07:マザコン娘は覗き見する
「ほら、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ママが奏の前にオレンジジュースを置いた。
「あの……琉海ちゃんは?」
「あ、ああ。琉海は今、ちょっと具合が悪くて寝ているのよ」
私は廊下に立ちながら、かすかに開いたドアを覗き見しつつ聞き耳を立てていた。
直に対面する勇気は出なかった。
ドアは奏の背後にあるので、彼女には悟られないはずだ。
奏は、前回のかわいらしいウエイトレススタイルからは一変し、シックなジャンパースカートが印象的だった。
あのときは意識が向かなかったが、耳にはシルバーカラーのイヤリングもついていた。
「そうですか……」
奏は露骨に残念がる。
「あ。これ、よかったらどうぞ」
奏はコットンバッグからケーキ箱を取り出し、テーブルに乗せて中身を空けた。
「うちのカフェで、クレープほどじゃないけど人気のあるタルトです。お口に合うかどうかはわからないですけど……」
「あ、ら。そんな気を遣うことはなかったのに。むしろ、こっちが――」
「あ、いえ。これは、店長から持っていくようにと渡されたものですから」
奏は遮るように言った。
「申し訳ないわね……。これ、シャインマスカット?」
ママが箱を覗き込みながら言う。
「ええ、絶品なんですよ。大ぶりの果実に、サクサクのタルトと甘いミルククリームがマッチして――」
奏が頷くと同時に腹の虫が鳴り、彼女はかすかに頬を染めた。
「あはは。じゃあ、せっかくだから今、いただいちゃいましょうか」
ママは戸棚から皿を出し、フォークとともにマスカットのタルトを並べた。
黄色がかった粒が宝玉のように煌めいている。
ふたりが食べはじめて少し経ち、ママが用件を切り出した。
「それで、いったい。どういう意味だったのかしら。〝嘘〟というのは……」
「あの。あたし……。フェアじゃないな、と思って」
「と、いうと?」
私は、周囲の酸素が尽きたように喉が詰まる。
逃げ出したいが、それは恐怖に追跡されることを意味する。
奏の意図が読めるまで、私は廊下の暗がりにうずくまるしかない。
ドブに潜むネズミのように。
「あたしは……」
不気味な間。
「許せないんです。嘘をついたことが」
その低い声に、私の心臓が高度から叩きつけられたようになる。
「それは、どうして?」
ママは表には出さず、素朴を装った。
あるいは、困惑に感情が追いつかなかったか。
「それは……」
ここから飛び出して、奏の口をふさぎたい衝動に駆られる。
私はひざを抱えてうずくまりながら、必死に目を閉じた。
いっそ糸で縫い付けてしまいたかった。
「琉海ちゃんがなにもかもを告白してくれたのに、私は嘘をついたままだったから」
「……ん?」
ママが目を点にする。
点々々の沈黙が流れる。
私も一瞬、脳が言葉の主語を整理できなかった。
再び、隙間から目をこらす。
「ええと……」
ママが額に指先を当てる。
「嘘をついた、というのはひょっとして……」
「あたしです。あの場では、勇気が出なかったといいますか、タイミングを失ったといいますか。いや、それは言い訳ですね。あたしもホントのことを打ち明けることができれば、きっと琉海ちゃんを励ますことができたのに。だけど――」
奏は不意に言葉を区切った。
「……すみません」
「いったい、なにが嘘だったのかしら?」
私には、その告白を聞く資格がないと思い、そろそろと離れようとするが、間に合わなかった。
「不登校なんです、あたし」
私は静止し、その場にはりつけになった。
「それは……その。いつから?」
ママはたどたどしく尋ねた。
「もう三ヶ月は経ちます。やることがないから、あのカフェでバイトしていて。創立記念日というのは、嘘なんです。毎日が祝日といいますか、いっそ呪われてるといいますか。一日一日が段々と辛くなってきて。なにもしないよりはマシかと思って、働いてます」
奏は表情も手もバタバタと動かし、種を忘れたマジシャンのようなせわしなさだった。
「そう。偉いのね」
「え」
「できることをやるのは、とてもいいことだと思うわ」
「できることと言いますか、なにもできないと言いますか……」
「ううん。奏ちゃんはきっとマジメなのね」
「はあ……」
奏はテンポを崩されたように気圧される。
私は、階段から突き落とされたような心境だった。
「あたし……言ったじゃないですか。あたしが琉海ちゃんの立場だったら、一ヶ月ともたないと思う、って」
確かにそう口にした。
「あれ。そのまんまの意味なんです」
「どういうこと?」
「あたし。ある時を境にクラスメイトからいきなり無視されるようになって。まるでスイッチが切り替わったみたいに、あたしの存在がオフになりました」
「奏ちゃんみたいに明るい子が、どうして?」
昔も今も、彼女は猪突猛進のイメージだ。
テストの点は悪かったが、へこたれたことがなかった。
「笑顔でいれば人からきらわれることはない。その思考が、あさはかでした」
奏が語りはじめたのはネガティブな情報ばかりだった。
常にグループで行動し、孤独とは無縁だったこと。
あるとき、文化祭の準備で口論になったこと。
ギクシャクした感じがしこりのように残りつづけ、それがいきなりシカトに転じたこと。
「クラス内では人気もののつもりでしたから、ショックでした。そんな気配まるでなかったのに、裏では色々と陰口を言われていたみたいで。会話に加わるのは不可能になりました。最初は平気なつもりでしたけど、日ごとに辛さが増すばかりで」
どこかデジャブを感じた。
栄光からの急転。
出遭った不幸は、私と同種なのだ。
「でもね、それだけなんですよ。危害を加えられるわけじゃないですし。琉海ちゃんに比べたら、苦難の内にも入らないです。しかも、一ヶ月もしないうちに学校がイヤになっちゃって」
「よほどショックだったのね」
ママは同情するように声音をやわらげた。
「正直、世界の終わりだと思いました。笑っちゃいますよね。死ぬような目に遭ったわけでもないのに。たった一ヶ月……あたし、馬鹿みたいだ」
「そんなこと……」
「でも、ダメなんです。私の苦痛は大したことないから、じゃあ学校に行こうという気にはなれない。弱いんです、あたし。琉海ちゃんに比べたら、アリンコかミジンコみたいに」
そんなことはない。
無視されるのがいかに酷痛か、いやというほど知っている。
それは生き埋めのようなものだ。
生きているのに、死んだ状態となる。
どれほど叫ぼうとも、その声が外部に漏れることはない。
なのに、周囲からの嘲笑は内部に反響しつづける。そういう残酷さは、あまりに耐えがたい。
だから、励ましたかった。
姿を現し、彼女が今ここにいることを賞賛したい。
なのに、ダメだ。
今、私の内に渦巻くこの感情は――
私は自身を掻き抱き、懸命に自制した。
「よく、話してくれたわね」
ママは奏の手に、自らの手をかぶせる。
「あたしは、琉海ちゃんの境遇をほんのわずかですけど理解できるから……味方になろうと思って」
「そうしてくれれば、心強いわ」
ママはほほ笑む。
「もし、琉海ちゃんが望むのなら、いっしょに遊びに行きたいんです。昔みたいに」
私はこみあげるものを隠すために口を両手で覆った。
「そうね。あなたたちは仲良しだったものね」
その記憶は、すでに色褪せていた。
この現実で色を帯びているのは、ママしかいない。
だから、助けて。
ママ。
この感情をどうにかして。
「急にこんなこと言って、失礼しました。どうしても、言わずにはいられなくて」
奏が立ち上がりざま、一瞬、こちらに流し目を送った――ような気がした。
「琉海ちゃんにはひとことだけ、伝えてください。〝気力が戻ったら、どこかへ行こう〟って。同情じゃなくて、今のあたしは友だちに飢えてるんです」
「ええ。きっと、琉海も喜ぶわ。すぐには難しいかもしれないけど、いつか」
「お願いします。これ、あたしのラインのアドレスです」
奏はそう言い、バッグから紙を取り出してママに渡した。察するにラインのQRコードを印刷したものだろう。
その後、小さく礼をし、ママは奏を玄関まで見送った。
「じゃあ、ありがとうございました」
「またね、奏ちゃん。時が経てば、きっと状況は良くなるから」
「……ええ。あたしも、そう祈っています」
ドアが閉じる音がした。
私は身体中から水分が抜けたみたいにぐったりとして、ふらふらとリビングに戻った。
テーブルに置かれた紙のQRコードを眺めるが、目の焦点が合わない。
倒れる直前のようにテーブルの縁につかまり、額が天板に触れるぎりぎりの位置まで顔を伏せた。
「はぁ、はぁ……」
「だ、だいじょうぶ?」
ママが近づくや否や、私はその胴に思いっきりしがみついた。
「る、琉海?」
「う。うう……」
私は漂流中に、板につかまったような状態になる。
「うああ……うあああああっ」
ママの腹に顔を埋めながら、絶叫した。
「いったい、どうしたの?」
ママは必死な声を出す。
「私……最低だ」
「え?」
「あああ。私、何てことを……」
「どうしたの? あなたはなにもしてないわ」
「……ちゃったんだよ」
「なに?」
私は顔を上げた。
「思っちゃったんだよお! 私、奏に対して――不登校であることが、嬉しいって」
「嬉しい?」
「カフェで会ったときから、劣等感に押しつぶされそうだったのに。今はすごい、すがすがしいの。ほっ、としたの。彼女の不幸を、じつは心の底で望んでた。それが叶った!」
私はのたうち回るように叫ぶ。
「ううん、奏だけじゃない。他のすべての人間がドン底にいて、沈んでいればいいって。それをずっと祈ってたんだ。私、今まで気が付かなかった!」
「お、落ち着いて」
ママはどうすることもできず、両腕を宙に浮かせたままになる。
「まっとうな人間なら、さっきのママみたいに励ましたり同情したりするのに。私、狂ってんだ。狂ってんだよお。そんな人間に、誰かの友だちになるような資格があるもんか!」
私はまた顔をママの腹に押し当て、すすり泣いた。
「ううぁ……」
ママはそっと私の背中をさする。
狂乱が、鎮痛剤を服用したように和らいでいく。
「ママ……こんな娘、失望したよね?」
私はすがるように聞いた。
いたずらがばれた幼児のようにこわごわとママの顔色を伺う。
「琉海」
私はそのとき、脊ずいが麻痺したようになった。
一瞬、ママの表情から色がすべて失せていた。
「ママ……?」
「あなたがどう思おうとも、関係ないわ」
それは錯覚であったかのように、笑顔と慈愛の相が戻った。
「少なくともここにひとり、あなたの絶対の味方がいるから。だから、心配することはないのよ。琉海が琉海である限り、私もここにいるから」
私たちはそのまましばらく、ひとつになっていた。
お互いに、止め時がわからなかった。
いつ夕食を食べたのか、いつベッドに入ったのかもわからず、気がつけば朝だった。
ぼうっと部屋を見回す。
自室の机の上にあったQRコードの紙を、捨てようかとも思ったが、引き出しの奥深くにしまうことにした。
二度と開けることはないだろう、と思いながら。




