04:マザコン娘はかたり出す(1)
「がばば……」
冷たく巨大な水の底。
真夜中のプールは気温が低く、闇がこごめている。
ここに連行されてから、もう一時間は経った。
どうして、こうなったのだろうとひたすら後悔する。
どこから踏みはずしたのだろう。
昔から、泳ぐことが好きだった。
七歳のとき、市民プールで初めて平泳ぎができたときは、ママがおおはしゃぎした。
ご褒美として買ってもらったたこ焼きは、とてつもない旨さだった。
その当時は生きていたパパも、めったにない笑顔をうかべていた。
以来、水中が好きになった。
ここが私の楽園だと確信した。
地上のような重力に縛られず、天使が空を舞うように人間は水中を遊泳することができる。
そこには雑多な喧噪がない。
空中のように墜落することもない。
蒼穹よりもずっと雄大なコバルトブルー。
ここでなら私は羽ばたける。
もういかなるものにも縛られることはない。
万能の空間。
そのはずだったのに。
今や、地獄に変貌していた。
幾重もの嘲笑がプールサイドから水面下に侵入し、くぐもったノイズとして耳を犯す。
彼女らにとって、これはゲームなのだ。だから躊躇がない。終わりもない。私がゲームオーバーになるまで。
私は胎児のように丸まりながら、ひたすら耐える。
頭がズキズキする。
さっきのは、当たりどころがまずかったらしい。
疼きはいや増すばかりだ。
どれほど泳ぎが上達しようとも、息継ぎができなければ無意味だとつきつけられる。
さきほど潜り直してから、どのくらい経っただろうか。
「がぱっ……」
肺と心臓には膨大な負担がかかり、苦悶が死の様相を呈する。
それは水からの拒絶/世界からの拒否/理想からの否定/現実における絶望だった。
もう持たない、息が。
酸素を……
私は浮上のために腕をかき回し、せめてもの抵抗としてプールの端っこから顔を出した。
「ぷはっ……!」
「お、来たぞ!」
八方から、スマートフォンのライトが目につきささる。
その私めがけて――
「どう? 楽になった、琉海?」
ママが私の背中をさすりながら言う。
「……うん」
お冷やを口に含ませるように飲み、イスにぐったりともたれた。割れた水風船のように。
ひどいことになったなあ、とまるで他人ごとのように思う。
カフェの裏手の休憩室は、さきほどまでのパニックから切り離されて静かだった。
あれから、奏がすぐに店主を呼び、〝落ち着くまでここにいていいから〟と言われた。叱責はなかった。
簡素なテーブルとパイプイス、6畳ほどのスペース。かすれたエアコンの音しかしない。
あの〝事件〟のときの、顧問との三者面談の雰囲気を思い出す。
どこか日常から追い出された感覚。
驚愕にひしゃげた奏の表情が焼きついたように脳裏から離れない。
多少の罪悪感はあるが、それより脱力感のほうが強かった。
奏は、私の粗相を掃除しているのだろうか。
よりにもよって飲食店で。まずい行為をした。食中毒の誹謗中傷につながらないことを祈るしかない。
店主は、表面的には穏やかだったが、内心は怒り心頭だろう。
まさか損害賠償? いや、そこまでなるはずがない。しかし迷惑はかけたわけだから……
ネガティブな思考がぐるぐると回り、コップの水の小さな気泡のように増殖しつづける。
「琉海。気にすることはないからね」
「……ゴメン」
ママが私の背中をさする。
私が甘かった。
まさか平日に昔なじみと出会うことは予想しなかったし、私の進学先を話題にされるとも思わなかった。
事ここに至り、再びある事実をつきつけられる。
私が前に出ようとしたとき、不幸が起こるのだ。しかも周囲を巻き込んで。
わかっていたのに。
知っていたはずなのに。
何度、同じことを……
ドアが開き、奏がわずかに顔を覗かせた後、静かに入ってきた。
私はふたたび硬直した。
どういう態度がふさわしいか。
謝るべきなのだが、そのテンションが問題となる。
あまり沈うつすぎると、謝意がないととられかねない。
「ゴメンなさい!」
その声は、奏のものだった。
謝罪会見のように頭をきっちり45度まで下げていた。
「え……」
私は、面罵がなかったことに面食らう。
「あの……いきなり一方的に喋っちゃって、ホントにゴメンなさい! 具合悪かったのに気づかないあたしは最低だし、何ならバイト中に話しこもうとするのも良くないし、たびたび注意されるんだけどなかなか治らなくて……。いったい、どうお詫びしたらいいのか」
その声は、号泣する間際のようにぼろぼろだった。
どうして謝罪を受けているのだろう。
旧友との再会という日常シーンを破綻させたのは、私なのに。
私の無反応を危機と受け取ったのか、ママが立ちあがり、遮るように割り入った。
「ううん。奏ちゃんが悪いわけじゃないの。ただ、ちょっと……タイミングが悪かったのよ。ええと……」
ママは傍目にもわかるほど狼狽している。
反対に、私は空っぽだった気力がわずかに戻りつつあった。
「あの……そう。ちょっと、薬の副作用があったと思うの……」
「薬?」
奏は怪訝な表情をうかべる。
ママはさらにあわてふためき、「あの」とか「えー」とかいうつなぎ言葉がどこにもつながらずにさまよった。
私は張り詰めていた気が抜け、ほっとする。
そうだ。ここにはママがいるのだ。
怖気づくことはない。
私は熱とだる気が引いた病みあがりの朝のようにすっきりとして、頭の回転を取り戻した。
「ママ」
私はママの服の裾を引っ張った。
「だいじょうぶ。私が自分で説明するから。もう吐き気もないし」
ママが片眉をしかめる。
「……どこまで、説明するつもりなの?」
「高校で起こったことを、そのまま。ある程度の範囲で」
「だ、ダメよ……」
ママの顔がぼろ紙のように皺くちゃになる。
「辛いことを思い出す必要はないし、ましては人に語る必要はもっとない。ほら、今日は帰りましょ。謝罪なら、日が経ってから改めて私がするから」
押さえつけるように両肩に手を置かれる。
「あなたはまず、平静を取り戻さないと」
そのとおりだ。
私は今、正気ではない。
その自覚はある。
精神がドン底に叩きつけられて、わずかにバウンスしたために宙ぶらりんになったにすぎない。また地面に衝突するのは明らかだ。
それでも。
「ママ。私はね、この場をごまかして、どう思われたかの後悔に囚われるよりも――いっそすべてを語ったほうが誠実だと思うし、後にひきずらないと思うの」
〝思うの〟とはいっても、どこまでが私の意思だろうか。
破綻しかない将来をいっときでも痛みによってごまかそうとする脊髄反射ではないのか。
ただ、奏の態度に悪意がないことはわかる。
その不器用さには、親しみすらわいた。
そして、彼女をその苦しみから解放させたいという使命感に囚われたのだ。
この場の〝罪人〟は私ただひとりなのだという自白によって。
「ね、奏。あまり愉快じゃない、どころかけっこう不愉快なエピソードだけど、時間があるなら聞いてくれる?」
「……それが、あたしの謝罪の代わりになるのなら」
奏は胸に手を添えて答えた。
「琉海。その行為には……何の得もないわ」
ママはいやいやをする幼児のように首を振った。
「これは私なりの誠意なんだから、得があったらおかしいよ」
私はコップの縁を指でなぞる。
「ね、ママ。きっと、後悔しないから」
「いいえ。後悔はするわよ、絶対に。だから止めているの」
「そっか。なら、後で慰めてくれる?」
「琉海……」
胸がチクリと痛む。
私が頑固なために、ことあるごとにママを悩ませる。
だが、これが私なのだ。
ママは、私の目に惑いがないことを確認したのか、やがてうなづいた。
「……わかったわ」
直後、ママは奏に向き合った。
「奏ちゃん。巻き込んだのは申し訳ないと思ってる。でも、ひとつだけ約束してほしいの――どうか、このことを言い触らさないで。店主さんにも、友だちにも、誰にも」
「は、はい。モチロンです」
奏はきっぱりと頷いた。
ママがイスに戻る。
私は、奏にテーブルの向こう側に座るように促した。
「ね。確認したいんだけど……奏は、私のことをどう思ってる?」
「そりゃあ……小学生の頃から運動神経バツグンの、憧れだったよ。今も、私のつたないイメージよりずっと美人だったし」
奏は伏し目がちになり、尋問を受けているかのようにか細い声になる。
「だから、あたし。うれしかったの!」
かと思いきや、いきなり突撃するように身を乗り出した。
「琉海ちゃんは、もう手の届かないところに行っちゃったと思ったから……」
「どうして、そう思ったの?」
「それは……」
奏はいっとき顔を伏せるが、振り子のようにまた戻す。
「あたし、学校ではパッとしないほうだから。取り柄もないし……」
目線が横にそれる。
縦やら横やら動作がじつに忙しない。
「手の届かない、か。ある意味、正解だよ」
「え?」
奏は首をかしげる。
「私はね、奏とはまるで異なる位置にいる。ただし、はるか下にね」
「それは、どういう……」
奏の瞳がゆれる。
「自主退学したの、私。二年生に進級する直前にね」
その見開かれた目は、ペンチで無理やりこじあげたかのようだった。
「現状は、学校には行かず、働くわけでもない。いわゆる〝ニート〟に分類されるのかな。だから、優等生とか以前にそもそも高校生ですらないわけだ」
ママは反応せず、沈黙に徹している。
「どうして……」
打ちのめされた奏の声は首を絞められたように、か細かった。
「どうしてなのか。それをイチバン知りたいのは私」
私はテーブルに肘をつき、組んだ手に顎を乗せた。
「なにが、あったの……」
「最初は順調だったの。寮で一人暮らしを始めて、慣れない環境だったけど、別に平気だった。顧問からの評価も良かったしね」
あの和気あいあいとした褒められようは、私の人生における、ちょっとしたバブルだった。
「ただ、その時の私は成績しか頭になかった。いかに早く泳げるか。いかにすばらしい実績を残すか。そのために、他の部員をお荷物とすら思った」
雰囲気はたちまち険悪になった。そのひび割れに気づいてはいたが、他の女子部員からどう思われようとも、シンクロをやるわけではないのだから平気だと自らをごまかした。
「でもね、集団というのは異物を許さない。私が愚かだったのは、能力さえあれば誰からも認められると誤信したこと」
最も偉い三年生の先輩がいた。
彼女はリーダーシップがあり、実力があり、人望があり、発言権があった。
そして、後から知ったことだが、男性顧問への恋心を秘めていた。
「いやな予感はしたよ。私が顧問から賞賛の言葉をもらうのに比例して、態度がとげとげしいものに変わったからね。ついには正面から言われたの――あまりつけあがると大けがするよ、って」
奏は生唾を飲み込んだ。
「それで、琉海ちゃんはどう対処したの?」
そこが境界線だった。
私は一歩後ろに引かなければならなかった。
「うかつにも、言っちゃたんだなあ」
ため息をついて、続ける。
「〝そんなにアピールしたいのなら、もっとフォームと呼吸を改善すればいいじゃないですか。センパイ、このところ練習がおろそかですよ〟って」
言い訳になるが、反発したかったわけではない。
あろうことか、完全に善意のアドバイスのつもりだった。
だから、気づかなかったのだ。
私が、地雷を踏みぬいたことに。
「そこから、状況が一変したの」
それは、木々の葉が枯れはじめる季節の変わり目から始まった。




