやったことは有り得ない、許されないことですから」
紅はそう言って笑った。いつもの鉄面皮を崩したのではない。鉄面皮の上から、新たな面を被ったのだ。
俺には、それがわかってしまった。
「それに、あの人が須藤先輩に論破されるところはなかなか見物でした。須藤先輩も、感情的な内藤先輩に容赦しませんでしたから」
俺は、紅の右手を握って言い訳じみた言葉を止めた。
紅の小さな手は、震えていた。
「……すまない。俺のために人殺しをさせてしまったな」
「私は、後悔していません。もし明日同じ状況に遭ったなら、今日と同じことをするでしょう。だから、私は後悔していません」
言葉とは裏腹に、紅の震えは大きくなる。俺は、その震えを押さえるように、紅の手を強く握った。
「っ! 失礼します!」
紅はそう断ると、空いている左手を俺の首に回し、飛びついてきた。
反応する暇もなかった。
紅は、自分の唇を俺の唇に押し付けてきた。
キスと呼ぶにはあまりにも稚拙な行為。
唇と唇が、歯と歯が何度もぶつかり咥内に血の味が広がる。
それでも、紅は何度も何度も唇を押し付けてきた。
歯のぶつかる衝撃と切れた唇の痛みに慣れた頃、紅はようやく俺から離れた。
「失礼しました」
紅は左手の人差し指で俺の唇に付いた血を撫でると、自分の唇から出た血と共に舌で舐め取った。
年下とは思えない、ぞくりとする妖艶。
俺は、初めて鉄面皮の下に隠れる紅の本性に触れた気がした。
「私は、個人の意思は取るに足らない小さなものだと思っています。ひとりの意思と10人の意思。どちらが重いかは一目瞭然ですから」
「……俺とは違うな。ひとりを無視したら10人は成り立たない。10人はひとりが集まってできているんだから。その逆じゃないだろ」
俺は、紅に圧倒されそうになるのを必死で堪えた。
「ええ、わかっています。直以先輩が私とは違うことは。私とは、根本的に違っていることは」
紅はゆっくりと俺から手を離した。いつの間にか、紅の震えは止まっていた。
「私はまだまだ未熟です。取るに足らないはずの個人の意思。その最たるものである感情を未だに制御できないんですから」
紅は、いつもの鉄面皮に戻ると、俺に言った。突然、なんの脈絡もなく、紅は言った。
「直以先輩。私はあなたのことを愛しています」
「……へ?」
「これは私の意思です。取るに足らない個人の意思です。もし、あなたが全体の敵と見做されたのならば、私は躊躇うことなくあなたを殺します」
俺は、答えない。答えられない。正直、話の展開についていけなかった。
「ですが、私個人は、私とは違うあなたのことを見ています。そのことは知っていてください」
紅は無表情のまま俺に頭を下げると、俺の横を通り過ぎ、屋上から校舎内に戻っていった。
俺は、しばらく固まったまま動けないでいた。
いつの間にか、日は完全に沈んでいた。
「……手に負えないだろ、色々と」
俺は痛む肩を押さえた。
無償に、煙草が吸いたくなった。