十年の戦を終わらせる調印式で、国璽の獅子の左耳が白くないと気づいたのは「余計な口をきくな」と言われたわたしだけでした
「今日は余計な口をきくな、ヨゼフィーネ」
王宮へ向かう馬車の中で、婚約者のギデオン様は、白い手袋の指を一本ずつ引っぱって伸ばしていた。
「十年の戦が終わる日だ。北のスヴェルカ王国の宰相が来る。陛下が国璽を押す。僕はその国璽の箱を、鏡の間の真ん中まで運ぶ。父上が式部卿として僕を推してくださったんだ。わかるだろう? 一生に一度の役目なんだよ」
「はい。おめでとうございます」
「それから」
ギデオン様は手袋から目を上げずに続けた。
「君の母方の祖父が、石工通りで判子を彫っていたことは、誰にも言うな。カスタール侯爵家の嫡男の婚約者が職人の孫だなんて今日だけは知られたくない」
判子、とギデオン様は言った。
祖父のアントンが四十年、王宮の御用を務めた印章彫りだったことを、この人は知っている。知っていて、判子と言う。
わたしは膝の上で指を一本だけ折り曲げた。右手の人差し指。第一関節の内側に、小さな硬いたこがある。彫刻刀の柄が当たる場所だ。手袋の上から触っても、まだわかる。
「……承知しました。今日は何も申しません」
「それでいい。君は黙っていれば、子爵家の令嬢に見える」
見える。
わたしは窓の外に目をやった。王都の大通りに、青と灰色の旗が交互に並んでいる。青はこの国の色、灰色はスヴェルカの色。十年のあいだ、この二つの色が同じ通りに並んだことは一度もなかった。
子爵家の長女、ヨゼフィーネ。十九歳。
八つの年に母が亡くなるまで、わたしは一年の半分を、石工通りの祖父の店で過ごした。
店の奥には、窓の下に低い作業台が一つ。台の上には、大きさの違う彫刻刀が二十本、柄の色ごとに並んでいた。祖父は朝から晩までそこで石を彫った。玉、瑪瑙、象牙、柘植。王宮の役人の印も、商家の屋号の印も、田舎の村長の印も。
「ヨゼ、印というのはな、その人の顔なんだよ」
祖父は彫り終えた印に朱をつけて紙にぽんと押してみせた。
「顔は、その人がいなくても、その人の約束を守る。だから、彫る者は嘘をついちゃいけない。一本の線もだ」
わたしは祖父の膝のそばで、彫り上がった印を砥の粉で磨く係だった。小さな手で、くるくると、何百個も磨いた。
母が亡くなったあと、父はわたしを石工通りへ行かせなくなった。子爵家の娘が職人の店に出入りするものではない、と。
それでも、わたしは月に一度、こっそり祖父の店へ通った。十四の年に、祖父の手が震えるようになってからは、祖父の代わりに刀を握った。祖父は台の横に座ってわたしの線を見ていた。
「いい線だ。わしより、まっすぐだ」
三年前の冬、祖父は作業台の前の椅子で眠るように息を引き取った。
石工通りの店はいまは閉めたままになっている。鍵はわたしの首に下げた細い鎖の先にある。
鏡の間は壁という壁が鏡だ。
天井から下がる三つの大燭台の光が、鏡の中で何百にも増えて広間全体が昼より明るい。床の真ん中に、白い布をかけた長い卓が一つ置かれ、その上に、条約の羊皮紙が二枚、並べて広げてあった。
卓の東側に、この国の国王陛下と重臣たち。西側に、スヴェルカの使節団。
わたしたち招かれた貴族は、卓から五メートルほど離れて、壁ぎわに並べられた椅子に座った。カスタール侯爵家の席は前から二列目で、わたしはギデオン様の母君の隣だった。父の子爵は、ずっと後ろの列のどこかにいる。
ギデオン様はわたしを席まで連れてくると、すぐに離れていった。国璽の箱を受け取りに、国璽室へ行くのだという。
去りぎわに、知り合いの若い貴族たちに呼び止められてギデオン様は胸を張った。
「ああ、婚約者だ。子爵家のな。おとなしいのだけが取り柄だよ。今日は口をきくなと言ってある」
若い貴族たちがわたしのほうを見てくすくすと笑った。
わたしは膝の上で指を組んだ。右手の人差し指のたこを、左手の親指で押さえた。
祖父の店ではこのたこを、誰も笑わなかった。いい手だ、と祖父は言った。刀に逆らわない手だ、と。
この広間で、このたこを知っている人は、一人もいない。
スヴェルカの宰相、ボグダン閣下は、背の低い痩せた老人だった。灰色の毛皮の襟に、銀の鎖を三重に巻いている。卓につくなり、胸元から小さな丸い拡大鏡を取り出して、条約の文面を端から読みはじめた。
「あの爺さんが、北でいちばん疑り深い男だそうよ」
ギデオン様の母君が、扇の陰でささやいた。
「十年前、戦の前の最後の通商条約のときも、一字一字、あの眼鏡で読んだんですって。おかげで調印が半年遅れたとか」
わたしは返事をしなかった。黙っていると約束したからだ。
卓の東側の端に、背の高い男の人が立っていた。
黒に近い濃い灰色の髪を、短く刈っている。飾りの少ない黒の礼服。腰に剣はなく、左手の小指に、くすんだ銀の指輪が一つだけはまっていた。
エーデル公爵、クラウディウス閣下。
三年かけて、スヴェルカとの和平を一人でまとめた人だ。交渉の席で一度も声を荒らげず、一度も笑わず、北の使節団が三度席を立っても、三度とも眉一つ動かさずに呼び戻した。王都では石の公爵と呼ばれている。
その人の目が一度だけ、壁ぎわの椅子の列をなぞった。
わたしの上でほんの少しだけ止まった。
気のせいだ、と思った。わたしはこの人と話したこともない。
ラッパが鳴った。
広間の扉が開いて、ギデオン様が入ってきた。両手で、青い天鵞絨を張った箱を捧げ持っている。その後ろに、式部卿のカスタール侯爵、つまりギデオン様の父君が続いた。
ギデオン様は背筋を伸ばしてゆっくりと卓まで歩いた。広間じゅうの目がその箱に集まっている。ギデオン様の口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
箱が卓の上に置かれた。
式部卿が鍵を回し、蓋を開けた。中から、白い玉の塊を両手で取り出して高く掲げた。
「国璽、ここに」
拳ほどの大きさの、四角い玉。上に、座った獅子が彫られている。
燭台の光が獅子のたてがみを白く光らせた。
わたしの指が膝の上で止まった。
獅子の左耳。
白くない。
右の耳と同じ、ほんのり青みがかった玉の色をしている。
息が喉の途中で止まった。
――いいかい、ヨゼ。これは亡くなった先の王様と、わしと、いまはおまえしか知らん話だ。
十二の夏。店の奥で祖父は声を落として話した。
――四十年前の王宮の火事のときにな、国璽が棚から落ちて獅子の左耳が欠けた。陛下の父上が夜中にわしを呼んだ。新しく彫り直せば、国中の古い約束が、みんな嘘になる。だから継いでくれ、とおっしゃった。
祖父は欠けた耳に、同じ山から出た白い玉のかけらを削って埋めた。三日三晩かかった。継ぎ目は髪の毛一本ぶんもない。それでも、白い玉と青い玉は、どうしても色が違った。
――本物の国璽の獅子は、左耳だけが、少し白い。押した印にも、耳の付け根に、髪の毛ほどの切れ目が出る。それがわしの継ぎ目だ。誰も気づかん。気づかんでいい。
卓の上の獅子は両耳とも同じ色だった。
偽物だ。
わたしは隣のギデオン様の袖を指先でつまんだ。卓から戻ってきて、わたしの隣に座ったばかりだった。
「ギデオン様」
「……何だ」
「あの国璽は、本物ではありません」
ギデオン様の首が、ぎしりと音を立てそうな動きでこちらを向いた。
「黙れ」
低い声。
「余計な口をきくなと言ったはずだ。どうせ北の連中に、本物も偽物も見分けはつかない。押してしまえば同じことだ」
ギデオン様はわたしの指を袖から払い落とした。
すぐ後ろで、誰かが小さく咳ばらいをした。こちらの言葉の通訳として、貴族の列の端に座らされていた、灰色の毛皮の襟の、スヴェルカの若い随員だった。
わたしは膝の上で両手を握りあわせた。
言わなければ。
でも、何と言う。四十年前の国璽の傷は、王家の秘密だ。祖父は誰にも言うなと言った。わたしは子爵家の娘で、今日は黙っていると約束した。わたしが立ち上がってもし間違っていたら。
――押してしまえば同じことだ。
違う。
違うのに、膝が動かなかった。
卓の上で、国王陛下が国璽に朱をつけた。羊皮紙の上に、ゆっくりと押した。
広間に、拍手が起こった。
わたしは拍手をしなかった。手が握りあわせたまま、ほどけなかった。
続いて、ボグダン閣下が、スヴェルカの国璽を押した。
黒い石の、鷲の印だった。
それから閣下は拡大鏡を取り出して、こちらの国璽の印影の上にかがみこんだ。
拍手がまばらになってやんだ。
閣下は長いあいだ動かなかった。それから、使節団の随員に何か言った。随員が革の筒から古い羊皮紙を一枚取り出して閣下の手に渡した。
十年前、戦が始まる前に両国が結んだ、最後の通商の約定書だった。あの約定の半年後に、戦が始まった。
閣下は二枚を並べた。拡大鏡を、一枚目から二枚目へ、二枚目から一枚目へ、三度、往復させた。
そして、顔を上げた。
「この印は、十年前の印と同じではない」
こちらの国の言葉だった。訛りはあるがはっきりと聞き取れた。
「獅子の左の耳。十年前の印には、付け根に髪の毛ほどの切れ目がある。今日の印には、ない」
広間の空気が音を立てて固まった。
「貴国は、我らを欺くつもりか。偽の国璽で約束をして、あとで、あれは無効だったと言うつもりか」
スヴェルカの使節団の後ろで、護衛の兵たちの手が剣の柄にかかった。こちらの近衛兵たちも、同じように柄を握った。金属のこすれる音が、鏡の中で何重にも響いた。
「無礼な!」
式部卿が、首筋まで赤くして一歩前に出た。
「わが国の国璽を疑うのか! 十年前の印こそ、そちらの写し違いだろう! 北の田舎者に、印の目利きなどできるものか!」
「式部卿」
低い声がした。エーデル公爵だった。
「下がってください」
公爵は卓をまわってボグダン閣下の前に立った。
「宰相閣下。我が国に、閣下を欺く意図はありません。三年の交渉の席で、私は閣下に一度も嘘をつかなかった。それは閣下もご存じのはずです」
「存じている」
ボグダン閣下は公爵の目をまっすぐ見返した。
「だから、なおさらわからない。公爵、この切れ目の違いを、貴殿は説明できるか」
公爵は印影を見下ろした。
長い沈黙。
「……できません」
公爵の左手が卓の端を握った。小指の銀の指輪が、白い布に押しつけられた。
ボグダン閣下はゆっくりと拡大鏡を胸にしまった。
「では、我らは帰る。十年の戦を終わらせに来たが、終わらせるのはまたの機会にしよう」
使節団が一斉に椅子を引く音がした。
またの機会。
それはまた戦が始まる、という意味だった。北の国境の村がまた焼かれる。十年のあいだに何万人も死んだ、あの国境で。
祖父の店にも、国境の村から注文が来ていた。戦で死んだ息子の名を、墓石に刻む小さな印にしてほしい。そう書いた手紙が、毎年冬になると何通も届いた。祖父は代金を取らずに彫った。彫りながら、一度も口をきかなかった。
あの手紙がまた来る。
膝の上で握りあわせた手のひらに、爪が食いこんだ。
黙っていると約束した。立てば、ギデオン様に恥をかかせる。子爵家の娘が陛下の御前で王家の秘密を口にする。間違っていたら、父の家ごと終わるかもしれない。
それでも。
獅子の左耳は白くない。
わたしはそれを知っている。この広間で、いま気づいているのはわたしだけだ。
わたしは立ち上がっていた。
いつ立ったのか、わからなかった。
「宰相閣下のおっしゃるとおりです」
声が鏡の間に響いた。自分の声だとは思えないほど、大きかった。
広間じゅうの顔がこちらを向いた。
「ヨゼフィーネ!」
ギデオン様がわたしの手首をつかんだ。指が食いこんで痛い。
「座れ。何を言っている。恥をかかせる気か」
わたしはギデオン様の手を見下ろした。それから、その指を一本ずつ、自分の手首から外した。
「申しわけありません。今日は黙っているとお約束しました。でも、その約束より先に、祖父と約束していたことがあります」
――印は、その人の顔なんだよ。彫る者は嘘をついちゃいけない。一本の線もだ。
わたしは壁ぎわの椅子の列から、卓へ向かって歩いた。五メートルがひどく遠い。膝が震えて、絨毯の毛足に靴の先が引っかかった。
卓の前で、ボグダン閣下と、エーデル公爵が、わたしを見ていた。
「子爵家の長女、ヨゼフィーネと申します。母方の祖父は石工通りの印章彫り、アントンです。四十年、王宮の御用を務めました」
公爵の目がほんのわずかに見開かれた。
「宰相閣下が、十年前の印に見つけられた、獅子の左耳の切れ目。あれは祖父の継ぎ目です」
わたしは祖父から聞いたとおりに話した。四十年前の火事。床に落ちた国璽。欠けた左耳。先の陛下の頼み。同じ山の白い玉。三日三晩。
「本物の国璽の獅子は、左の耳だけが、少し白いのです。押せば、耳の付け根に、髪の毛ほどの切れ目が出ます。十年前の印は本物です。今日の国璽は――」
わたしは卓の上の玉の獅子を見た。
「両耳とも、同じ色をしています。継ぎ目がありません。偽物です。彫った人は、四十年より前の古い約定書から、印の形を写したのだと思います。だから、祖父の継ぎ目だけが抜けているんです」
広間がどよめいた。
「でたらめだ!」
式部卿が叫んだ。
「職人の孫娘が、石ころの話で陛下の御前を汚すか! 証拠がどこにある!」
「証拠でしたら」
わたしは卓の上の国璽に顔を近づけた。触れないように、両手を後ろで組んだ。
「この石は、彫られてから、まだひと月もたっていません。椿油の匂いがします。彫り上げたばかりの玉は、油で磨いて艶を出します。四十年たった本物の国璽からは、もう何の匂いもしません」
ボグダン閣下が無言で身をかがめた。鼻先を、獅子に近づけた。
それから、ゆっくりと体を起こした。
「……椿だ」
「それから、箱の内張りの天鵞絨に、白い粉がついています。砥の粉です。仕上げを急いだ彫り師が、払いきれなかったのでしょう」
公爵が箱の内側に指を差し入れた。引き抜いた指先が、うっすらと白かった。
公爵はその指先を見つめた。それから、振り返らずに言った。
「近衛。鏡の間の扉を閉めろ。誰も出すな」
声は大きくなかった。けれど、広間の隅々まで届いた。
「国璽の箱の鍵を持っているのは、式部卿、あなただけです。国璽室から鏡の間まで、箱を運ばせたのも、あなたの指図だ」
式部卿の顔から、血の気が引いていった。
「わ、私は知らん! 箱は、ギデオンが運んだ!」
ギデオン様が椅子から腰を浮かせた。
「ち、父上? 僕は、父上に言われたとおり、運んだだけです! 中身なんか、見ていません!」
「式部卿の馬車を調べろ」
公爵が言った。近衛兵が二人、駆け出していった。
広間の誰も、口をきかなかった。燭台の蝋がぽたりと落ちる音まで聞こえる。
三十分ほどして近衛兵が戻ってきた。一人が布にくるんだ包みを両手で抱えていた。
式部卿の馬車の、座席の下の物入れに隠してあった、と近衛兵は報告した。
包みがほどかれた。
白い玉の獅子が燭台の光の下に現れた。
左の耳がほんの少しだけ、白かった。
わたしは両手で口を押さえた。
おじいさま。
おじいさまの継いだ耳だ。四十年、誰にも気づかれずに、この国の約束を守ってきた耳だ。
目の奥が熱くなって獅子がにじんだ。
式部卿は近衛兵に両腕を取られて床に膝をついた。北との戦で、軍に麦と鉄を納めて肥え太ってきた家だった、とあとで聞いた。戦が終われば、その商いも終わる。偽の国璽で結んだ和平なら、いつでも無効にできる。そう考えたのだろう、と。
ボグダン閣下が随員から何か耳打ちを受けた。それから、ギデオン様のほうを見た。
「押してしまえば同じことだ、と言った若者がいたそうだな」
ギデオン様の肩がびくりと跳ねた。
「北の連中に、本物も偽物も見分けはつかない、とも」
閣下は鷲の国璽を手のひらにのせた。
「我が国では、印は約束の顔だ。押してしまえば同じ、と言う者とは、我らは約束をしない」
ギデオン様は何か言おうとして、口を開いたまま、何も言えなかった。
カスタール侯爵家の席のまわりから、人がすうっと離れていった。
新しい羊皮紙が用意された。
国王陛下は本物の国璽を手に取る前に、わたしを卓の前に呼んだ。
「子爵の娘。アントンの孫だそうだな」
「はい、陛下」
「火事の夜に、アントンが国璽を直したことだけは、父から聞いていた。どこを、どう直したのかは、父も言わずに逝った。余は今日、自分の手で偽物を押した」
陛下の声が、少しだけ低くなった。
陛下は獅子の白い左耳を、親指でそっと撫でた。
「確かめてくれるか」
わたしは両手で国璽を受け取った。
重い。祖父の店で磨いた、どの印よりも。
左耳の付け根に、目を近づけた。継ぎ目はやっぱり見えなかった。祖父の仕事だった。
「本物です」
陛下はうなずいて、国璽を受け取った。朱をつけて羊皮紙の上に押した。
ボグダン閣下が拡大鏡で印影を確かめた。それから、鷲の国璽を、その隣に押した。
今度の拍手はさっきよりずっと長く続いた。
ボグダン閣下は拍手がやむのを待ってからわたしのほうへ向き直った。灰色の毛皮の襟の老人は、胸に手を当てて深く頭を下げた。
「印章彫りの孫娘殿。貴殿の祖父と、貴殿に、北の国境の村の者たちに代わって礼を言う」
わたしは何と答えていいかわからなかった。ただ、膝を折って頭を下げ返した。
閣下は胸元から、あの丸い拡大鏡を取り出した。銀の縁が指の脂ですっかり曇っている。
「これを、貴殿に」
「そんな、宰相閣下の大切な――」
「四十年、これで他国の印を疑ってきた。だが今日、私より先に気づいた者がいる。疑う役目は目のいい者に譲るのが筋だろう」
老人の口ひげがかすかに持ち上がる。笑ったのだと気づくまで少しかかった。
手のひらにのせられた拡大鏡は、思っていたより重い。北の国境の村のことを思った。この丸いガラスの向こうで、十年分の約束が、一字ずつ読まれてきたのだ。
顔を上げると、エーデル公爵が、卓の向こうからわたしを見ていた。
石の公爵と呼ばれる人の口元が、ほんのわずかに、ゆるんでいた。
調印式のあとの祝宴を、わたしは途中で抜け出した。
ギデオン様はどこにもいなかった。カスタール侯爵家の人たちは、式のあと、近衛兵に付き添われて王宮を出たと聞いた。
回廊の窓を開けると、冷たい夜風が吹きこんできた。
王都の屋根の向こうに、石工通りのあたりの暗がりが見える。祖父の店の窓は三年前から、一度も明かりがついていない。
手がまだ少し震えていた。
「ヨゼフィーネ」
回廊の向こうから、父が早足でやってきた。子爵家の礼服の襟が、少し曲がっていた。
「お父さま」
「……アントンの店で、そんなことまで教わっていたのか」
父はわたしの前で立ち止まってしばらく黙っていた。それから、ぎこちなく手を伸ばしてわたしの右手を取った。人差し指のたこを、親指でなぞった。
「おまえの母も、ここに同じたこがあった。私はそれを隠せと言った。嫁いできた日に」
父の声がかすれた。
「すまなかった。店の鍵はおまえが持っていなさい。好きに開けていい」
父はわたしの手を一度だけ強く握って宴の広間へ戻っていった。背中がいつもより小さく見えた。
わたしは首の鎖の先の鍵を、服の上から握った。
「ヨゼフィーネ嬢」
振り返ると、エーデル公爵が、回廊の柱のそばに立っていた。
「……閣下」
「宴を抜けてきました。あそこは私には明るすぎる」
公爵はわたしから二歩ほど離れた窓のところまで来て同じように外を見た。
「今日は、ありがとうございました。あなたが立たなければ、三年の交渉が、あの場で灰になっていた」
「わたしは……黙っていると約束したのに、最初に気づいたとき、すぐには立てませんでした。陛下が印を押すのを、見ていることしかできなくて」
言いながら、喉が詰まった。
「宰相閣下が気づいてくださらなかったら、わたしは、ずっと座っていたかもしれません」
「それでも、最後には立った」
公爵は窓枠に左手を置いた。小指の銀の指輪が、月の光を受けた。
指輪の台には、印が彫ってあった。
樫の葉が一枚。葉脈が三本。
わたしはその葉を見つめた。
知っている。
この葉の、三本目の葉脈の先が、ほんの少し右へ逃げていることを、わたしは知っている。
「……その印」
「十一年前に、石工通りの店で作ってもらいました」
公爵は指輪を外して手のひらにのせた。
「十四の年でした。父が死んで、急に公爵家を継ぐことになった。初めて自分の名で書類に印を押すことになって、どうしても、王都でいちばんの彫り師に頼みたかった。あなたの祖父は子供の注文だと笑わずに、三日で彫ってくれた」
十一年前。わたしは八つだった。
「仕上げを磨いていたのは、作業台の横に座った、小さな女の子でした。砥の粉で鼻の頭を白くして、くるくると、一時間も磨いていた。受け取るときに、その子が言ったんです」
公爵は手のひらの指輪を見下ろした。
「葉っぱの三本目の筋が、ちょっとだけ右に逃げてるでしょう。それ、おじいさまの癖なの。だから、これは世界にひとつしかないの、と」
覚えている。
黙ったまま、ずっと印を見ていた男の子。最後に、ぎゅっと握りしめて、小さな声でありがとうと言った男の子。
「あの子は、アントンの孫で、子爵家に嫁いだ娘の子だと、あとで店で聞きました。今日の招待客の名に、子爵家の長女ヨゼフィーネとあった。壁ぎわの二列目に座っていたあなたを、すぐに見つけました。鼻の頭は白くなかったが」
公爵が初めてはっきりと笑った。
笑うと、目の端に細い皺が寄った。石の公爵などという呼び名が、どこにも似合わなかった。
「閣下は、ずっと覚えていらしたんですか」
「この十一年、私が押した書類は、たぶん二万枚を超えます。押すたびに、三本目の筋を見ていました」
夜風が回廊の窓から吹きこんだ。わたしの頬がその風の冷たさとは逆に、どんどん熱くなっていく。
十日後、わたしは石工通りの店の鍵を開けた。
カスタール侯爵家とわたしの婚約は、陛下のお声がかりですぐに解かれた。式部卿は爵位を取り上げられ、北の国境の砦へ送られた。ギデオン様は王都の社交界から姿を消した。十年の戦で肥えた家が、戦の終わりといっしょに終わった、と人々は噂した。
父は、回廊で言ったとおり、何も言わなかった。陛下は、祖父の名で、店に王宮御用の札をもう一度くださった。
作業台の埃を払って彫刻刀を一本ずつ研いだ。三年ぶりに握った柄は、右の人差し指のたこに、すっと収まった。
作業台の前の祖父の椅子には、まだ、祖父の座っていた形に、くぼみが残っていた。
わたしは少しためらってからその椅子に腰を下ろした。くぼみはわたしには少し大きかった。
「おじいさま。獅子の耳、ちゃんと守れました」
返事はなかった。窓から差しこむ光の中で、砥の粉の細かい埃が、ゆっくりと舞っていた。
表の戸を開け放しておくと、昼すぎには、通りの人たちが次々に顔をのぞかせた。
「アントンさんとこの、ヨゼちゃんかい」
向かいの石屋のおかみさんが、前掛けで手を拭きながら入ってくる。
「聞いたよ、王宮の話。うちの亭主なんか、朝から三べんも同じ話をしてさ。アントンの孫が国を救ったって」
「救っただなんて……祖父の継ぎ目を、見つけただけです」
「それが救ったっていうんだよ」
おかみさんは作業台の端に、焼きたての黒パンを一つ置いていった。祖父が好きだった、胡桃の入ったパンだ。
わたしはパンをちぎって、半分を、空いた低い椅子の上に置いた。
その日の夕方、店の戸口の鈴が鳴った。エーデル公爵が戸口に頭をぶつけないように少しかがんで入ってきた。
それから、ひと月のあいだに、公爵は七度、店に来た。来て、作業台の横の、昔わたしが座っていた低い椅子に、窮屈そうに腰かけて、わたしの手元を黙って見ていた。祖父と同じ場所に座る人は、ほかにいなかった。
ある日、わたしは、彫りかけの印から目を上げずに訊いた。
「閣下は、どうして毎日、黙って見ていらっしゃるんですか」
「毎日ではない。四日に一度だ」
「……どうして、四日に一度、黙って見ていらっしゃるんですか」
公爵は少し考えた。
「三年の交渉で、私は毎日、嘘をつくかもしれない相手の顔を見ていた。ここでは嘘をつかない線を見ていられる」
わたしの刀の先が、ほんの少しだけ、すべった。
公爵はそれを見て何も言わなかった。言わなかったけれど、口の端が、ほんの少し上がっていた。
八度目に来た日、公爵は椅子に座らなかった。作業台の前に立ったまま、言った。
「注文をお願いしたい」
「今日は、どんな印を」
「夫婦の印を、一つ」
わたしは研いでいた刀を止めた。
公爵は上着の内側から、小さな紙を一枚取り出して作業台の上に置いた。
紙には、二つの名前が並んで書いてあった。
クラウディウス・エーデル。
ヨゼフィーネ・エーデル。
わたしは紙を見つめたまま、しばらく息ができなかった。
「彫り師が引き受けてくれるなら、の話です」
公爵の声がほんの少しだけかすれていた。
交渉の席で北の使節団に三度席を立たれても、眉一つ動かさなかった人の声が。
「断られたら、樫の葉の指輪を返しに来ます。あれを押すたびに、三本目の筋を見るのはもうつらい」
わたしは紙を両手で持ち上げた。指先が震えて紙の端がかさかさと鳴った。
断る理由なら、いくつでも思いつけた。子爵家の娘で、職人の孫で婚約を解かれたばかりで。
でも、紙の上の二つの名前は、もう並んでいた。
「……お引き受けします」
声がちゃんと出た。
「ただし、一つだけ、わたしの癖を入れさせてください」
「癖?」
「どこかの線を一本だけ、ほんの少し右へ逃がします。あなたにだけ、わかるように」
公爵は作業台の向こうから手を伸ばして、紙を持ったままのわたしの右手を、両手で包んだ。
人差し指のたこに、親指がそっと触れた。
「では、私は一生、その一本を探して押します」
窓の外で、石工通りの最初の灯がともった。
重なった手のあいだで、二つの名前を並べた紙が、その灯を受けて白く光っていた。
(完)




