第6話 保険
解除されたばかりの脳が、内側から焼け付くように熱い。
俺、瀬戸悠真は、アスファルトの上に両手をつき、胃液が逆流するような不快感に耐えていた。
視界が何度も明滅する。先ほどまで「世界で一番美しい」と信じて疑わなかった幼馴染、千歳の面影が、砂嵐のようなノイズに飲み込まれていく。その代わりに浮かび上がってくるのは、髪がボサボサで、分厚い眼鏡をかけた、クラスの誰からも相手にされないほど「地味」だった中学時代の彼女の姿だった。
「……あ、あ……あいつ、全部……嘘だったのかよ……」
喉の奥から漏れた声は、情けないほど震えていた。 三年間。
俺の青春のすべて。毎日の「あーん」も、図書室での二人きりの時間も、交わした愛の言葉も。すべては彼女がスマートフォンの画面をスワイプした瞬間に書き換えられた、虚構のデータ。
俺という人間は、三年間、千歳という少女が所有する「愛玩動物」に過ぎなかったのか。
「……落ち着けよ、ボウヤ。現実ってのはいつだってクソだが、向き合わねぇと死ぬぞ。お前、ここ数年で一番目が醒めてる瞬間だ」
背後から、場に不釣り合いな野太い声がした。 パンティを被り、網タイツを食い込ませた「変態おじさん」。だが、今の俺にとって彼は、この狂った世界で唯一、真実を教えてくれた救世主のような存在にすら見えていた。
「……おじさん。教えてくれ。なんで、なんであんたの催眠は俺に効かなかったんだ」
おじさんは自販機の横に腰を下ろし、首に巻かれた金属製のリング――公安の爆弾――を神経質そうに指先でなぞった。
「俺は最初お前に催眠が効かないのは、お前が催眠アプリ所有者だからかと思っていた。催眠アプリをインストールするための広告を見た人間には催眠が効きずらくなるからな。でも違った、お前が催眠にかからなかったのは、あの女が三年間、一台のスマホの全リソースをお前一人に注ぎ込み続けていたからだよ。このアプリは同時に操る人数を増やせば強度が下がる。1つのスマホでは、薄い催眠を10人くらいが限界だが、あの女はお前だけにすべてを懸けた。三年間、一秒の休みもなく、お前の脳を『千歳が世界一の美少女だ』『千歳を愛している』という命令で塗り潰し続けたんだ。お前の脳には、俺の催眠が割り込める隙間なんて一ミリも残ってなかったんだよ」
おじさんは自嘲気味に笑った。その笑いは、同じアプリを使う者としての、千歳の「異常な執念」に対する恐怖が混じっているようだった。
「異常だよ。普通の所有者は、もっと多くの人間を便利に使おうとする。だが、あの女は違う。お前一人を『完璧な王子様』にするためだけに、アプリの性能を極限まで尖らせた。……ある意味、純愛だな。反吐が出るが」
おじさんは立ち上がり、俺の肩を強く掴んだ。その手は、見た目に反して硬く、微かに震えていた。
「いいか、ボウヤ。俺の事情を話してやる。俺は元々、このアプリを悪用して捕まったクズだ。だが公安に捕まり、今は首に爆弾を巻かれて『猟犬』をやらされてる。このエリアに潜む未登録のアプリ所有者を炙り出すためにな」
「公安……警察が、こんなアプリを管理してるのか」
「ああ。奴らにとってこのアプリは、秩序を乱す毒であり、同時に最高に便利な道具だ。そして、俺と奴らとの取引はこうだ。身代わりのアプリ所有者を用意すれば、俺の首の爆弾を外し、催眠アプリに関する記憶をすべて消した上で、自由の身にしてやる、とな。……期限はあと一週間。それを過ぎれば、俺の首は物理的に飛ぶ」
おじさんの首筋で、赤いLEDが規則的に点滅している。それは彼に残された命のカウントダウンだった。
「……利害は一致してるな」 俺は千歳という檻から逃げ出したい。おじさんは千歳を公安に差し出して、爆弾から解放されたい。
「組もう。まずは催眠アプリについて教えてくれ」
「確かにそうだな、とりあえず基本的なことを話すぞ」
おじさんは催眠アプリの基本について教えてくれた。
まとめると
・突然広告が現れ。広告をタップすると勝手にダウンロードされる。
・催眠の機能が使用出来るのは広告が出てきた人のみ。(俺には使えない)
・一つのスマホで同時に操れるのは精々10人くらいまで。
・催眠の種類は常識改変、認識改変、記憶改変の三つ。
・強い暗示が掛かっているときに低い催眠には掛からない。
・催眠の解除は掛けた人か、掛けられた本人のみができる。
・常識改変をするには対象を写す必要がある。
・記憶改変をするには対象が寝ている必要がある。
・広告を見た人間は催眠に強い耐性がつく。
「……それで、どうするんだ。あの女は鼻が利くぞ。あの女は俺と会った時に催眠にかかったふりをしていた。少しでも違和感があれば、お前の脳を再び一瞬で書き換えるだろう」
「……どうすればいい」
「『保険』をかける。今からお前に、俺が二つの暗示を上書きする。……安心しろ、これはお前の意志を奪うためのもんじゃない。」
そう言っておじさんはスマホを操作した後、その画面を俺に見せてきた。
【常識改変】
効果――千歳の暗示下にある時と同じように振る舞うことが可能になる・催眠による強制とは別に思考を維持できる。
【認識改変】
対象:瀬戸 悠真
効果――千歳のことを催眠がかけられていたときのような美少女に感じる
「いまのお前には自ら檻にとらわれるような気持ちかもしれないが、いけるか?」
おじさんが心配そうに聞いてくる
「この催眠なら思考も身体もしばられてないんだ。この程度の縛りであいつを騙せるなら、俺はやるよ」
「その意気だ、ボウズ」
おじさんは俺にレンズを向けた。
「常識改変するには相手をレンズに写さなきゃいけないんだ動かないでくれ」
画面から不可視の波導が俺の脳を撃ち抜く。 その瞬間、俺の視界は再び反転した。 路地のゴミ袋が、汚れた壁が、すべてが色鮮やかな「平和な街」へと塗り替えられる。そして、脳裏に浮かぶ千歳の姿が、再びあの「絶世の美少女」へと固定された。
「……っ、ああ……」
「気分はどうだ。……これが、お前がこれまでいた『檻』を模した、俺の特製の偽装だ」
「……最悪だ。でも、これなら演じきれる」
思考は冷徹だ。千歳に対する怒りも、裏切られた絶望も、はっきりと認識できている。だが、俺の肉体は、彼女を視認した瞬間に「愛おしげな微笑」を浮かべるよう、設定されていた。
「……それで、どうするんだ 。広告を見た人間には、催眠への強い『耐性』ができる 。一瞬スマホを向けたくらいじゃ、命令は通らねぇ 。催眠に頼らずに拘束する必要があるぞ 」
おじさんは首の爆弾を苛立たしげに弄りながら、現実的な問題を突きつけてきた 。アプリが万能ではない以上、あの「怪物」を仕留めるには物理的な隙を作るしかない 。
「俺が千歳を誘い出す。千歳は俺からの誘いは断らないだろう 」
俺は、今の自分にかけられた『保険』の感覚を確かめながら答えた 。
たとえ中身が殺意で満ちていようと、俺の肉体は彼女にとって理想的な「王子様」を演じ続けている 。彼女が俺を愛している限り、その誘いは絶対の罠になるはずだ
おじさんはニチャリと、パンティの奥で卑屈な笑みを浮かべた 。
「分かった。……三時間だ。三時間、あいつを完全に拘束して催眠を流し込み続ければ、どんな耐性もぶち抜いて上書きできる。作戦は明日の放課後だ。絶対に、失敗するなよ 」
俺は力強く頷いた 。
待ってろ、千歳。 お前の「完璧な世界」を、俺が必ず終わらせてやる。




