02:マザコン娘は診察される
待合室には、柑橘系の匂いがいつも漂っている。
私が通いはじめた頃から変わらないアロマだ。
クリニックのオリジナルブレンドらしいが、さほど興味はなかった。
それよりも、ママが隣にいると堪能できる香りのほうがよい。
南国の花のような甘ったるさは、待ち時間の苦痛を和らげてくれる。
私としてはママの普段使いの香水を入手して、寝るときマクラに垂らしたりしたいのだが、何度頼んでも黙秘されていた。
それが残念でならない。
「琉海、だいじょうぶ? 寒くない?」
横から暖かい言葉をかけられる。
ママはやたら寒がりなので、室内でもマフラーを巻きつけたままだった。
私はむしろ暑がりなので、室外でもコートを羽織らない主義である。
「うん。問題ないよ」
私はとなりの肩に頭をもたせかけ、頬にママのマフラーの柔らかさを感じながら目を閉じた。
「今日も人がすごいわね。最初に来たときは、ここまでじゃなかったような……」
ママが小声でささやき、あたりを見回す。
平日にもかかわらず座れない人がいるほどの密度は、さながら幽霊の行列だ。
「あと一年もしたら、倍になるかもね」
テキトーに相づちを打つ。
思うに、医療機関に訪れる人々は、異物を自らに取り入れるのが目的なのだ。
薬しかり、鎮痛剤しかり。
手術であれば縫合糸、移植であれば臓器。
現状をどうにかしたいとき、彼ら彼女らは何らかの反応を望む。
悪化する可能性があるとしても、なにもしないよりはマシだと信じて。
それがカウンセリングの場合は、医師の言葉を取り入れることとなる。
社会に適応するための絵空事を頭に刷り込ませるために。
「……っだらない」
「え?」
「何でもないよ。ただ、今日の夕飯は何だろう、って」
「えっと……昨日も言ったとおりのシチューだけど」
「あ。じゃあ私、具材切るね」
「それはいいけど、小さめにね。あなたのはだいぶ大ぶりだから」
「はぁい」
〝大きいに越したことはないよ。ママの胸みたいにね〟と言いかけたが、さすがに自重した。
ああ。さっさと家に帰りたい。
あのふたりきりの空間へ。
院内が混雑していようとも閑散していようとも私には関係なかった。
ママがいるかいないか。
それだけ。
その他は異物にすぎないのだから。
「琉海さん。勢見月 琉海さん。診察室へどうぞ」
「あ、はい」
看護師の呼びかけにママが立ちあがり、私は支えを失った。
医師の診察を受けるため、私もひとりで身を起こす。
社会復帰の一過程という忌々しい儀式に参加するために。
「やあやあ、琉海さん。この間ぶり! どう、変わりはない?」
「……あ、はい」
年若い医師の無駄な明るさに気圧されて、ついどもった。
毎回、そうなってしまう。
目の前の女性が首から下げたカードには、〝双樹 沙羅〟とある。
二十代後半だと思うのだが、ホームページにはナントカ会やらナンチャラ認定やらの経歴がびっしりだったのが印象的だった。
実際、すご腕なのだとは思う。
ただ、目の前の人物が白衣を脱いだとしたら、綺麗めのお姉さんでしかない。
そのギャップ感が苦手なのだ。
「よし、よし。まず元気がイチバンだからね」
双樹医師はいつものようにカルテと私の顔を交互に眺める。
隅っこにある空気清浄機のうなりを除いて無音の診察室は、私にはどうにも落ちつかなかった。
「じゃあ、いつものやつ。ほら、腕を出して」
私が腕を出すと、彼女に指で手首の脈を取られた。
「ふむふむ。血の巡りは申し分ないね。あれからお風呂はどう?」
「……やっぱり、ひとりだとダメでした。ただ、入浴できる時間は伸びた……と思います」
「そっかぁ。ま、焦ることはなし。僅かずつでも前に進むことが大切だからね。一日一歩、三日で三歩」
「……それ、二歩下がるやつじゃないですか」
「お。いいね、鋭いツッコミ。私からイッポン取れるなら大したものだよ。あははは」
双樹医師はカラカラと笑った。
悪い人ではないのだ。
明るいし、優しげだし、取り立てて欠点がない――ただひとつを除いて。
「どうですか、紅愛さん。親としての視点からは」
双樹医師は身体をずらし、私のやや後方で座っているママに問いかける。
「琉海は相変わらずですよ。私をからかうことが趣味みたい」
「あはは。紅愛さんみたいに魅力的な人をいじれるのは、娘の特権でしょうね」
これだ。
紅愛さん。
その響きを他人が口にするときが最も不快にさせられる。
私が呼ぶことを許されないその名を、愛情もなしに発音できるのなら、娘という立場はいらなかった。
だが、娘でなければ彼女のそばにいることは許されない。
その矛盾が私を苛む。
それを表立ってぶちまけることができれば、どれほど楽だろう。
「どう? やりたいこととか、できた?」
「……特には」
かつては水に浮かぶ気持ちよさに憑かれていたが、私が今いるのは水底の暗黒なのだ。
「そっかぁ。趣味があれば、それだけでもちがうけどね」
「センセイには、あるんですか?」
「あるよぉ。シネマで大画面の映画観たり、カフェに出かけたり、古着を買いあさったり」
「そういうのも、趣味に分類されるんですか? 私のイメージだともっとこう……わき目もふらずに没頭できるものじゃないと」
「マジメだね~。でもさ、気楽に時間をすごせるものなら、何でもありだと思うよ。日がな一日、雲を眺めながらぼうっとすごすのでも、それでリラックスできるのなら、よし」
「……気力がなくても、形から入るのはありでしょうか」
「モッチロン!」
双樹医師が白い歯を光らせる。
「なら……ママと試してみます。映画とか、カフェとか」
「え」
ママが虚をつかれて目をパチクリさせる。
「る、琉海。別に、言われたとおりにすることはないのよ。今は家でもできることは目いっぱいあるし……」
「まあ、まあ。ちょっとでもやる気があるのなら実行あるのみですよ。私だって、母親とはたまに出かけたりしますしね。まあ、映画の感想の食いちがいでバチバチに喧嘩することもありますけど」
「はあ……」
ママがいぶかしげな視線を私に投げる。
双樹医師が例に挙げたのは、どれも外出を伴うものだ。
つまり私が避けているもの。
私は、初日の診察での内容を思い出していた。
あのとき、彼女はこう言ったのだ。
「人間の向かうところには二種類あるんですね。光と闇。光というのは社会へ冒険に出て他者と交流すること。闇というのはその反対ですから、家へこもって保護的な圏内で過ごすこと。エーリッヒ・フロムという学者が語った内容なんですけどね」
そのときの私は口もきけず、ただ人形のように黙していた。
「でも……琉海は早急に連れ戻さないといけなかったんです。事態が極限まで悪化したのは、私の責任ですから……」
ママと双樹医師による受け答えはペースを増していて、焦燥の気配がした。
「ええ、わかっています。琉海さんには休養が大切です。長い長い準備期間としての休養が。骨折をした人は、まず病院のベッドから出ずに安静にします。現実のケガとちがうのは、完治何ヶ月という概念がないことですが。私が語りたかったのは、その後のリハビリについてです」
「琉海は……あまりにも傷つきすぎました。私のせいなんです。娘の笑顔がどんどん失われていくのに気づいていながら、なにもできなかった。学費の返還だとか世間の後ろ指だとか、娘そのものに比べればちっぽけなことだから、気に病むことはなかったのに……」
ちっぽけではない。
学費が相当な金額だったことは私でもわかる。
それを、シングルマザーである彼女に背負わせたのだ。
その罪は重い。
私は顔を伏せたまま、家財を壊してしまった幼児のように目をつむるしかなかった。
「紅愛さん。あなたの母親としての役割は、基盤としての愛を施すことです。いずれまた他者と何気ない交流ができるように……長い道のりになります。それは半年後かもしれないし、一年後かもしれない。あるいは、もっと先かもしれない」
「愛といわれても……親失格の私にいまさらなにが……」
ママの顔がさらに曇る。
「無理に役割を演じずとも、ただ琉海さんの望みに応じればいいのです。親でいられないのなら友だちでいい。さらに関係性を発展できるのなら親友になり、さらなる愛情を乞われるならのなら恋人になってもいい」
「でも、それはまさにセンセイが語る、闇に向かうということじゃ……」
「人間、クラウチングスタートを切るためにすこし後ろに下がることがあります。紅愛さんが娘さんと触れ合うことで、いずれは現実の友だちを、親友を、そして恋人を獲得できるようになるはずです。それが寛解への最善のルートになると私は信じています」
そこから、ママの態度が変わった。
以前よりはるかに会話するようになった。
それでも、その陰には怯えがある。
その正体について、はっきりとはわからない。
ただ……
「わかりました。なら、私は琉海の望む私になります。この子がもう一度歩き出せるように……」
つまり、ママは私にとっての〝薬〟になったのだ。
投与量を誤れば〝毒〟になりかねない〝薬〟へと。
薬局で処方箋の薬――気休め程度の睡眠薬――を受け取るころには、もう正午すぎだった。
十二月の半ば。外気は凍てついている。
「はあ……さっさと帰らないとね。お腹、すいたでしょう」
ママは間断ない突風に肩を震わせながら、言った。
「ん」
私はママの前にスマートフォンの画面を突き出す。
「えっと……あの、これは?」
「カフェ」
「え」
「ここにしよう。クレープもあるから、ママも気に入るはず」
そこは、じつを言うと私が前々から当たりをつけていた店だった。
天井が高く、閑静な住宅街の合間にあり、ネットでの評判もいい。
なにより、店名がおもしろかった。
「いや……もしかして、今から?」
「そう。試してみるって言ったでしょ? 映画とか、カフェとか」
「でも、いいの?」
「いいもなにも、ただ食べるだけの行為に躊躇する理由はないでしょ。プールに行くわけじゃなし」
「そう……」
ママの懸念はわかる。
三ヶ月も引きこもりだった私が、なぜ心変わりしたのかが心配なのだ。
連れ戻されてからからずっと、ママに誘われても診察の他は外出を頑なに拒否していた。
それがなぜいきなりアクティブになったのか、正直なところ私自身にもわからなかった。
医師に触発されたのか。
将来の憂いをごまかそうとする心理の顕れか。
「そうよね。外食もひさしぶりだし……糖分は悩みを吹っ飛ばすのにうってつけよね」
ママが朗らかになる。
そうだ。
どうして忘れていたのだろう。
ママは大の甘党だったではないか。
「そう、そう。たまになら、ママが体重計のメーターを吹っ飛ばすこともないしね」
私は内心をごまかすように軽口を叩く。
「む……」
ママに睨みつけられる。
今さら気づいた。
ママは、ずっと私の味覚に献立を合わせていたのだ。
デザートくらい、ひとりで買って食べればよかったのに。
「じゃあ行こうよ、ママ」
車の助手席に乗り込む。
やはり、私は一歩を踏み出さなければならなかったのだろうか。
外へ、光へ向かうために。
私がいると、ママからあらゆるものを奪い取ってしまう。
あの幼少期の日のように。
私は、それを自覚していたはずなのに。
ママが車のエンジンをかけると、カーテレビから芸人のけたたましい笑い声が飛び出した。
その過剰さは、彼らの愉快さがフリであることを示していた。




