始まり
膝を折り、全身をバネにして垂直に飛び上がる。
指先を伝い、回転を加えて放たれたボール。
緩やかな弧を描き、ゴールに向かっていく。
そしてリングに当たり、弾かれた。
「あれ?」
俺、菅田直以は試合終了のホイッスルを聞き、バスケットコートを後にした。
「菅田、決めろよ」
「おまえ、本当に元バスケ部員か?」
文句を述べてくるクラスメイト兼チームメイトを無視し、俺は小首を傾げながら体育館の壁に寄りかかった。
「お疲れ。でも最後のシュートは決めようぜ」
俺は、声をかけてきた男に苦笑を返した。
この、長身のイケメンは木村大地、バスケ部のエースで俺の幼馴染だ。
俺は手首を曲げ、シュートのフォームを作ってみせた。
「入ると思ったんだけどなあ」
「怠けすぎだろ。試合中、ノーマークであの距離を外したら袋叩きだぜ」
「俺がバスケ部辞めてどれだけ経つと思ってんだよ」
バスケットコートでは次の試合が始まっている。
時間からいってこの試合が最後だろう。
横を見れば人目を気にせずくっちゃべるご同輩、注意すべき体育教師は隣のコートを使う女子生徒を見ていた。
窓から外を見てみる。桜のピンク、空の青。実にのどかな季節だ。
つい先日、俺たちは高校2年になっていた。
とくに変わるでもない日常、学年がひとつ上がってもやることは変わらない。
朝起きて学校に通い、帰って寝る、それだけだ。
俺は深呼吸して春の空気を吸い込むと、歩き出した。
「どこ行くんだ?」
俺は大地に答えた。
「サボるわ。次の授業は生物だったろ?」
「部活辞めてからどんどん曲がっていくな。鍛え直してやるから戻ってこいよ」
「全否定する気はないけど、うちのバスケ部で精神修養できるとは思えないね」
俺はそのまま体育館の出口に向かっていく。
その途中で嫌なやつらに会った。
体育をサボっている5人ほどの女子の集団だ。
そいつらは俺を見つけると、会話を中断して、俺を睨みつけてきた。
「ねえ、なにか臭くない?」
わざとらしい大声でそう言ったのは集団のリーダー格、伊草麻里だ。セミロングの髪を緩く茶髪に染め、校則違反にならないレベルで化粧をしている。
こいつは、2年で同じクラスになってからなぜか俺を目の仇にしているのだ。
俺が無視して通り過ぎようとすると、伊草は血相を変えて立ちはだかってきた。
「……なんだよ」
「あんた、死んでくれない? 私、あんたと同じ空気を吸っているってだけで我慢できないのよ」
俺は、思わず苦笑してしまった。ひどい言われようだが、これが初めてじゃない。顔を合わせるたび、毎度のことなのだ。
伊草は俺の苦笑を挑発と取ったのか、おもいきり睨みつけてきた。
「なに笑ってんのよ! きもいのよ!」
「俺、おまえになんかしたっけ?」
「そんなこともわからないの? いい加減自覚してよね、あんたは存在自体が邪魔だって。頼むから私たちの前に出てこないでよ」
伊草の後ろにいる取り巻きも相槌を打ってくる。
たぶん、俺は怒ってもいいだろう。だが、正直こいつらの相手はしたくない。なにをやっても不快感しか残らないのはわかっているのだ。
俺は、無言で伊草の横を通り過ぎた。伊草はなにやらわめいていたが、俺は無視した。
更衣室で制服に着替えている頃、チャイムが、俺の高校生活最後の授業が終了した。
俺は着替えるために入ってくるクラスメイトと入れ違いに更衣室を出た。向かう先は教室ではなく、屋上だ。
ここ、鈴宮高校は地元の鈴宮市が環境都市を標榜していることもあり、エコロジーに気を使った学校ってことになっている。
具体的に言うと、屋上にはソーラーパネルが敷き詰めてあり、電気は自家発電で補っているってこと。
もちろんソーラーパネルのある屋上は立ち入り禁止だ。もしも立ち入り禁止でなくてもソーラーパネルと無駄に多い給水塔でごちゃごちゃした屋上には開放感はなく、人気はなかっただろう。
だけど、俺に言わせれば人気がないってことは重要で、ひとりで物思いにふけりたいときなんかは絶好の場所なのだ。
屋上への扉は鍵が閉まっていてそこから屋上に出ることはできない。
ならば、屋上に出ることができないのかというと、そうはならない。扉の横には窓が付いているのだ。
当然窓は内側に鍵が付いており、開閉は自由にできるあたり、うちの学校の緩さが窺える。
俺はすでに開いている窓に身を滑らせ、屋上に出た。
屋上にはすでに先客がいた。
柵にもたれかかり、ウェーブのかかった長髪を地上に垂れ流しているこの女は牧原聖。去年同じクラスだった問題児だ。
聖は問題児らしく口から煙を燻らせている。俺と目が合うと、口に咥えた煙草を噛み、にやりと笑った。
「やあ直以。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
俺は、聖の足元に散らばる煙草の吸殻を見て言った。
「メンサ、いつからここに居たんだ?」
聖は眉間に皴を寄せた。
「その呼び名、やめてくれと言っているだろう? 逆差別というものだよ」
問題児というのは、大別するなら2種類あると思う。ひとつは俺のように出来が悪いやつ。そして、もうひとつは聖のように出来が良すぎるやつ。
聖は、そのあだ名からも分かるとおり高IQ集団に所属する天才児だ。教師連も聖以上の知識の持ち主はおらず、なにか言っても論破されるため、腫れ物のような扱いになっているのだ。
ちなみに、こいつの学内順位は1位ではなく5位。これはわざとで、秋の期末で3位になったとき、心底悔しがっていたのをよく覚えている。
俺と聖は、同じクラスだったこともあり、嫌われ者同士で馬があったということかそれなりの交友関係を結んでいる。
学外で遊ぶということはないが、学内では、俺と聖、あとやはり去年同じクラスだった問題児、青井雄太と3人で一緒にいることは多かった。
俺は聖に並んで柵に寄りかかり、聖の口から煙草を取って咥えた。聖は、特に文句を言うでもなく新しい煙草を取り出して火をつけた。
しばらく2人で煙草を燻らせる。2本の煙が空に向かって伸び、消えていった。
「……聖」
俺は、聖を見ずに言った。
「おまえ、臭い」
聖はゆっくりと首をこちらに向けた。口から煙草を外して答える。
「相変わらず文句の多いやつだな。君が私を煙草臭いというから気を使ったんだろう?」
聖の臭いの元は、香水だった。香水というのは体臭と混ざって個々人特有の匂いになるらしいが、それが体臭ではなく煙草と混ざった聖の臭いは最悪だった。
そういえば先日、俺はこのニコチン中毒者に制服にまで染みた煙草の臭いをなんとかしろと言ったっけ。
「それで、どうだったんだい?」
「ん? なにがだよ」
「前の授業。君のクラスは体育でバスケットだったろ?」
「……なんで知ってるんだよ」
「全クラスの時間割くらいは暗記しているからね」
俺は、柵から身体を起こし、携帯灰皿に咥えていた煙草を入れた。
「別に、どうということもないただの授業だったよ」
「相変わらず未練たらたらだな。そんなにバスケに拘っているのなら、部活に戻ったらどうだい?」
「冗談。今更戻ってどうするんだ?」
「直以は不器用だからねえ。渋沢の言うことなんて、聞き流しておけばよかったのに」
渋沢とは、バスケ部のコーチ兼数学の教師だ。俺は、まあ、こいつと合わなくて部活を辞めたという経緯があるのだ。
聖は口に咥えていた煙草を吐き捨てた。
俺はそれを空中でキャッチして携帯灰皿に入れる。
聖は胸元から新しい煙草を取り出した。
「吸いすぎだ。歯茎が黒くなるぞ」
「……君は人のことが言えるのか?」
「俺は咥えているだけで肺に煙を吸い込んでいないからな」
聖はキンと蓋を開けてジッポライターに火をつけると、しばらく眺めて、パチンと蓋を閉めて火を消した。
それと、ほぼ同時だった。
空気が振動した。
次いで聞こえる音響は、爆発音だった。俺と聖は柵から身を乗り出し、音のした方向を見た。
それは、どこか非現実的な光景だった。
街のところどころから立ち上る黒煙。ただ、それだけが加わった屋上からの景色は、明らかに異常を知らせる光景だった。
しばらく聖と肩を並べてただ景色を見ていると、後ろで音がした。振り返ってみると、窓から落ちたのか、顔色の悪い男子学生がうずくまっていた。
「……大丈夫か?」
俺は男子学生に近寄った。
途端、男子学生は土気色の顔を上げ、飛びついてきた。
俺は、反応できずに仰向けに倒された。
にちゃりと、唾液に塗れた男子学生の口が開いた。男子学生は俺に馬乗りになったまま俺の顔に口を近づけてきた。
「!」
俺は、身体を捻り、迫る男子学生の顎に肘を叩き込んだ。寝転んだ状態では大して力は篭らなかったが、男子学生の軌道は逸れ、男子学生の顔は屋上のコンクリートに突っ込んだ。
俺は馬乗り状態から脱出し、立ち上がった。
「……どういうつもりだ?」
倒れたままの男子学生に声をかけるが返事はない。
男子学生は、ゆっくり立ち上がった。前歯は折れ、鼻からは血を垂れ流している。それを拭おうともしない異様さに、背筋に寒気が走った。
「なんだ、こいつ?」
男子学生は再び迫ってくる。俺は、カウンター気味に全体重を乗せて男子学生を殴った。男子学生は、大きく揺れたが、倒れることはなく、俺の肩を掴んできた。
学生服の上から男子学生の指が喰い込む。異常な握力、もはや、人間のものとは思えなかった。
ふっと、影が躍った。
聖だ。
聖は男子学生の背後に回ると、髪にジッポで火をつけた。
男子学生の脂ぎった髪は一気に燃え上がった。
男子学生の指が一瞬緩み、俺は男子学生の手から逃れた。
俺は掴まれた肩を擦りながら言った。
「聖、さすがにやりすぎだ」
「……そう思うか?」
聖は緊張感を保ったままそう言った。
俺も息を呑んだ。男子学生は、頭から炎を上げながら、俺たちに向かってきていたのだ。
炎は髪から学生服に移り、男子学生全体を包んでいる。それでも、男子学生は動いていた。
「こいつ、なんだ?」
「どういう答えをお望みかな?」
「俺でも理解できるやつ」
「なかなかハードルが高いな。私でも理解できていないんだから」
俺は聖の手を掴んだ。これは、やばい。とにかく逃げなければ。そう思い、走りだそうとした、そのときだった。
街で再び爆発が起こった。その音に反応するように、男子学生は柵に向かい、やがて崩れるように倒れて動かなくなった。
俺たちはおそるおそる男子学生に近づいた。
男子学生は煙を上げて倒れている。
「……さすがに力尽きたか」
そう言った聖の顔色が変わった。死んだと思った男子学生に足を掴まれたのだ。
男子学生はゆっくりと身体を起こし、聖を押し倒した。
俺は、切れた。
「しつけえんだよ!」
屈んだ男子学生の腰を掴み、振り回して柵にぶつける。そして、そのままラグビーのタックルのように下半身を持ち上げて、屋上から落とした。
地上に落ちた男子学生は潰れ、今度こそ動かなくなった。
俺は荒い息を吐いて柵にもたれかかった。
「直以……」
聖が俺に寄ってくる。俺は無理やり笑顔を作って言った。
「聖、大丈夫だったか?」
「ああ。私はなんとか……」
それを聞いて俺は、崩れ落ちようとした。だが、できなかった。三度街から爆発音が響いたのだ。
それに呼応するように響き渡る悲鳴。これは、近い。校舎からだ。
さらには校庭。そこでは、つい今まで自分たちが体験した光景が溢れていた。
土気色をした学生が、他の学生を襲っているのだ。
聖は、煙草を咥えた。そのまま、火もつけずに屋上からの光景に見入る。
俺は、自分の顔を撫でた。その口元は、歪に吊り上っていた。
それがなんの笑みなのか、自分自身にもわからなかった。
後書きはどぶねずみの執筆上の話(つまりは愚痴)を書こうと思います。不快に思われる方はどうぞ読み飛ばしください。