月の鎌 — Lunar Scythe —
「あれは死神の鎌だよ。世界の魂を狙っているんだ」
そう彼は言った。
空に昇る、細く長い三日月を見つめていると、本当に、その通りなんじゃないかという気分になる。
くすんだ紺碧の世界で唯一、精彩を放つ鋭い光。
小さな影が月を横切り、ドキリとした。月の鎌が動き出したのかと錯覚する。
影は宵闇の中へと、すぐに消えた。
月は静かに輝いたまま横たわっている。
僕は彼に視線を向けた。
影に沈んだ彼の姿に、ふと思った。
彼は――誰だっただろう?
知っているのに、知っているはずなのに、顔も名前も思い出せない。
おぼろな輪郭の彼が、手を差し伸べて言った。
「さあ、行こうか。もう、ずいぶんと遅れてしまった」
僕は震えて息を吐き出した。
ためらいを覚える。なのに、彼の瞳へ吸い寄せられるように手を伸ばした。
冷たく、温かな手だった。
優しく強引に手を引かれて歩き出す。
彼の背中は見えない。
僕は――どうして彼の瞳が見えたんだろう。
月のように、柔らかく刺すような光を湛えた瞳だった。
見上げると月は消えて、空にひびが入っていた。音もなく亀裂は広がり、剥がれた空の欠片が雪のように舞い落ちていった。
ああ――。
僕は思い出し、呟いた。
「僕たちは月を……」
僕は手のひらに感じる、凍るような焼けるような感触に導かれるままクレーターの陰を歩いた。
強い揺れに襲われて、僕は目を覚ました。体を起こすと同時に自動ライトが点灯する。机に置いていた本が床に落ちていた。
ぬるりとした感触を覚え、手のひらを見つめた。黒く光沢のある粘液。着替えた……はずの作業服を着ている。作業服にも手と同じような黒い染みが、ぽつぽつと広がっていた。
疑念と不安は、心臓を打ち抜く警報に遮られた。
人工重力が切れて、体が浮き上がる。体にまとわりつくブランケットを剥ぎ、壁を蹴って窓へ向かった。
熱を帯びた手が冷たい窓に当たると、締め付けられる心臓の、悲鳴のような声で言った。
「ブラインドオフ」
白く濁っていた窓は一瞬でクリアになり、外の様子をあらわにした。
ブロックノイズの走る紺碧の空に、ひび割れた満月は浮かんでいた。音もなく亀裂が広がり、剥がれた月の欠片が落ちていく。
呆然と見上げる目の前で、月が大きく弾け飛んだ。残った三日月のような光を、無数の影が横切る。
突風が吹き荒れ、壁が、床が、振動を始めた。歪み、軋み、傾き……僕の世界は空へ立ち昇っていく。
月に開いた穴の中――深淵の宇宙へ。




