ちびっ子ドクターさっちゃん
窓から差し込む灰色の光の中に、その子はいた。小学校の高学年くらいだろう、その子は、似合わない化粧をびっしりとして俺たちを出迎えた。
「よかった~、もう食べ物もなくなってどうしようかって思ってたんだよ」
女の子はほっと息を吐いた。俺は女の子の小さい頭を撫でた。
「もう大丈夫だからな」
「ぬが~~~!!」
少女は急に暴れだし、俺の手から逃れた。
麻里は、俺を突き飛ばして、少女と同じ目線になるようにしゃがんだ。
「安心して。お姉ちゃんたちが来たからもう大丈夫よ」
「こ、ここここ、こどもあつかいするな~~~!」
女の子は半円を描く軌道で俺たちから離れると、腰に手を当てて振り返った。
「き、きみたち! しつれーじゃないか!」
「……おい、麻里」
「難しい年頃なんでしょ。大人ぶりたいのね」
「ぎゃあああう!」
少女は足と手をばたつかせて暴れた。その所作はまるっきり子供のものだ。
「私は、外岡皐月。鈴宮市立病院の医師だ」
「そうか、さっちゃんだな。よろしくな」
「医者なんだぞ、偉いんだぞ!」
俺は室内を見渡した。
散らかった部屋だった。高級マンションらしく家具の配置はやけに整っているのに、脱ぎ散らかした服やらまるめたティッシュやらが散乱している。
さっちゃんは、それを助長するように箪笥を開けると服を乱雑に放り出した。そして、お目当てのものを見つけると、上から羽織った。
「ふふん♪ これでわかったっしょ?」
さっちゃんの着たものは、白衣だった。袖は余ってぷらぷらしているし、裾も引き摺っている。これはこれで、なかなか趣きのある格好だった。
「直以、これからどうする?」
「来た道を戻るのが無難だと思うが、それだと時間に間に合わないかもしれないなあ」
「無視するなあ~あ!」
俺はベランダに出た。真下に先ほど入ったコンビニがある。ここからイスを投げ飛ばしたんだろう。
「……さすがにここから下りるなんて言わないでよ。学校とは高さが違うんだから」
確かに、学校は4階建てだし、ここは8階だ。高さだけでも倍以上あるし、それに、下の階にゾンビがいたら対応は難しかった。
室内に目をやると、さっちゃんは、なにやら箪笥やら引き出しやらを引っ掻き回している。お目当てのものが見つからないようだった。整理整頓ができない子のようだ。
「高級マンションなら防災設備もしっかりしているだろう。それならあれがあるはずなんだけど……」
「あれ?」
「えっと、避難用の滑り台。下まで一気に行けるやつ」
「ああ。折り畳み式で、なんか筒状になってるやつね」
俺は隣の部屋を覗いた。もし滑り台があるなら、おそらく角部屋だろう。幸い、隣の部屋との敷居は取り外し可能だった。これならドアに鍵がかかっていても辿り着ける。
と、そこで眼前が塞がれた。目の前にはなにかのカード、それをさっちゃんが突き出したのだ。
「なんだ、保険証?」
俺は、そのカードを受け取った。えっと、外岡皐月、生まれの年から逆算して、24歳、24歳!?
「どうだ、まいったか!」
「いや、まいった。さっちゃんって年上だったんだな」
「さっちゃんゆーな!」
麻里も保険証を確認して俺と同じように驚いている。
「私たちより8歳も年上なの!? さっちゃん、お姉さんなんだね」
「だからこどもあつかいすーる~なー!」
「部屋の片付けがひとりでできるようになったらやめるよ」
俺は、敷居を調べた。なにか外し方があるのだろうが、俺にはわからなかった。
「さっちゃん、これ、外し方わかるか?」
「……さっちゃん言うな。ほら、ここがネジで留められてる」
「多分もっと簡単な方法があると思うんだが。それで、ドライバーは……」
俺は室内を見渡した。女の子のひとり部屋(半ゴミ屋敷)、もしあったとしても、すぐには見つかりそうにないな。なにしろ、保険証を探すのに手間取っていたみたいだから。
「まあ、いいか」
俺は金属バットを振り上げると、ネジの留まっている金具を殴った。金具は、3回ほど殴るとぐらついてきた。俺は、少し離れて助走をつけ、敷居を蹴りつけた。金具は外れ、隣の部屋との行き来が可能になった。
「ちょ、ちょっと! 器物破損、てゆーかひとんちこわさないでよ!」
「非常事態だよ」
「……ねえ、今ってどうなってんの? 外にいるあのゾンビみたいのはなんなの?」
「正直わからん」
そう言った後で俺は現状を話した。さっちゃんは、半信半疑ながらも黙って聞いていた。
「もう、びっくりしたよ。朝起きたらテレビも電気もつかなくて、そんでもって電話も通じないし」
「朝起きたら?」
「あ、ははは。前日に深酒しちゃってさ。起きたらもう日が暮れてた」
「朝じゃないだろそれ」
俺は角部屋に通じる最後の敷居を破壊しようとした。それを、麻里は止めた。
「……直以、気をつけて。いるわ」
俺も、言われて気がついた。かすかな息遣い、扉の向こうに、ゾンビがいる。
しかも、この感じは、中度感染者だ。
2日目に遭遇した動きの早いゾンビのことを聖に話すと、聖はそれをこう評した。
「今まで見てきたゾンビには、ある種の指向性が見られた。それは、極端な生存本能だ。
生きるために人を喰らい、そのことだけを目的としているように見受けられる。
それ以外の機能は、視覚も痛覚も、全て除外しているようだ。
話を聞くに、そのゾンビは痛覚が残っていたようだな。ならば、そのゾンビは、ゾンビになりきれていなかったのかもしれない。
ゾンビになる原因をなにかのウィルスとするのならば、感染の度合いの低い、中度感染者と言えるな」
敷居の向こうにいるゾンビ、それには他のゾンビにはない機微が感じられた。
幸い、というか、これで中度感染者は2人目だが、強敵であることには変わりない。
「さっちゃん。部屋に戻っていろ」
「え、なによ急に」
「いいから。呼びに行くまでこっちに来るなよ」
俺と麻里の緊張を感じ取ったのか、さっちゃんはなにか言いたげではあったが、部屋に戻っていった。
「それで、どうするの? 正面突破?」
「それしかないよなあ」
俺は、麻里を部屋の中に入れた。ベランダで一直線に並んでいては俺の身体が邪魔で麻里が狙撃できないからだ。
「部屋の中になんか使えそうなものないか?」
「あんたが使えそうなものはないわね。いいところ、台所の包丁くらいかな」
なにしろ、麻里はボールペンを凶器に変えるようなやつだからなあ。俺が使えないんじゃなくて麻里のスキルが特別なんだって話だ。
とりあえず俺は包丁を受け取り、ベルトに挿した。近距離では返り血が怖いが、投擲用になら使えるだろう。
「よっし、それじゃあ行くぞ」
俺は、敷居を留める金具を殴った。それとほぼ同時、曇り空が翳った。
「嘘だろ!」
ゾンビが、柵を乗り越えてこちらに来たのだ。
ゾンビは俺に覆いかぶさるように飛びついてくる。反射的に俺はしゃがんだ。絶妙のタイミングで麻里は援護射撃をしてくれる。俺は、射撃に怯んだゾンビの腹に肩から体当たりして、距離を取った。
そのゾンビは、女だった。
ゾンビになる前はさぞ美人だったのだろう女ゾンビは、下着姿で目を剥き出しにして俺を睨んだ。残念ながら、いくら下着姿であっても色気は欠片ほどもなかった。
「直以、室内に入って! その位置じゃ援護射撃ができない!」
「駄目だ! 部屋に入ったら2人とも狙われる」
俺は、腰の包丁を手にした。横では麻里がこちらに走ってくるのがわかった。
と、女ゾンビは俺から距離を取った。俺の前、女ゾンビの後ろで、微かな物音がしたのだ。
さっちゃんだった。ガラス戸を開けてこちらを覗いている。
女ゾンビは俺に背を向け、さっちゃんに向かって走った。
速い! さっちゃんは慌てふためいて動けないでいる。
俺は、包丁を投げた。包丁は女ゾンビには突き刺さらず、肩骨に当たって弾かれた。
痛みのために動きを止める女ゾンビ。さっちゃんはその間に部屋に戻ってガラス戸に鍵を閉めた。
女ゾンビは肩を押さえて再び俺に対峙した。
俺は、横を見た。
麻里も俺を見ている。
アイコンタクト。
ゾンビはわずかに前傾姿勢を取ると、俺に向かって走ってきた。
俺は後ろに飛び退いた。ほぼ同時に麻里はガラス戸を内側から割る。
女ゾンビは、ガラスの破片をもろに踏み、異様な悲鳴を上げて動きを止めた。
俺は、女ゾンビに言った。
「……俺、あんたタイプじゃないよ。肌が土気色しているところとかさ!」
俺はアッパースイング気味に金属バットを振り抜いた。女ゾンビは柵にぶつかり、そのまま勢いを殺せずベランダから落下していった。
俺は、ベランダから女ゾンビの落死体を見て言った。
「いや、悪い。肌の色で差別するのはいけないよな。血はゾンビも同じ赤色だし」
俺と麻里、さっちゃんの3人が地上に降り立ったとき、タイミングよく聖たちの乗った車が到着した。
俺は、聖を助手席から引き摺り出した。
「さて、牧原聖。言い訳は喋れるうちにしておけよ」
「ま、まて直以。クラクションは必要だったのだ! なにか合図を送らないと立て篭もっている人たちに気づかれないではないか、いだだだだだ!」
俺は、人差し指で聖の鼻を思い切り押し上げた。実は鼻の付け根は急所で、ここを下から持ち上げるのはけっこう痛かったりする。肉体的にも、豚鼻になるので精神的にもだ。
「直以先輩。生存者はこの子ひとりですか?」
俺は聖への体罰を中断し、紅に向き直った。
「厳密に調べたわけじゃないけどな。こいつはさっちゃん。24歳だ」
さっちゃんは、余った白衣の袖で俺の顔をぶった。まるっきり痛くない上に、背伸びしているのが微笑ましかった。
「なぜ年齢をばらすのよ! れでぃの歳については黙秘しなさいっちゅーの!」
「子供扱いされたくないんじゃなかったのか?」
「そー言えば私、きみの名前を知らないよ」
「ああ、そういえば名乗ってなかったっけか。俺は菅田直以。鈴宮高校の2年だ。この肩書きにどれだけ意味があるのかはわかんないけどな」
俺たちは一通り自己紹介をすると、さっちゃんは、言った。
「それで、さあ。なにか食べ物ない? 私、昨日の夜からなにも食べてないんだよね」
「車に梅と塩のおにぎりがあるよ」
「……私、梅干嫌い」
こいつ、大人なのは年齢だけだな。中身も見た目もガキんちょだ。
「それじゃあ、コンビニでなんか見繕って来い。弁当とかは駄目だけど、缶詰とかなら食えるだろう」
「缶詰~、カニ缶~♪」
ひとりでふらふらとコンビニに入っていくちびっ子。その後を保護者のように麻里が付き添った。
「俺もカニ缶食いたいな」
「私たちには梨子くんの手作りおにぎりがあるからな。カニ缶はまた今度にしよう。それより、直以。気付いているか?」
「……当たり前だろ」
俺は辺りを見渡した。
閑散とした街、それは、クラクションを鳴らす前と同じ状態だった。クラクションに反応して道にあふれ出てきたゾンビが、ひとりもいないのだ。
「ゾンビはどこに行ったか、というと、建物の中に戻ったってことなのだろうな。理由は、正直私にもわからない。ゾンビが持つ習性のようなものかもしれない。だとすると、学校にいたゾンビとの相違性も気になってくるのだが……」
「私と牧原先輩はさきほど車で市内を見て回ったんですが、やはり路上には数えるほどのゾンビしかいませんでした」
「生存者は?」
「いえ。見当たりませんでした」
コンビニを見ると、カゴいっぱいの荷物を両手で抱えてさっちゃんと麻里が出てくるところだった。なぜかさっちゃんはおむずかりだった。
「きみたち、おかしいよ! なんでお金払わないのよ!」
「あ~~。ごもっともではあるな」
「百歩譲ってお金を払わないのはいいわよ。でも、なんでお金を盗まないのよ!」
「あ~~。ごもっともではないな」
俺は聖と顔を見合わせた。
ゾンビ発生からすでに4日が経過している。たったそれだけの期間で、俺たちは金銭に価値がないことを本能的に悟っていたのだ。
レジに見向きもしなかったし、言われるまで気付かなかった。
しかし、金を盗むって、このちびっ子……。
と、そのとき、地面が濡れた。雨が降ってきたのだ。
「あっちゃあ。ついに降ってきたなあ。とりあえずみんな車に乗れ」
俺たちは車に乗り込んだ。基本の配置は先ほどと一緒。後部座席の真ん中にさっちゃんがいることだけが違いだった。
雨は、あっという間に本降りになった。紅はワイパーを動かした。
「それで、これからどうします? 一度学校に戻りますか?」
「……いや、救助するたびに学校に戻っていたらキリがない。このまま調査を進めよう」
「わかりました」
紅は車をゆっくりと走らせた。
「こら、さっちゃん! 鯖缶のたれをこぼさないでよ!」
「しかたないでしょ、車が揺れるんだから……あ~~! なんで横から食べるのよお!」
「ふむ、鯖缶か。食わず嫌いだったな。なかなかおいしいじゃないか」
後ろはずいぶん姦しいな。
「直以先輩。次はどこに向かいますか?」
「市内にある広域避難場所を回ってみよう。聖、他に回るところはあるか!」
「鈴宮病院、それに警察署だ」
「ここから一番近い避難場所は鈴宮市役所ですね。そこに向かいます」
俺はバックミラーで後ろを見た。女どもは騒がしくコンビニから略奪してきたおかしなどを食べている。
昼には少し早いが、俺はおにぎりを食べることにした。
「ほら、後ろの2人、食えるうちに食っておけ」
俺は聖と麻里におにぎりを渡した。
「ほら、紅。おまえも」
「ありがとうございます。ですが運転中なので後ほど頂きます」
「食べさせてやろうか」
途端、車が揺れた。後ろでは女3人がドミノ倒しになっていた。
「……失礼しました。おにぎりは、手が空いたら頂きますのでお気になさらず」
「……ああ、わかった」
俺は、紅をからかったことを後悔しつつ、おにぎりを食べた。
梨子の握ってくれたおにぎりはびっくりするほどおいしかった。