第3話 NTRの危機
昨日の光景が頭から離れない。
パンティを被り、網タイツを食い込ませたあの異様な男。そして、それを見ても眉一つ動かさなかった通行人たち。
一晩寝れば少しは冷静になれると思ったが、登校中も視界の端に「おじさんの残像」がよぎるようで、生きた心地がしなかった。
「悠真くん、おはよう。……あれ、なんだか顔色が悪いよ?」
教室に入るなり、千歳が駆け寄ってきた。 俺の視界に映る彼女は、今日も息を呑むほど美しい。朝の光を浴びた髪はさらさらと流れ、心配そうに潤んだ瞳は宝石のようだ。
「……ああ、おはよう、千歳。いや、ちょっと昨日変なものを見てさ」
「変なもの?」
千歳が小首をかしげる。 俺は周囲に聞こえないよう声を潜め、昨日の出来事をまくし立てた。顔にパンティを被った男がいたこと、その格好が信じられないほど変態的だったこと。そして、なぜか周りの人間が誰も反応していなかったこと。
話し終えると、千歳はポカンとした顔をした後、クスリと小さく笑った。
「もう、悠真くん。寝ぼけてたんじゃないの? そんな格好の人がいたら、今頃ネットで大騒ぎだよ。私の耳にも入ってないもの」
「いや、でも、絶対にあれは幻覚じゃなかったんだ。目も合ったし……」
「きっと、疲れが溜まってるんだよ。……ほら、こっち向いて」
千歳は優しく俺の頬を包み込み、顔を近づけた。ふわりと香る、強い金木犀の匂い。
「今日は私が美味しいお弁当作ってきたから、それを食べて元気出して? ね?」
彼女の潤んだ瞳に見つめられ、その香りに包まれると、不思議と「自分の見間違いだったのかもしれない」という気がしてくる。
だが、放課後。その平穏は再び揺らぐことになった。
「ごめんね悠真くん。今日も図書委員の集まりがあるの。……最近、忙しくてごめんね?」
「あ、ああ。いいよ、気にすんな」
千歳は申し訳なさそうに、何度も振り返りながら図書室へ向かっていった。 二日連続で一人での下校。
……中学の頃の記憶を辿ってみても、千歳が隣にいない光景がどうしても思い出せない。まあ、それだけ俺たちがずっと一緒にいたという証拠だろう。
俺は無意識のうちに、昨日と同じ道へ足を向けていた。 「見間違いなら、それでいい。確かめるだけだ」
俺はそのまま、昨日男が立っていた場所の周辺を調べようと路地をさらに進んだ。 すると、角を曲がった先の古びた公園の裏手で、見慣れた後ろ姿が目に飛び込んできた。
「え……千歳?」
そこには、図書委員会に行っているはずの千歳が立っていた。 そして、その目の前には。
あの「変態おじさん」が、ニチャアとした嫌な笑みを浮かべて立っていた。
「…………ッ!」
心臓が跳ねる。 おじさんは、手に持ったスマートフォンの画面を千歳の目の前に突きつけ、何かを確認するように何度も画面を叩いている。千歳はそれを見て、ひどく困ったような顔をして俯いていた。
「……いいか、お前。わかったら、大人しく言うことを聞け」
おじさんの、低く下卑た声が微かに漏れ聞こえてくる。
千歳は、何も言い返せずにじっと耐えているように見えた。 学校での彼女からは想像もつかない、無防備で、どこか頼りなげな横顔。 おじさんは満足そうに頷くと、千歳の肩に馴れ馴れしく手を置こうとした。千歳がビクッと肩を震わせる。
「……今日はこれくらいにしてやる。
明日、また同じ時間にここへ来い。……わかってるな?」
おじさんは闇に消えていった。 千歳もしばらくその場に立ち尽くした後、ふらふらとした足取りで、学校の方角へと戻っていく。
俺は、植え込みの影で指が白くなるほど強く拳を握りしめていた。 (あいつ……千歳に何をした!? あのスマホで何を……!)
あの異常な男による脅迫。 愛する幼馴染が、あの悍ましい怪物に毒されている。 その光景は、俺の胸の中にドス黒い怒りと、彼女を救わなければならないという強い義務感を燃え上がらせた。
「……あの男を、捕まえるしかない」
千歳をあんな不審な男から守らなきゃいけない。
俺は、闇に消えていった男の背中を、静かに、しかし決然と見据えた。




