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05:マザコン娘はかたり出す(2)

「最初はね、ありふれたいやがらせだったよ」


 それらの行為は、過失を装って仕掛けられた。

 無視。

 連絡事項の不通知。

 水泳中の軽い衝突。

 罵詈雑言を含ませた陰口。


 それらを問い詰めても、返答は常に変わらなかった。

 〝気づかなかった〟

 〝わざとじゃない〟

 〝うっかりだった〟

 〝今のはあなたのことを言ったわけじゃない〟

 〝自意識過剰だ〟


 大会どころではなかった。

 出場以前に、練習もままならないのだから。

 特待生としての地位は実質的に失われ、なぜそこにいるのかわからない状態になった。

 泳いでも泳いでも、どこにもたどりつけない感触。


 次第に、立ち向かう気力は失せていった。

 それは彼女らに願ったりの状況だった。

 過失は、あらかさまな故意に変貌した。

 誰とも口をきけないようになった。

 ミーティングには参加を許されなかった。

 プールから上がろうとして、脚を引っ張られたりした。

 ささいなミスを、名指しで非難された。

 それらを問い詰める意気はくじかれていた。


「……ひどすぎるよ」


 奏は声を落とした。

 〝ひどすぎる〟

 客観的にはそうだ。

 だが、集団の利益の前では個人の権利など紙屑でしかない。


「だって。どういう理由があろうとも、他人を攻撃することが許されるはずはないもの!」


 奏は前のめりになる。

 その力強さは、かつての私にあったものだ。


「ありがとね。でも、ブレーキはどこにも存在しなかったんだ」

「だって、顧問のセンセイがいるでしょ?」

「だいぶ忙しい人だったからね。会議やらナントカ委員会やらひっきりなしの保護者対応やら。一年の始まりのときはそうでもなかったのにね。日に日に、目にする機会が減っていったよ」


 彼は優しげであり、頼まれごとを断れないたちだった。

 だから、彼もまた集団からの圧力をはねのけることができなかったのだろう。

 あるいは、異常事態を察知して、逃げるために雑事にかまけたか。

 いずれにせよ、部活内において彼は幽霊部員ならぬ幽霊顧問だった。

 特待生制度のある部活で、そんなことはあり得ないはずなのに。

 あの学校は、もしかしたら私の知らない部分もいろいろと崩壊していたのかもしれない。


「人間ってさ。環境がずっと同じだと感情が鈍磨する生き物なんだよね。どれほどひどいことをされても、それが当たり前みたいな認識がみんなの内にできていた」


 そして、私自身にも。


「そんな環境……よく耐えようとしたね。あたしなら……」


 奏は言いよどむ。


「あたしなら、一ヶ月ともたないのに」


 耐えるつもりなどなかった。

 ただ、逃げ場がなかった。

 ここへ来たのが私の意思である以上、〝帰る〟という選択肢がなかった。

 なにより、ママに合わせる顔がなかった。

 転居の直前、喧嘩別れのような状態になったのだから、絶対に現状を知られるわけにはいかなかった。意地だった。


「ま、でも。その〝耐えようとした〟というのが、むしろ悪手だったわけ。元凶たる三年生のセンパイはさ、ホントは夏に引退するはずだったんだから、さすがに冬まではいないだろうと思ったよ。あとすこし、あとすこし……毎日、呪文のようにつぶやいた」

「そ、そうだよね。三年生がずっといるわけはないしね」


 奏がこわばった表情をわずかにほぐす。


「そして。その日が来た。センパイが引退し、部活を去る日が」


 私は目をつむり――奏の表情を直視しないために――そのまま語りつづける。

 その日――十二月の初旬の夜、センパイから呼び出された。

 名目は、禊のための儀式。

 それに応じれば、イジメをきっぱり止めるという。


「琉海ちゃんは、それを信じたの?」

「行ってもどうにもならないとは思ったよ。でも、行かなくてもどうにもならないからさ」


 普段の練習をする室内プール場は、夜間にもかかわらず開放されていた。


「その場についたら、センパイを含めた数人が待ってた。それで、競泳水着に着替えて、プールに入るように命令された」


 そのとき、時刻は午後九時を回っていた。

 プール内の水温調整はされておらず、水は歯が鳴るほどに冷たかった。


「そして、〝ゲーム〟を指示された」


 ルールは極めて単純。

 私が何秒潜れるか。それをセンパイたちが言い当てるルール。


「そんな下らないこと……」

「でもね、それはゲームの本旨じゃない。真の遊び方は、私が潜りつづけるための動機づけをいかに行うか」

「え……」


 奏が引きつった声を出す。


「だから……」


 私は悩み、言葉が詰まる。

 どう伝えるべきか。

 あの恐怖は言語化できない。

 私は目を開け、奏を真正面から見据える。


「彼女らが行ったのは、じつにシンプル。私が顔をあげたら、さすまたで突き返す。ただ、それだけ」


 ママが険しい表情でこちらに顔を向けた。その唇は固く結ばれている。そしてまた背けた。

 奏は殴られたように呆然としていた。


「……は? ただそれだけ、って……」

「これを何度でも。息が苦しくても、また長時間潜ることができるように。ひとりならまだしも、集団からこれをやられると厄介でさ。逃げるように潜るしかないわけ――」


 私は不意に言葉を止めた。

 感情にブレーキがかかったようになり、思考の歯車に石が挟まったようになる。

 喉がふさがったようになり、あの日の水中のような動悸がする。

 水を飲みたいが、コップはカラだ。だからひたすらコップの縁をなでまわした。


「あ、あたし。どう言ったらいいのか……でも、ひとつだけ。あたしにもわかることがあるよ――辛かったよね。辛すぎるよね、そんなの」


 奏はなみだ声になる。

 〝辛かった〟

 その言葉が、ペダルを踏みはずした自転車の車輪のようにから回りする。

 身体は火照るが、頭は冷ややかだ。


「そうなのかな……私、辛かったのかな」

「え。……琉海、ちゃん?」

「じつは、たいしたことじゃなかったのかも」


 手がすべる。

 コップが倒れて机を転がり、地面に衝突してパリンと砕け散った。


「だってさ。なにも殺されたわけじゃなし。重りをつけて沈められたとか、そういうわけでもない。私ががむしゃらに逃げようとすれば、脱出できたのかもしれない。別にセンパイたちは私を死に至らしめるつもりはなかったはずだから。世のなかのイジメにはさ、もっと度を越したものがあるはず。室内だから、真冬の海みたいに凍死するわけじゃない。そもそも原因は、私のうかつな言動にあるわけだから、自業自得だよね。私の無自覚な発言が、部活メンバーを傷つけていたのかもしれない。その報いだとしたら、受け入れないといけない。元をただせば、県大会で天狗になる方に問題があるよ。ただ自分のためだけに泳ぐのなら、そこらのイルカと変わりないじゃない。人間じゃないよね。だからセンパイたちの行為も正当化されるのかもしれない。やっぱり、たいしたことじゃないよ。だいいち――」

「琉海!」


 ママが私を引き寄せ、真正面から胸に抱きしめて口を塞いだ。


「もういいから……頑張ったわね」


 私はその心地よい感触に目を閉じる。


「琉海ちゃん……余計かもしれないけど、ひとことだけ言わせて」


 奏が立ちあがる。

 耳は塞ぐものがなかった。


「琉海ちゃんは悪くないよ、決して」


 それっきり、奏は口をつぐんだ。

 そのまま十分間は沈黙が続き、私はやっと「帰る」とつぶやいた。





 空は濃紺と朱がいびつに溶け合い、雲はガスのように重々しい黒を帯びている。

 私は助手席から街の景色をぼうっと眺めるが、現実感を伴わず、夢のようにおぼろだった。


「……ゴメンね、ママ」


 私はこのところ、〝ゴメン〟ばかりな気がする。


「謝ることはなにもないのよ。帰ったら、すぐにご飯を作るわ。お風呂には入らなくてもいい。ゆっくりと寝るのがイチバンよ」


 ママはハンドルをにぎりながら、諭すように言った。


「夕食の手伝いは……」

「いいから」


 車内の暖房のせいか、気だるさに押しつぶされるようだった。全身から血がごっそり抜けたように気力がない。

 今はただ、眠りたかった。

 しかし、その前にひとつだけ解決すべき点がある。


「ね、ママ」

「どうかした?」

「聞かないの?」

「なにを?」


 ママは運転のためにこちらに顔を向けない。


「私が――どうしてひとつ、嘘をついたのか」


 一瞬の間。


「あなたが嘘をついたのなら、それには意味があるもの。すべてを語る必要はないわ。あなたは辛い目に遭った。そして今は休養中。それが伝わればいいのよ」


 意味。

 私は、どういう意図から嘘をついたのか。

 ただ、そうしなければならないと思った。


 それは、ゲームのルールについて。

 私は、奏にこう言った。

 〝私が顔をあげたら、さすまたで突き返す〟

 実際は、さすまたではなかった。


「きっと……奏が受け入れられる、ぎりぎりの境界線がそこにある予感がしたから。だから、とっさに内容をマイルドにしたのかな」


 石だった。

 石を、投げつけられた。

 数人がかりで、大小さまざまなつぶてを弾丸のようにぶち当てられた。

 ゲームのルールは、息を止める時間の長さではない。

 彼女らは、的当ての点数を競っていたのだ。

 その狙い方には執念すら感じた。

 とっさにプールに避難しないと、流血の可能性があり、目に入ったら失明の危険性もあっただろう。

 だから、死に物狂いで潜るしかなかった。


「私……もしかしたら、拒絶されるのが怖かったのかも」


 人間が許容できる悲劇には、限度がある。

 もし記憶から消し去りたいと思われたら、私の存在はいよいよ消えるのだから。

 あれ?

 何だか思考がおかしい。

 消えてもいいではないか。


「拒絶されるはずがないでしょう。誰が聞いても、あなたは被害者だもの。被害者が社会からつまみ出されたら、いよいよこの世の終わりよ」


 この世が終わってもいい。

 私には、ママという万能にして全なる味方がいるのだから。

 ママに認識された私が、私のすべてだ。

 他人からの評価など、どうでもいい。


「いい子よね、奏ちゃんは。きっと味方になってくれるわよ」

「もう合わせる顔はないけどね」

「奏ちゃんがあの店にいることはわかったわけだから、また会いに行けばいいわよ。謝罪という口実もあるしね。モチロン……琉海がまた元気になったら、だけど」

「うん……」


 いや。

 もう二度と行くことはないだろう。

 奏には申し訳ないことをした。

 わけのわからない言動をして、二度と会いたいとは思わないだろう。

 だいじょうぶ。

 その期待には添うことができるよ。

 私はもう、自発的には家を出ないから。

 やっと家に着き、私の身体はプログラムされたように車庫からポーチまでをふらふらとたどる。


「と、琉海。歩ける?」


 ママが手を差し出し、私はその手につかまった。

 暖かい。

 客観的には介護だが、自意識では恋人からのアプローチだと思い込むことにする。

 やっと、待望の家だ。

 私はママに続いて玄関をまたぎ、万感の思いをこめてつぶやいた。


「ただいま」


 そして、ドアを閉じる。


 鍵を閉めた。

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