窓の中の少女
今回は病弱な少女と丈夫な青年のお話です。
ひょんな事から知り合いになった彼ら。
出会いは二人を、少しずつ変えていくようです。
俺が彼女と出会ったのは、もう半月も前の事だ。
いや、出会ったというのは正確ではない。その時はただ、此方が一方的に見かけただけだったのだから。
場所はとある町の総合病院。そこに知り合いが入院したというので、俺は律儀にも見舞いに行った。存外、彼の怪我は大した事無くて、適当に雑談を交わすと早々に退出した。なんとなく昔から病院は苦手で、さっさと立ち去りたかったからである。
しかし、その時何故か、俺は中庭に目を向けてしまった。一刻も早く、帰りたかったはずなのに。そこの中庭は整備が行きとどいていて、色とりどりの花が咲き乱れており、美しかったからかもしれない。兎に角、何気なく俺は見てしまった。するとそこには、こいつら本当に患者なのかと疑いたくなるほど元気に駆けずり回っている少年達と、のんびりと花を愛でる老人達の姿があった。それだけならば、普通の病院と何ら変わらない。
だが、そこには件の少女が佇んでいたのだ。見るからに儚げで、存在感の薄い少女が、どの輪からも離れて、一人ぽつんと。それだけに、彼女の姿は病院の真白い壁に囲まれ、籠の中に捕らわれた鳥のようにさえ見えた。
悲しいかな。その光景は、良く出来た絵画のようだった。
しばらく、俺はその場から動けないでいた。少女から受けた印象があまりにも強かったからかもしれない。けれどもはっとなって、俺はそそくさとその場から逃げ出した。周りの目には、大層奇妙な人間に見えた事だろう。それを考えると、羞恥心に殺されそうだった。
だからだろうか。それからは極力、この事は考えないように努めた。どうせ、俺は病院とは縁遠い人間だ。もう関わる事もないだろう、そんな風に思っていた。
まさか、こんな短期間の間に再び会う事になるとは、思ってもみなかったけれど。
「ちょっと、何をぼーっとしているのよ」
「すみません……」
次に会ったのは、俺が看護師にあらぬ嫌疑を掛けられた時だった。所謂、濡れ衣という奴である。
つい数日前の事だ。少しドジをして、具体的には願かけをしに行った神社の階段から滑り落ちて、足を骨折してしまい、俺は入院を余儀なくされてしまった。それでも三日も経つと、ベッドに寝ているのが暇で暇で仕方ない。そこで、松葉杖を片手に病院を探索していたら、あろう事か俺の目の前で硝子が割れ、おいおいどうしたんだと野次馬根性でえっちらおっちら見に行ったら、そこを偶然通りかかった看護師に疑いを掛けられてしまったのである。
「もう、いくら元気になったからって、ちょっと乱暴が過ぎるんじゃない?」
この年嵩の看護師は、最初から俺を犯人だと信じて疑わないらしく、くどくどと説教にかかっている。一方の俺は、自分の容疑を晴らすものを何も持っていない為、弁論も出来ない。犯人の姿を見ていれば良かったのだが、生憎と逃げ足が早かったらしく、俺が見た時にはそれらしき人物はいなかった。
元々、いかつい顔とごつい体格の所為で、昔からよくこのようなトラブルに巻き込まれては、見も知らずのおじさんおばさん達に怒鳴られていた。実際に俺が原因だった事は、一度としてないのに。
まぁ、そんなんだから、こういう事には慣れていた。相手が怒り狂っている時は、言い返さずやり過ごすのが一番。だからじっと、俺は看護師の金切り声に耐えていた。その時である。
「よしたまえ」
廊下の奥の方から、少女の声が聞こえた。澄んだ鈴の音のような、愛らしい声である。しかしその音の割には、その台詞や声色は落ち着きはらっていた。
「彼は犯人ではないよ」
独特の機械音に振り返ると、そこには車椅子に乗った少女がいた。年の頃はせいぜい十を数えるかどうか、といった所か。亜麻色の長い髪を携え、ふわりとしたワンピースを身にまとった、可愛らしい少女だった。
ただ一つ、彼女が漂わせる死の気配と、どこか達観したような雰囲気を除いては。
「あなたは……」
突然の彼女の登場に俺は面喰っていたが、看護師は顔見知りだったらしい。ほんの少しだけ怯えるような表情をしながら、彼女は少女に尋ねた。
「どうして、そんな事が言えるの?」
「簡単な事さ」
彼女は歪んだ笑みを口元に浮かべ、俺の方をちらりと見てから、己の推理を披露した。
「彼は右手を痛めている。それでは、硝子を割るどころか、物を投げる事も出来ないだろう」
これには看護師も、それに俺も驚いた。
「どうして、それを」
「普通、片足を骨折した場合には松葉杖を二本使う。しかし、片手を痛めているとなれば話は別だ。片方になる。ちょうど、彼のようにね」
確かに、俺は足を折った時、同時に腕も痛めた。ちょうど、半身が下になるように階段から転がり落ちてしまったからである。成程、見事な洞察力だ。俺は少女の心眼に、素直に敬服する。
「大方、杖を一本しか持っていない事で、片方の手は自由だと安直に考えてしまったのだろうが、現実はそう上手くはいかないのだよ」
「……でも、体を支えるぐらいなら出来るんじゃないかしら」
だが、それでも看護師は俺への疑いを晴らしてくれないらしい。人間というのは、一度こうと決めてしまうと、なかなか他の考えに納得できない生き物なのである。
けれどもそんな屁理屈にも動じる事無く、彼女は更に驚くべき事を言ってのけた。
「主ともあろう人が、そんな阿呆な事を言うのかい?」
「どういう意味よ」
「確かに、直立するぐらいであれば、痛めた方の腕でも杖を支える事ぐらい可能であろうな。しかし、今回彼にかけられた容疑は器物破損。もし彼が犯人だとすれば、不安定でいつ倒れるかも分からない体勢で犯行に及んだ事になる。さて、ここで質問だ。彼にどうして、そこまでする必要がある?」
ずばりと矛盾を指摘され、俺は感心するどころか、薄ら寒いものまで感じていた。成程、これが少女の独特の雰囲気を形成している原因らしいと、俺はこの時直感する。
呆然とする看護師に、彼女はさらりと止めを刺す。
「さぁ、これで分かったろう。早いとこ真犯人を探したまえ」
一度はそう言ったものの、窓の外の景色を見て、少女は考えを改めた。
「……いや、その必要も無いようだ」
彼女が指差す方を見ると、そこには別の看護師に怒られている少年達の姿があった。
「あら……。ごめんなさいね、早とちりしちゃって」
「いえ。別に、慣れてますから」
こうして、看護師とは無事に和解した。同時に、これからはあまりもめごとを起こさないよう、大人しくしておこうとも思った。
さて、色々思う所はあるが、助けられた事には変わりは無い。俺は、今出来る限りで深々と、少女に頭を下げた。
「ありがとう」
彼女は此方をぴくりとも見ないまま、車椅子をひるがえして去ってしまった。
それから割とすぐに、俺は退院した。こういう時、体が丈夫だと助かる。いや、そもそも怪我をしなければ良いという話なのだが、それは置いといて。
しかしどうしても気になって、俺は通院がてら少女を訪ねる事にした。
「あ、いたいた」
奇しくも、少女は最初に俺が見た中庭で、またもや一人でひっそりと佇んでいた。
彼女は、突然声を掛けられた事には驚いたようだったが、俺の顔は覚えていてくれたらしい。
「主か。怪我はもう良いのかね?」
「おかげさまで。本当、あの時は助かったよ」
興味が無いとでも言いたそうに、彼女は顔を横に背けた。けれども俺は、それが照れ隠しのように見えて、なかなか可愛らしい所もあるじゃないかと少し安心する。
「という訳で、ほい」
わざわざ恥ずかしい思いをしてまで用意したのは、無駄じゃなかった。俺は足が治った事をアピールする為にも、かしづいてそれを差し出す。それは、彼女が今立っている場所にも植えられている、朝顔の花束だった。なんとなくだが、少女はこの花に思い入れがあるのではないか、そんな風に思ったからだ。
もっとも、朝顔は鉢植えが主流であり花束にはしないらしく、店員に笑われてしまったのは内緒である。
「……礼には及ばない、と言ったら?」
「そうすると、俺は振られてなくなく帰っていく事になる。この花もきっと、しおれてしまうだろうな」
彼女はほんの少し、顔をしかめた。でも、それも束の間、
「……勘違いするな。花が哀れだっただけだ」
すっと、花束を受け取ってくれた。それで全く、構わなかった。
だが俺は、少女が花を受け取った時にかすかに微笑んだ事を、見逃したりはしなかった。
それからというもの、暇を見つけては、俺は少女に会いに行くようになった。彼女がそれをどう捉えていたのかは分からないが、少なくとも邪険にはされていない、と思っているので何となくずるずると続けている。
少女と会う時は、もっぱら中庭だった。ただでさえ顔色が悪い彼女だ。俺はこんな暑い中外に出ていて大丈夫なのかと何度も問うたが、その度に返ってくる答えは一緒だった。
「出られる時に、この目に焼き付けておきたいのだよ」
それを聞く度に、俺は何とも言えない気分になった。
ならばせめてと、俺は彼女に日傘とスタンドをプレゼントした。これならば車椅子にもセット出来るし、直射日光を避けられる。だがこの贈り物は、あまり気に入られなかったようだ。彼女曰く、
「日差しを遮る事は、太陽からの恩恵を冒涜する事だ」
だそうなので。それでも心配なので、彼女と一緒にいる時は木陰を選んで話をしていたが。
少女との会話は常に、ぼんやりとしたおぼろげなものだった。彼女が適当に、最近あった事を話し、俺がそれに相槌を打つ。今度は俺が近況を報告し、彼女は黙って聞いている。概ねそんな所だった。だから、全てを思い出せと言われても俺には出来ないだろう。多分、中身はさして重要では無かったのだから。
彼女と話している最中には時折、猫やら鳥やらが寄ってくる事があった。少女はどうも、動物に好かれやすい体質らしい。彼らが頭や膝の上に乗ってくる姿が何とも微笑ましくて、俺はつい笑ってしまっていた。
ところが、これからしばらく経って、彼女は壁の内側に引き戻される事となった。容体が悪化したのである。
その事を小耳にはさんだ俺は、すぐさま少女の病室へと向かった。その時にはもう、彼女は硝子の向こう側の住人になっており、俺はいたたまれず、何も言えなかった。
そんな俺の様子を見て、少女はいつものように、口元を歪めて笑う。
「今お主、我の事を儚いと思っただろう。笑止。我に言わせれば儚いのはお主らじゃ。たかだか百年、生きながらえるのがやっとのお主らに、心配される筋合いはないわ」
彼女はしばしば、自分の事をこのように、人外だと形容して話す事があった。そしてそれは大抵、少女が強がっている時だとも、俺はよく知っている。
「そんな事言うなよ。寂しいじゃないか」
情けない話であるが、俺が彼女に言えた台詞は、たったこれだけだった。それだけ、彼女の姿は痛々しく、目に映ってしまったのである。
病室から帰る途中、例の看護師に会った。
「あら……」
相手も俺の事を記憶していたらしく、どうもと会釈で返した。すると、肩を落としている俺を心配してか、看護師はそっと、その胸の内に秘められた話を明かしてくれた。
それは他でも無い、あの少女の話だった。
聞くと、彼女はずっと、この病院で育てられているとの事だった。なんとなくそんな気はしていたが、少女は生まれつき体が悪かったのである。それから今まで、外の世界に出た事が無い。両親はといえば、母は彼女を産んですぐにあの世へ、父親はとんずらこいたのだという。病院で育てられているというのは比喩では無く、文字どおりの意味だったのだ。
また、あの独特の喋り方は、彼女の相手をしていたお婆さんを真似しているようだとも、看護師は教えてくれた。そのお婆さんも、一年程前にお亡くなりになったらしい。なんともまぁ、世知辛い世の中か。
訃報の知らせを聞いても、彼女は涙一つ流さずに、平然としていたようだ。その姿を見て、ますます人々は気味悪がったが、看護師は彼女の手が固く握りしめられているのに気が付いてしまったのだとか。それ以来、彼女の少女を見る目も、少し変化したらしい。そうでなければ、見ず知らずの男にこんな事を話したりはしないと、身も蓋もない事も言っていた。
少女について、彼女はこうも話していた。
「あの子はただの女の子よ。ただ、人より少し賢くて、誰よりも多く、人の死を見ただけの」
だから、これからもあの子の所に来てあげてね。そう頼まれ、俺はしっかりと頷いた。
以前、硝子の箱に入れられる前に、彼女はこんな事を言っていた。
「窓硝子を通して見る景色はな、我にとっては絵画なのだよ」
また突拍子もない事を、とは思ったが、いつもの事なので俺も自分なりの意見を示す。彼女にとっては、人の考えを聞く事それこそが、このような質問の醍醐味のようだった。
「あー、窓枠が絵みたいだからか?」
「そうではない。言葉で表現するのは難しいが……。そうだな。絵は人の目を通して描かれ、再び人の目に映されるだろう?」
「ああ」
「それと同じ事が、これには起こっているのだよ」
「んー?」
しかしこの日の少女の高説は、いつにも増して難しいものだった。俺は頭をひねる。
「えーっと、硝子のキャンバスに一度映された景色が、再び俺達の眼に映るからか?」
「惜しいな」
一旦はそうぶった斬ったものの、
「硝子のキャンバス、というのは良い表現だ。気に入った」
そう、嬉しそうに笑みを浮かべた。この表情の変化は、おそらく俺にしか分からないぐらいに、小さなものだったけれども。
「そりゃどうも」
彼女は少し考えてから、俺に特別にヒントをくれた。
「窓硝子。その特性をよく考えてみたまえ」
あの時は、どんなに考えてもよく分からなかった。でも、今ならそれが分かる気がする。
硝子の性質。硝子にだけある、特別な性質、と言った方が分かりやすいだろうか。つまりは、あれは光を通すだけでは無く、自分をも映し出すのだ。景色と共に映った、自分の瞳。それを見る事によって、景色は絵画へと昇華する。自分が見た世界を、再びその目に映す事によって完成する、自分だけの、自分の為の絵画なのだ。
でも彼女は、それを俺にも教えてくれた。きっと、少女は俺にも見せてくれる気になったのだろう。自分の世界を、ようやく他人と共有する気になったのだ。……なんて、考えが過ぎるだろうか?
そして今日も、俺は少女の元へと足を運ぶ。窓の中にいる、淡く儚く、しかし確かな存在感を持った、彼女の元に。
彼女の眼には一体、窓硝子の中と外、どちらが映っているのだろう。そんな事を、考えながら。
最近、動物メインの話が減っているような気もしないでもないですが。
人間と人間だって良いじゃないと、むしろ絆の方に重点を置いて書いております。
夏の終わりの物悲しさを、ほんの少しでも感じていただければ幸いです。